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逆縁
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養鶏場で買った卵で卵かけご飯の朝食を再開させてから、昼になって空腹でお腹が鳴るということは回避することができた。だが、全然お腹が空かないというわけじゃなくて、軽くお腹空いたなと感じるくらいでおさまっている。
今朝は早起きをして、卵かけご飯と昨夜作って残っていた味噌汁の朝食だった。栄養もあるし、腹持ちもよくていい。
それに弁当も作ってみた。卵焼きを作りたかったが、炒り卵になってしまったのは初めてだから目をつぶる。あとは前日の夕食の残りの回鍋肉を入れてきた。
昼休憩になると、茜はいそいそと弁当を取り出した。弁当箱は持っていないから、適当なタッパーに詰めた。続けられそうなら、弁当箱を買う予定だ。
「ハチ、お前も弁当か?」
「あらーいいわね。アタシ料理は全然だから、憧れちゃうわ」
「私も全然ですよ。今日だって卵焼き作ろうと思ったら炒り卵になったし」
「炒り卵作れたら充分よ。生前台所に立ったことがなかったから、未だに作れる気がしないのよねぇ」
ふうっと麗がため息をつく。前に箱入り娘だったと聞いていたが、それは本当のお嬢様かお姫様だったんじゃないかと思う。綺麗に手入れされた指先も、上品な服装選びも、それを裏付けているように思えた。
「卵焼きなら、専用のフライパンを使えば簡単だぞ」
「そんなのあるんですか?」
「ああ」
隣で弁当を広げる神代がそう言う。広げられた弁当は、きちんとランチクロスの上に置かれ、彩り豊がだ。肉団子にアスパラの炒め物、定番の卵焼きにミニトマト。ご飯の真ん中には梅干しが乗っている。
自分の持ってきた弁当を見ると、ランチクロスまで頭が回らなかったし、そもそもそんなもの持っていない。炒り卵と回鍋肉は持ってくる間に混ざり合っていて、賑やかだ。
「なんか、これを神代さんの横で食べるの嫌なんですけど」
「腹に入れば同じだろう」
「そうですけど」
「それより彩りが少ないな。ミニトマトやろうか?」
神代が弁当をこちらに差し出す。どうせなら手作りであろう肉団子か美味しいとわかっている卵焼きがいい。こちらから差し出すものはなにもないが。
「いや、いいです」
「トマト嫌いか?」
「トマトは大丈夫なんですけど、ミニトマトが苦手で」
「そうなのか」
「なんか皮を破ってぷちっと出てくる感じが、人の皮膚を思いっきり噛んだみたいで」
「なんだそれ。吸血鬼か」
神代の弁当が元いたランチクロスの上に戻っていく。
なんでだかわからないが、ミニトマトは苦手だ。一度買ってみて、その触感がダメで天真にあげたことがあった。
「生前でも苦手だったのかもな」
「かもしれないですね」
こうやって生前のことに繋がっていくものを発見できるのは嬉しい。たとえ苦手なものでも、「八巻茜」という人間が生きていたということだ。
回鍋肉に混ざってしまって、味噌味になった炒り卵を食べる。回鍋肉はレトルトの素を使っているから、味がいいのは当たり前だ。
「ご飯には梅干しをいれるといい。痛むのを防いでくれる」
「そういう理由があるんですね」
「ああ」
脳内の買うものリストに、梅干しも登録する。
一週間毎日弁当を作るのはキツいかもしれないが、2、3日なら続けられそうだ。弁当のおかずになりそうなものを作った翌日は、弁当の日としてもいい。
なんだか充実してるなと思いながら、今日の昼休憩は過ぎていった。
嫌にざわついているなというのが、最初の感想だ。
いつもの時間になったから、神代と転生の扉に向かった茜を待っていたのは、いつも冷静な転生課の職員たちが少し慌てている光景だった。
すぐに神代が近くにいた職員を掴まえて、聞く。
「なにかあったのか?」
「あ、神代さん。連絡が取れない転生予定者がいて」
