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ラストダンジョン
しおりを挟む次の日、シンは朝から工事現場の仕事に行き、潤子も仕事へと向かった。
篁四郎は朝ご飯の片づけをして、シンと二人分の洗濯物を洗濯機に入れてスイッチを押す。
ふとタツキは洗濯物や着替えをどうしているのかと気になった。タツキの私物を勝手に漁って持って行くのは気が進まないし、かといって篁四郎のものでは丈が足りないだろう。
研究所で着替えが出ることを願って、篁四郎は掃除機のスイッチを入れた。今日もこの時間に二階まで掃除機をかけて、共有スペースは全部綺麗にした。
それが終わると、スーパーの折り込み広告を見て、明日の特売をチェックする。鶏ムネ肉の安売りに、赤い丸をつけた。
そうしているうちに、洗濯機が終了の音を鳴らす。今日は曇りだから、小さな庭にではなく廊下に洗濯物を干した。
いつもなら外に干して降り出しそうな時に中に入れればいいが、今日はそういうわけにはいかない。
篁四郎はこのあと、出かけるのだ。
共有スペースの窓の鍵を閉めて、ショルダーバッグに着替え、財布、折りたたみ傘、スマートフォンに充電器を入れる。それに読みかけの文庫本を入れると、用意していた紙袋を持って、出かける準備は終了した。
台所の電気が消えているかを最後にチェックして、篁四郎がナナシ荘を出る。
そうして最寄り駅へと歩いていく。
昨夜、母親に今日帰っていいかと聞くと、在宅しているからいつでも帰ってきていいという返事がきた。
きっと父親は夜遅くなるだろう。だが、タツキのいない家にいるのも落ち着かなかった。
だから、朝早くナナシ荘を出て、研究所に寄って実家に帰ることにした。
昨日、潤子と一緒に来た道を一人で歩いていく。曇りのせいか湿度が高く、すぐに汗が顔を伝う。
そうして「戸山研究所」と書かれた門の前に行くと、路三郎が待っていた。
「こうちゃん」
「ごめん、仕事中に」
一人で来て門前払いされないようにと、昨夜のうちに路三郎に連絡しておいたのだ。
中に入れて、タツキに会わせて欲しいと。
「いいよ。こうちゃんのお願いだし」
「でも仕事……」
「仕事より、こうちゃんのこと優先しようって兄貴たちと決めたから」
「みち兄さん……」
「はい、ここに名前書いて」
「うん」
昨日と同じように守衛室の前で名前を書いて、通行証をもらう。昨日と違うのは中にいる警備員の対応が、兄がいるからか柔らかくなったことだ。
「これうちの弟なんすよ」
「そうなんですか。兄弟仲良くていいことで。はい、これ通行証」
「ありがとうございます」
篁四郎がそう言うと、路三郎は昨日潤子が向かった方向とは逆の方向に歩き出した。
「使える愛想は使っとかないとな」
「潤子さんも愛想悪くないけど」
「警備員さんは普通の人だからな。ナナシって得体の知れないものは怖いんだろ」
「そういうもの?」
「それは普通の反応なの」
その反応を、潤子は毎日浴びているのかと思った。今ごろ潤子は、ナナシ研究室の方で仕事をしているのだろう。
せめて研究室の中だけではそんな目で見ないで欲しいと思った。
階段を上がると、昨日見た薄暗い廊下が伸びている。路三郎は迷わずその一つのドアに向かっていって、ノックした。
「はい」
「佐々木田です」
「どうぞ」
「失礼します」
ドアを開けると、ランニングマシーンの動く音だけが聞こえてくる。中にはいると、昨日と同じくタツキがビニールに囲まれたランニングマシーンの中にいた。
「佐々木田さんに、弟さんじゃないですか。どうしたんですか?」
「タツキさんに差し入れです」
そう言って篁四郎が紙袋を差し出すと、霧島はランニングマシーンのビニールを開けた。
「出ていいぞ」
霧島が中にいるタツキに声をかけると、飛び出るようにしてタツキが出てきた。
「うわーシロー! また来てくれた!」
