心の落とし物

緋色刹那

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夏編③『水平線の彼方、青色蜃気楼』

第二話「乙姫の心臓」⑷

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 秋色インク。実物こそ見たことはないものの、由良にとっては思い出深い一品だった。
 その作り手が今、目の前にいる……紅葉谷が知ったら、さぞ驚くことだろう。
 彼曰く、秋色インクの作り手は「個人で作っている」という事以外、謎に包まれているらしい。名前も、性別も、年齢も、何処に住んでいるのかも分からなかった。
「あの……」
 由良が日向子顔負けの追求をかまそうとしたその時、
「ねぇ、」
 と、それまで金魚に夢中になっていた常連客の少女が、由良の背中を後ろからぽんぽん叩いた。
「それ、カツオノエボシじゃないの?」
「カツオノエボシ?」
「お姉さん、さっき言ってたでしょ? 透明な袋に入った、青いぶよぶよの何かが浜辺にあったって」
「お嬢ちゃん、知ってるの?!」
 女性は目を剥き、立ち上がる。
 尋常でない彼女に動じることなく、少女は淡々と青い塊の正体を答えた。
「カツオノエボシはね、クラゲに似た猛毒もーどくの生き物なんだよ。触ると刺されるから、近づいちゃいけないんだって。"刺されたら、最悪死ぬぞ"っておじいちゃんが言ってた」
「……」
「……」
 衝撃的な正体に、大人二人は絶句した。
 互いに顔を見合わせる。危うく触りかけた女性に至っては、顔面蒼白になっていた。
「怒ってこられたおじさん、いい人だったんですね」
「……うん」



 女性はショックが癒えぬまま、苦笑した。
「何はともあれ、本当の名前を知れて良かったです。教えてくれてありがとね、お嬢ちゃん」
「……」
 女性は少女に礼を言ったが、当の本人は「話は終わった」とばかりに、金魚観察を再開していた。
「カツオノエボシかぁ……悪くはないけど、個人的には乙姫の心臓の方が気に入ってるんだよなぁ……」
「どちらの名前で売られているか、楽しみにしていますね。そちらのインクは、今年のオータムフェスでも売られるんですか?」
「えぇ、そのつもりです。何処のお店に置くかは秘密ですが」
「秘密、ですか?」
 女性は「だって、」といたずらっぽく微笑んだ。
「オータムフェスは骨董市ですもの。お目当てのお宝は自分の足で探し当ててこそ、価値が生まれるでしょう?」

 そう言い残し、女性はパッと消えた。
 女性が机に広げていた持ち物も、一緒に消え失せていた。
「……お嬢ちゃんは、さっきのお姉さんが見えてたの?」
 少女は不思議そうに首を傾げた。
「誰のこと? 私とお姉さんしかいないよ。カツオノエボシのこと、電話で誰かと喋ってたんでしょ?」
 どうやら、少女は由良が今まで誰かと電話で話していたと思い込んでいたらしい。
 由良は「変な人だと思われなくて良かった……」と内心、ホッとした。
「それにしてもお嬢ちゃんのおじいさんって、お魚に詳しいんだね。私もカツオノエボシなんて知らなかったよ」
「まぁね。それがお仕事だから」
 少女は得意気にニンマリと笑った。
「魚に詳しい仕事……お魚屋さん?」
「ううん、金魚屋さん。商店街で金魚楼ってお店やってんの」
「……なるほど」
(どうりでしっかりしてると思った)
 金魚楼の主人は相手が子供であろうと、言わなければならないことははっきり言う。金魚を購入してから何度か金魚楼へ足を運んだが、叱られて泣いている子供を何度か見た。
 由良は少女の大人びた物言いと態度の理由に、納得がいった気がした。
「将来は絵本作家と金魚楼の社長です」
「頑張れー」
 少女は今日の分の絵日記を描き終えると、他のお客が来るまで人魚姫の絵本を金魚に読み聞かせていた。凝った絵の絵本で、ところどころがラメで輝いていた。
 金魚達は興味深そうに、絵本に描かれた人魚の絵をジッと見つめている。「また人魚に変わらないか」と由良は冷や冷やしながら、その様子を見守っていた。
 例のインクが「カツオノエボシ色」という名前で売られたか、はたまた「乙姫の心臓色」なる名前で売られたかは、秋のお楽しみということで。



(夏編③『水平線の彼方、青色蜃気楼』第三話へ続く)
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