「なに?」
消滅防止のために、最近転生課では十五時を過ぎても来ない転生予定者に連絡をしているらしい。だいたいが向かっている途中だったりして、今まで連絡がつかないということはなかったという。
「名前と住所をくれ。俺たちが向かう」
「お願いします」
「行くぞ、ハチ」
「はい!」
印刷された転生予定者を住所と名前を確認して、神代が早歩きで転生の扉を後にする。
「こいつがここに来たら連絡くれ」
「わかりました」
歩きながら、神代がスマホに住所を打ち込む。
「ここから三駅か。間に合うな」
「はい」
小走りで役所を出て、すぐに来た電車に伸び乗る。
和久井貴之。享年十八歳。死因自殺。
神代から見せられた紙には、そう書いてあった。死因に嫌な予感がする。
このまま見つけられなかったら、川井のように消滅してしまう。タイムリミットは約一時間。電車のスピードが遅く感じられて、茜は焦る気持ちをおさえられないでいた。
「ハチ」
「はい」
「消滅だけは回避するぞ」
「わかってます」
電車が該当駅に到着する。ドアが開いた瞬間、神代と飛び出した。そこから全力で走る。神代の走るスピードについていくのは大変だったが、それでも離されるわけにはいかない。消滅する人はもう出したくないのだ。その一心で食らいついた。
少し先を走る神代が、ある古いアパートの前で止まる。追いついて、呼吸を整えると、息一つ乱していない神代が、振り向いた。
「いいか、ハチ」
「はい」
「相手の背景は考えるな。ただ俺たちは俺たちの仕事をする。いいな」
「はい」
茜に言い聞かせるように言って、神代が階段を上る。茜もそれに続くが、普段走ることなんてない上に全力疾走をして足が笑いそうだった。
「208号室。一番奥だな」
一番奥の玄関の前に立つと、神代が迷わずチャイムを連打する。
「和久井さん。いませんか? 役所の者ですが」
チャイムの音の余韻が消え、シンっと静かになる。不在だろうか、今役所に行っていて、入れ違いになったのだろうか、そうであって欲しいと思ったとき、神倉が鋭い声をあげた。
「中にいる」
「え?」
「ハチ、離れてろ」
「神代さん?」
それだけ言ったと思ったら、神代がいきなりドアを蹴り出した。古いアパートは鉄の扉ではなく、神代が蹴るたびに激しく揺れた。何度か蹴ってドアノブを蹴って壊すと、素早く中に入る。茜も遅れないように、それに続いた。
「和久井さん。いるのはわかってますよ」
暗い室内に、人の気配がするのがわかった。遠慮なく奥へ進む神代が、壁にある明かりの電源を入れると、ぱっと明るくなる。
小さな悲鳴が聞こえて、部屋の隅に中年女性がいるのが見えた。
「だ、誰ですか、あなたがたは!」
ヒステリックに叫ぶ女性に、茜は神代を見る。今自分たちが探しているのは、十八歳の少年だ。女性ではない。この人は誰なのだろうかと思っていると、神代の中では答えが出たらしい。
「和久井貴之さんの母親だな?」
「そ、それがどうしたっていうのよ」
叫ぶ女性の背後で、毛布の固まりが動く。それを見て、神代が素早く動いた。女性を押し退けて、毛布をはがす。
そこには細身の少年が静かにうずくまっていた。
「和久井貴之さんですね?」
神代の問いに、少年がこくりと頷く。
「今日あなたの転生日です。役所に来て、転生の扉をくぐらないといけません。ご同行願えますね?」
「はい」
少年は素直に頷くと立ち上がった。ひょろりとした身体は、風が吹いたら飛ばされそうで、見ていて不安になる。
「ハチ。お迎え課に応援を頼んでくれ。バイクが速い」
「わかりました」
急いでスマホを取り出して、役所の番号を呼び出す。ワンコールで麗が出た。
「はい、輪廻転生あん」
「麗さん、八巻です! 急いでお迎え課に応援お願いします。住所は」
茜の言葉に、電話の向こうの麗がすぐに察する。住所も一度言っただけで聞き取ってくれた。
「神代さん、応援お願いしました」