「タオルとか着替えとかどうしてるのかなって。一応持ってきました。俺のTシャツだけど一番デカいやつ選びました」
「ありがとーシローマジ気が利くね。一応貸してもらったやつあるけど、ダサくて」
タツキが胸元にあるロゴを見せる。そこには「総務省」とだけ書かれていた。
「ダサいっていうか、なんというか」
「テンション下がるよぉ」
「まだ帰れないんですか?」
「うん、まだ」
篁四郎が聞くと、タツキがうなだれたようにそう答える。
そこに口を挟んだのは霧島だった。
「まだ実験が残っているんでね。しばらく帰れませんよ」
「お盆もですか?」
「ああ」
ちらりと兄を見ると、路三郎は小さく首を振った。どうやらここにお盆休みがないわけではないらしい。ただ、霧島がお盆も実験をしたいだけだ。
「お盆だけでもタツキさんを帰らせてあげられませんか?」
「無理です」
「何故ですか?」
「妖怪かもしれない者を外へは出せません」
「タツキさんは妖怪じゃありません、ナナシです。タツキさんは人を傷つけるようなことはしないし、それに、ナナシも妖怪も、実験道具ではありません」
篁四郎の毅然とした態度に、霧島がたじろぐ。
援護してくれたのは、路三郎だった。
「もういいんじゃないですか? 霧島さん。同じこと何百回もやってるんでしょう? それでもかまいたちの証拠が出てこないなら、この人はナナシだと思いますよ」
「……上の判断がまだです」
「ま、ですよね。じゃ、おじゃましました。帰るぞ、篁四郎」
「え、あ、うん。お邪魔しました」
篁四郎の肩を叩いて、路三郎が外に出るように促す。これ以上できることはないという、兄なりの判断だったのだろう。
外に出たら、相変わらず薄暗い廊下が伸びていて、人の気配がなかった。
「ここ他に人いるの?」
「いるよ。みんな研究室にこもってる」
「霧島さん、上の判断って言ったよね」
「言ってたな。たぶん今頃ナナシ課からも圧力がかかってるだろう。平兄さんもいるし、ナナシ課も貴重なナナシを手放したくないし」
きっと武彦もその尽力をしているだろう。もしかしたら今頃昨夜作った資料を使って、プレゼンをしているかもしれない。
そこには平一郎もいるかもしれないし、それならきっと味方になってくれているだろう。
「みち兄さん、ありがとう」
「どうした急に」
「あとは父さんにお願いしてみるよ」
「そうか」
「お兄ちゃんたちから言ってやろうか?」
「ううん。自分で言う」
これは自分で言いたかった。
誰かの伝聞ではなく、篁四郎自身の言葉で、父であり、妖怪課のトップであるその人に言いたかった。
階段をおり、守衛室に通行証を返す。
門のところまで、路三郎が送ってくれた。
「この件が終わったら、兄弟で飯な」
「うん」
小さい頃のように手を振る兄に振り替えして、篁四郎は最寄り駅を目指した。
父親の好きな栗羊羹を買って、実家に帰るべく。
実家に帰ると、母親が昼ご飯を用意して待っていてくれた。
茹でた素麺に、細切りにしたハム、キュウリ、錦糸卵、トマトを盛っているのが、佐々木田家の夏の見慣れたメニューだった。
「やぁね、雨降りそう」
窓の外を見ながら、母親がそう言う。確かに外は今にも降り出しそうなほど、薄暗かった。
「お父さん、今日は早く帰れるって言ってたわよ」
「そっか」
「お父さんに用があるんでしょ?」
「うん。まぁね」
「珍しいわねぇ、こうちゃんがお父さんにお話なんて」
「うん」
最後に父親と話したのはなんだっただろうか。
大学に合格したときに、誉められた記憶はある。だが、長く会話はしていない。
家を出て一人暮らしをするときも、特になにも言わなかった。
無口な人ではあるが、思い返せばほとんど会話というものをしてこなかった気がした。
幼いころから父親は仕事人間で、そしてエリート官僚であることはわかっていた。兄たちの会話からそれが誇らしかったのを覚えている。