「よし。和久井さん、お迎えがすぐに来ますので」
「ダメよ!」
叫んだのは母親だった。和久井少年に抱きついて、自分の方へと寄せる。
「せっかく会えたのよ! 貴之ちゃんを離すもんですか!」
「おかあさん」
「大丈夫よ。お母さんが守ってあげますからね」
母親がギっと神代と茜を交互に睨む。
その光景に、神代がぼそりと呟いた。
「逆縁か……」
それがなにかはわからないが、この目の前で繰り広げられていることの原因なのかもしれない。
あとで質問しようと思って、茜はお迎え課に早く来て欲しいと願った。
「和久井さん。息子さんは今日転生しなければ、消滅してしまいます」
「しょう、めつ?」
「ええ、輪廻の輪から消え、あなたの記憶からも消えます」
「そんな……」
「縁があれば、来世で会うこともできます」
神代の言葉に、母親が脱力して座り込む。その隙に、神代は和久井少年を引き離した。
外からバイクの音が聞こえてくる。お迎え課が来たということだ。
すぐに階段を駆け上る足音が聞こえてきて、開けっ放しの玄関から天真が顔を出した。
「天真?」
「お迎えにきました。お迎え課の天真です」
「時間がない。この人を役所まで連れてってくれ」
「わかりました」
天真は茜を見るとふっと笑って、和久井少年の手を取る。
「いや、いやよ! 貴之ちゃん! 貴之ちゃん!」
床を這うようにして、息子の名前を呼ぶ母親に、和久井少年が振り返る。
「おかあさん」
「貴之ちゃん」
「さよなら」
そう言うと、和久井少年は天真の手を引くようにして外に飛び出した。そうして外に出てすぐ、バイクの音がする。それは空へと浮いていき、遠ざかっていく。
「行ったな」
「そうですね」
時計を見ると残された時間は後少しだが、間に合わないほどではない。これであの少年は消滅を免れたと、仕事はこれでを終わりだと茜が思っていると、神代が母親に声をかけた。
床にうずくまっている母親は、全てのことを拒絶するかのように声を上げて泣いている。
「あなたはここの区画の人間ではないですね?」
神代の冷徹な声が母親に降り注ぐ。その言葉に、母親の泣き声はぴたりと止んだ。
「だって、貴之ちゃんが……」
「言い訳は聞きません。区画移動は自由ですが、転居は禁止だとご存じなかったんですか?」
「そ、それは」
「ここは現世ではないので、一度なら罪に問われません。二度とこのようなことをしないように、心にとめておいてくださいね」
にこやかに、冷徹に、神代はそれだけ言うと、くるりと踵を返した。
「ハチ、帰るぞ」
「え、あ、はい。あのお母さんの方は……」
「生活案内課に報告する。自分で戻らなければ、強制的に戻されるだけだ」
外に出ると、神代の電話が鳴って、和久井少年が無事転生の扉をくぐったという報告が来た。それを聞いて、茜はほっとした。消滅は免れたのだ。
駅への道を今度はゆっくり歩きながら、茜は先ほどの疑問を神代に問うた。
「あの、神代さん。質問なんですけど」
「なんだ?」
「逆縁ってなんですか?」
「ああ、子どもが親より先に死ぬことだ」
「だから、和久井さんはお母さんより先に転生するんですね」
親より先に死んだのだから、先に転生する。それはここでは当たり前のことだ。
だけど、現世で自分より先に死んだ息子を、あの世でも見送らないといけない母親はどんな気持ちだったのだろう。
「ハチ」
「はい」
「言っただろう。背景は考えるなと」
「そうですけど」
「消滅は免れた。あのままだったらあの母親自身に消滅させられていたところだ」
きっと転生課が気づかなければ、和久井少年はあのままあの部屋で毛布にくるまっていたままだろう。そして十七時を過ぎれば砂のように消えてしまっていた。
そう思うとぞっとする。
「でも、せっかくお母さんと会えたのに」
「ここにはここの規則がある」
茜よりずっと多く消滅を見てきた神代は、そうやって自分に言い聞かせていたのだろうか。ここでの規則だから、情だけではどうにもならないことがあると。
母親にとっては辛い結末だが、結果としては消滅防げてよかったと言える。なにが正しいかはわからない。
これが正しかったのだと、自分に言い聞かせて茜は黙って駅までの道を歩いた。
今朝は早起きをして、卵かけご飯と昨夜作って残っていた味噌汁の朝食だった。栄養もあるし、腹持ちもよくていい。
それに弁当も作ってみた。卵焼きを作りたかったが、炒り卵になってしまったのは初めてだから目をつぶる。あとは前日の夕食の残りの回鍋肉を入れてきた。
昼休憩になると、茜はいそいそと弁当を取り出した。弁当箱は持っていないから、適当なタッパーに詰めた。続けられそうなら、弁当箱を買う予定だ。
「ハチ、お前も弁当か?」
「あらーいいわね。アタシ料理は全然だから、憧れちゃうわ」
「私も全然ですよ。今日だって卵焼き作ろうと思ったら炒り卵になったし」
「炒り卵作れたら充分よ。生前台所に立ったことがなかったから、未だに作れる気がしないのよねぇ」
ふうっと麗がため息をつく。前に箱入り娘だったと聞いていたが、それは本当のお嬢様かお姫様だったんじゃないかと思う。綺麗に手入れされた指先も、上品な服装選びも、それを裏付けているように思えた。
「卵焼きなら、専用のフライパンを使えば簡単だぞ」
「そんなのあるんですか?」
「ああ」
隣で弁当を広げる神代がそう言う。広げられた弁当は、きちんとランチクロスの上に置かれ、彩り豊がだ。肉団子にアスパラの炒め物、定番の卵焼きにミニトマト。ご飯の真ん中には梅干しが乗っている。
自分の持ってきた弁当を見ると、ランチクロスまで頭が回らなかったし、そもそもそんなもの持っていない。炒り卵と回鍋肉は持ってくる間に混ざり合っていて、賑やかだ。
「なんか、これを神代さんの横で食べるの嫌なんですけど」
「腹に入れば同じだろう」
「そうですけど」
「それより彩りが少ないな。ミニトマトやろうか?」
神代が弁当をこちらに差し出す。どうせなら手作りであろう肉団子か美味しいとわかっている卵焼きがいい。こちらから差し出すものはなにもないが。
「いや、いいです」
「トマト嫌いか?」
「トマトは大丈夫なんですけど、ミニトマトが苦手で」
「そうなのか」
「なんか皮を破ってぷちっと出てくる感じが、人の皮膚を思いっきり噛んだみたいで」
「なんだそれ。吸血鬼か」
神代の弁当が元いたランチクロスの上に戻っていく。
なんでだかわからないが、ミニトマトは苦手だ。一度買ってみて、その触感がダメで天真にあげたことがあった。
「生前でも苦手だったのかもな」
「かもしれないですね」
こうやって生前のことに繋がっていくものを発見できるのは嬉しい。たとえ苦手なものでも、「八巻茜」という人間が生きていたということだ。
回鍋肉に混ざってしまって、味噌味になった炒り卵を食べる。回鍋肉はレトルトの素を使っているから、味がいいのは当たり前だ。
「ご飯には梅干しをいれるといい。痛むのを防いでくれる」
「そういう理由があるんですね」
「ああ」
脳内の買うものリストに、梅干しも登録する。
一週間毎日弁当を作るのはキツいかもしれないが、2、3日なら続けられそうだ。弁当のおかずになりそうなものを作った翌日は、弁当の日としてもいい。
なんだか充実してるなと思いながら、今日の昼休憩は過ぎていった。
嫌にざわついているなというのが、最初の感想だ。
いつもの時間になったから、神代と転生の扉に向かった茜を待っていたのは、いつも冷静な転生課の職員たちが少し慌てている光景だった。
すぐに神代が近くにいた職員を掴まえて、聞く。
「なにかあったのか?」
「あ、神代さん。連絡が取れない転生予定者がいて」
「なに?」
消滅防止のために、最近転生課では十五時を過ぎても来ない転生予定者に連絡をしているらしい。だいたいが向かっている途中だったりして、今まで連絡がつかないということはなかったという。
「名前と住所をくれ。俺たちが向かう」