だが、中学後半からは、それが重圧にもなり、畏怖にもなった。
そうして家にあまりいない父親とは会話の仕方を忘れてしまった。
「こうちゃんがいるから、今日は海老のかき揚げにするわね。お兄ちゃんたちも帰ってこれたらよかったんだけど」
「うん」
海老のかき揚げは篁四郎の好物だ。まだ兄たちが実家暮らしをしていたころ、一番海老が入っているかき揚げを譲ってもらったりしていた。
その頃から兄たちは年の離れた弟である篁四郎に甘かった。三人だけなら、どれが海老の多いかき揚げかで喧嘩をしているのに、篁四郎にはその輪には加えることはしなかった。
それに甘えていたことは確かにある。
怒られても兄たちが庇ってくれたし、慰めてくれた。父の怖さも、兄たちの影に隠れていればなりを潜めてくれた。
「ごちそうさまでした」
素麺をたいらげて、流し台に器を持って行く。そうして洗っていると、にやにやと笑う母親と目があった。
「なに?」
「成長したなぁって」
「なんで?」
「家にいたころは自分で洗うなんてしたことなかったでしょ」
「今は人の分まで洗うから癖で」
「いい癖よ」
ころころと笑う母親に、ふと聞いてみたいことを思い出した。
「ねぇ」
「なぁに」
「俺がナナシ荘の料理係をしてるって父さん知ってるの?」
「知ってるわよ。お父さんびっくりしてたわよぉ。こうちゃんが料理なんて大丈夫かって」
「なんとかなってるよ」
「成長ねぇ」
それから買い物に行くという母親について、近所のスーパーに行った。母親と一緒にスーパーに行くなんて小学生ぶりで懐かしかった。
海老をカゴに入れて、コツがいらないとうたっている天ぷら粉も買う。
「こうちゃんアイス買う?」
「子どもじゃないんだから」
そう言いつつも昔よく食べていたソーダ味のアイスをカゴに入れた。
食べながら帰るのも、昔のままだ。
家に帰ると同時に、雨が降り始めた。雷も鳴り、ゲリラ豪雨のように雨音が激しく鳴り響く。
慌てて洗濯物を取り込む母親を手伝いながら、廊下に干してきて正解だったと思った。室内に干すのを手伝い、終わったらソファーで持ってきた文庫本を読むことにした。
雨音を聞きながら、文庫本を読んでいたらいつの間にか寝てしまったらしい。
気がついたら雨は上がっていて、あたりは暗くなっていた。台所からは揚げ物をする音が聞こえてきて、いい匂いがする。
「あら、起きた?」
「ごめん、寝てた」
「いいのよ。よく寝てたわねぇ。かき揚げできるわよ」
「父さんは?」
「もう帰ってくるってメールがあったわ」
「父さんって帰るメールするの?」
「するわよぉ。知らなかった」
「うん」
「二人になったらご飯が片づかないから、連絡してちょうだいって言ったの。こうちゃんがいるときは、二人で食べてもよかったけど、一人じゃ味気なくてね」
知らない父親の一面を見た気がした。どうやらその習慣は篁四郎が家を出てからできたものらしい。そういうことをする人だと思わなかったから驚いた。
本当はそういう知らない父親の面がたくさんあって、知ろうとしなかっただけなのではないだろうかと思った。
「お父さん喜ぶわよ、こうちゃん帰ってきてたら」
「そう?」
「栗羊羹、お父さん好きだもの」
篁四郎は、どうして父親の好きな食べ物を知っていたのだろうとふと思った。でもいつの間にか父親の好きな食べ物は栗羊羹だと刷り込まれていた気がする。
それは母親からか、兄たちからか、それとも父親からだったのだろうか。
父親が頂き物の栗羊羹を食べるときに、まだ小さい篁四郎を膝に乗せて食べていた記憶だけは確かにあった。
「ただいま」
玄関のドアが開く音がして、父親の声が聞こえる。出迎えに玄関へと行く母親に、篁四郎もあとをついていった。
「おかえりなさい」
「ああ、篁四郎。おかえり」
篁四郎の父親はがっちりとした上背のある人だ。白髪が増えグレーになった髪をオールバッグにして、その口元には髭をたくわえている。