「お願いします」
「行くぞ、ハチ」
「はい!」
印刷された転生予定者を住所と名前を確認して、神代が早歩きで転生の扉を後にする。
「こいつがここに来たら連絡くれ」
「わかりました」
歩きながら、神代がスマホに住所を打ち込む。
「ここから三駅か。間に合うな」
「はい」
小走りで役所を出て、すぐに来た電車に伸び乗る。
和久井貴之。享年十八歳。死因自殺。
神代から見せられた紙には、そう書いてあった。死因に嫌な予感がする。
このまま見つけられなかったら、川井のように消滅してしまう。タイムリミットは約一時間。電車のスピードが遅く感じられて、茜は焦る気持ちをおさえられないでいた。
「ハチ」
「はい」
「消滅だけは回避するぞ」
「わかってます」
電車が該当駅に到着する。ドアが開いた瞬間、神代と飛び出した。そこから全力で走る。神代の走るスピードについていくのは大変だったが、それでも離されるわけにはいかない。消滅する人はもう出したくないのだ。その一心で食らいついた。
少し先を走る神代が、ある古いアパートの前で止まる。追いついて、呼吸を整えると、息一つ乱していない神代が、振り向いた。
「いいか、ハチ」
「はい」
「相手の背景は考えるな。ただ俺たちは俺たちの仕事をする。いいな」
「はい」
茜に言い聞かせるように言って、神代が階段を上る。茜もそれに続くが、普段走ることなんてない上に全力疾走をして足が笑いそうだった。
「208号室。一番奥だな」
一番奥の玄関の前に立つと、神代が迷わずチャイムを連打する。
「和久井さん。いませんか? 役所の者ですが」
チャイムの音の余韻が消え、シンっと静かになる。不在だろうか、今役所に行っていて、入れ違いになったのだろうか、そうであって欲しいと思ったとき、神倉が鋭い声をあげた。
「中にいる」
「え?」
「ハチ、離れてろ」
「神代さん?」
それだけ言ったと思ったら、神代がいきなりドアを蹴り出した。古いアパートは鉄の扉ではなく、神代が蹴るたびに激しく揺れた。何度か蹴ってドアノブを蹴って壊すと、素早く中に入る。茜も遅れないように、それに続いた。
「和久井さん。いるのはわかってますよ」
暗い室内に、人の気配がするのがわかった。遠慮なく奥へ進む神代が、壁にある明かりの電源を入れると、ぱっと明るくなる。
小さな悲鳴が聞こえて、部屋の隅に中年女性がいるのが見えた。
「だ、誰ですか、あなたがたは!」
ヒステリックに叫ぶ女性に、茜は神代を見る。今自分たちが探しているのは、十八歳の少年だ。女性ではない。この人は誰なのだろうかと思っていると、神代の中では答えが出たらしい。
「和久井貴之さんの母親だな?」
「そ、それがどうしたっていうのよ」
叫ぶ女性の背後で、毛布の固まりが動く。それを見て、神代が素早く動いた。女性を押し退けて、毛布をはがす。
そこには細身の少年が静かにうずくまっていた。
「和久井貴之さんですね?」
神代の問いに、少年がこくりと頷く。
「今日あなたの転生日です。役所に来て、転生の扉をくぐらないといけません。ご同行願えますね?」
「はい」
少年は素直に頷くと立ち上がった。ひょろりとした身体は、風が吹いたら飛ばされそうで、見ていて不安になる。
「ハチ。お迎え課に応援を頼んでくれ。バイクが速い」
「わかりました」
急いでスマホを取り出して、役所の番号を呼び出す。ワンコールで麗が出た。
「はい、輪廻転生あん」
「麗さん、八巻です! 急いでお迎え課に応援お願いします。住所は」
茜の言葉に、電話の向こうの麗がすぐに察する。住所も一度言っただけで聞き取ってくれた。
「神代さん、応援お願いしました」
「よし。和久井さん、お迎えがすぐに来ますので」
「ダメよ!」
叫んだのは母親だった。和久井少年に抱きついて、自分の方へと寄せる。
「せっかく会えたのよ! 貴之ちゃんを離すもんですか!」
「おかあさん」
「大丈夫よ。お母さんが守ってあげますからね」
母親がギっと神代と茜を交互に睨む。
その光景に、神代がぼそりと呟いた。
「逆縁か……」
それがなにかはわからないが、この目の前で繰り広げられていることの原因なのかもしれない。
あとで質問しようと思って、茜はお迎え課に早く来て欲しいと願った。
「和久井さん。息子さんは今日転生しなければ、消滅してしまいます」
「しょう、めつ?」
「ええ、輪廻の輪から消え、あなたの記憶からも消えます」
「そんな……」
「縁があれば、来世で会うこともできます」
神代の言葉に、母親が脱力して座り込む。その隙に、神代は和久井少年を引き離した。
外からバイクの音が聞こえてくる。お迎え課が来たということだ。
すぐに階段を駆け上る足音が聞こえてきて、開けっ放しの玄関から天真が顔を出した。
「天真?」
「お迎えにきました。お迎え課の天真です」
「時間がない。この人を役所まで連れてってくれ」
「わかりました」
天真は茜を見るとふっと笑って、和久井少年の手を取る。
「いや、いやよ! 貴之ちゃん! 貴之ちゃん!」
床を這うようにして、息子の名前を呼ぶ母親に、和久井少年が振り返る。
「おかあさん」
「貴之ちゃん」
「さよなら」
そう言うと、和久井少年は天真の手を引くようにして外に飛び出した。そうして外に出てすぐ、バイクの音がする。それは空へと浮いていき、遠ざかっていく。
「行ったな」
「そうですね」
時計を見ると残された時間は後少しだが、間に合わないほどではない。これであの少年は消滅を免れたと、仕事はこれでを終わりだと茜が思っていると、神代が母親に声をかけた。
床にうずくまっている母親は、全てのことを拒絶するかのように声を上げて泣いている。
「あなたはここの区画の人間ではないですね?」
神代の冷徹な声が母親に降り注ぐ。その言葉に、母親の泣き声はぴたりと止んだ。
「だって、貴之ちゃんが……」
「言い訳は聞きません。区画移動は自由ですが、転居は禁止だとご存じなかったんですか?」
「そ、それは」
「ここは現世ではないので、一度なら罪に問われません。二度とこのようなことをしないように、心にとめておいてくださいね」
にこやかに、冷徹に、神代はそれだけ言うと、くるりと踵を返した。
「ハチ、帰るぞ」
「え、あ、はい。あのお母さんの方は……」
「生活案内課に報告する。自分で戻らなければ、強制的に戻されるだけだ」
外に出ると、神代の電話が鳴って、和久井少年が無事転生の扉をくぐったという報告が来た。それを聞いて、茜はほっとした。消滅は免れたのだ。
駅への道を今度はゆっくり歩きながら、茜は先ほどの疑問を神代に問うた。
「あの、神代さん。質問なんですけど」
「なんだ?」
「逆縁ってなんですか?」
「ああ、子どもが親より先に死ぬことだ」
「だから、和久井さんはお母さんより先に転生するんですね」
親より先に死んだのだから、先に転生する。それはここでは当たり前のことだ。
だけど、現世で自分より先に死んだ息子を、あの世でも見送らないといけない母親はどんな気持ちだったのだろう。
「ハチ」
「はい」
「言っただろう。背景は考えるなと」
「そうですけど」
「消滅は免れた。あのままだったらあの母親自身に消滅させられていたところだ」
きっと転生課が気づかなければ、和久井少年はあのままあの部屋で毛布にくるまっていたままだろう。そして十七時を過ぎれば砂のように消えてしまっていた。
そう思うとぞっとする。
「でも、せっかくお母さんと会えたのに」
「ここにはここの規則がある」
茜よりずっと多く消滅を見てきた神代は、そうやって自分に言い聞かせていたのだろうか。ここでの規則だから、情だけではどうにもならないことがあると。
母親にとっては辛い結末だが、結果としては消滅防げてよかったと言える。なにが正しいかはわからない。
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