線の細い篁四郎は兄弟で一番母親に似ていて、父親に似ていなかった。
「今日はこうちゃんがいるから、海老のかき揚げなのよ」
「そうか」
そんな会話をしながらリビングに行く両親の背中を見る。いつ話を切りだすのがいいのか分からず、母親が台所へ、父親がリビングのソファーに座ったときに声をかけた。
「と、父さん」
「どうした?」
「……あの」
「篁四郎?」
「ナナシのこと話していい?」
ナナシのことは口外してはいけない。
でも相手が同業者なら別だ。父親は妖怪課のトップであり、タツキが妖怪かナナシかの決定権を持っている。
「いいぞ」
父親は篁四郎の言葉に少し驚いた様子を見せたが、すぐにそう言ってくれた。
「タツキさん、ナナシの七川タツキさんはかまいたちなんかじゃなくて、ナナシだから、解放して欲しい」
「ナナシだとどうして言い切れる?」
「何百回って同じ実験をしたのに、かまいたちの特徴は出ていない。それにずっと研究所に詰めてて、帰してもらえてないんだ」
「かまいたちだった場合、外に出したら危ないからな」
何度か聞いたその答えは、もう聞きたくなかった。
「タツキさんも、妖怪も、ナナシも、実験動物じゃない。ちゃんと会話もできるし、心もある人だよ」
「……」
「お願いです、父さん。タツキさんを帰してください。もう父さんにしか頼めない」
座って、頭を下げる。
これが最後の綱だ。
篁四郎が持っているカードは全部出した。兄たちの援護も、武彦が頑張っていることも、霧島に直談判することも全部終わった。
父親からの答えを待っていると、声は別のところから聞こえてきた。
「お父さんの負け」
それは母親の声だった。
ダイニングテーブルに揚げたてのかき揚げを置きながら、そう笑う。
「父さん?」
「……明日研究所の方に連絡をいれよう」
「本当?」
あっさりとそう言ってくれたことが信じられなくて、篁四郎が聞き返す。それでも父親はゆっくりと肯定の頷きをしてくれた。
「実験動物じゃない、か……」
「うん」
「そうだな。そのとおりだ」
「父さん」
「上にいると情報は入ってくるが、実態は見えないことが多い。そんなことになっているとは知らなかった……」
「ごめんなさい。仕事のことに口を挟んで」
「いや、仕事より大事なことはあるだろう」
「兄さんが言ってた」
確かにそれは兄が言っていた言葉だ。まさか父親から聞けるとは思わなくて驚いていたら、母親が笑った。
「それ、お父さんの言葉よ」
台所に戻りながら、母親が楽しそうに言う。
「ご飯にするから、お父さんは手を洗ってきてちょうだいねぇ」
「ああ……篁四郎」
「はい」
「仕事は大事だが、忘れてはいけないこともあることを覚えておきなさい」
「はい」
父親とこんなに長く話したのはいつぶりだろうと思った。畏怖するだけで歩み寄ろうとしなかっただけで、本当はもっと話しやすい人だったのではないだろうか。
ただ秘密にしないといけない仕事を抱えて、ずっと口を閉ざしていただけで、今の篁四郎の立場で聞けばいくらでも話してくれる気がした。
洗面所で手を洗ってきた父親がダイニングの席に着くのと同時に、篁四郎も席についた。かつては家族六人で使っていたダイニングテーブルは、今は半分しか使われていない。
「お父さんね、仕事より大事なことがあるっていつも仕事が終わるとすぐ帰ってきてくれたのよ。どんなに遅くなってもね。休みの日もよくいろいろと連れて行ったでしょう。家族サービス好きなのよ」
いただきますと食べ始めると、すぐに母親がそんなことを言い出した。ちらりと父親を見ると、知らんぷりをしていて、恥ずかしがり屋でもあるのだなと篁四郎は思った。
「父さん」
「ん?」
「デザートに栗羊羹があるよ」
「ああ、いいな」
ほんの少しだけど、知らなかったものを知った気がした。
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