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【第一部】国家転覆編

19)地獄

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 ドーヴィは知らなかった。

 人間が悍ましく、悪魔も裸足で逃げ出すほどの悪意を持てる、という事実を。
 人間の純然たる悪意で、人間が擦り潰されて殺される、という事実を。

 ドーヴィを召喚するのは、自らの欲望に忠実でありすぎた人間だけだ。自らの欲を満たすためだけにドーヴィを召喚し、使役する。ひたすらに夜の行為に耽り、極上の快楽を追い求める。その様は、ある意味ではピュアな姿だった。

 そこに他者への悪意はない。ただ純粋に、自己の快楽だけを追い求める。

 だから、ドーヴィは、知らなかった。

 人間が同族である人間を、憎しみでもなく復讐でもなく怒りですらなく、ただ純然たる悪意のみを持ってこの世から追い出すことがある、ということを。

 ドーヴィは、グレンの事を信じて、グレンが口に出すまでじっと待った。悪意に嬲られる少年が、悪魔である自分に堕ちてくるのを。

 ……のちに、ドーヴィは、この判断をひどく悔やむことになる。

☆☆☆

 貴族会議の時間が近づいてきた。すでに血の気の引いた顔をして、手に取った本もほとんどページを捲ることなく棚に戻したグレン。それでも俯くことなく、背筋を伸ばして姿勢よく廊下を歩く。

「グレン」
「……なんだ、ドーヴィ」

 緊張しきった声で答えたグレンは、ドーヴィを振り返ることなく、真っ直ぐ前を向いたままだ。周囲に誰もいないことを確認してからドーヴィはその肩を掴む。大袈裟に体を跳ねさせて、グレンはようやくドーヴィを振り向いた。

「お守りだ、持っておけ」

 振り向いたグレンの前に回り、ドーヴィは頭の上から小さなペンダントをかけてやった。グレンは目を瞬かせてから、手のひらに赤い石がはめ込まれたペンダントトップを乗せる。
 
 ドーヴィは膝を屈め、グレンの耳元に内緒話のように声を潜めて囁いた。

「俺が加護を振った。『今から24時間、他者から命を奪われた時、一度だけ命を取り戻す』効果がある」
「!?」
「絶対に、誰にも言うなよ。当たり前だが、事故や病気の場合には効果を発動しねえし、はっきり言って正確に発動するかも怪しい。……どうしても天使の目を掻い潜るために、範囲をかなり狭くしてある」
「ドーヴィ……」

 ドーヴィが徹夜で必死に作ったお守りだ。加護が専門外であるドーヴィにとって細かい加護作りはかなり厳しい作業だったが、それでも何とか、天使に取り上げられない程度の効果に収めることができた。ギリギリ、伝説級の魔道具で通る範囲だ。

「命を取り戻すだけだから、負ったケガはその場で治らない。あくまでも、即死を防ぐ程度の効果しかないからな。絶対に過信するなよ。だから」

 ペンダントを持ったグレンの手をドーヴィは大きな両手で包み込む。

「何かあったら、すぐ俺に助けを求めろ。契約主が助けを呼ぶのならば、俺はすぐに動ける。そうしたら、俺が全部どうにでもしてやるから」
「……うん」
「お前は我慢しすぎなんだよ、グレン。……お願いだから、もっと俺を頼ってくれ」
「…………うん」

 ぽたり、とドーヴィの手の甲に水滴が落ちてきた。その粒は一つ、二つ、と増え――グレンがもう片方の手で目を強く拭ったことで、それ以上増えることはなかった。

 グレンは、他人を頼るのも他人に甘えるのも、致命的に下手だった。それは辺境伯当主として、自分が頼られる側でなければならない、と頭から思い込んでるが故のこと。
 周囲がそんなグレンを見かねて甘やかし、守り、導いてきたが……ここから先は、グレン独りの戦いになる。

 自分が二本の足で立ち続けなければ、後ろにいる人々が悪意に晒されるから、グレンはいつでもいつまでも独りで戦い続ける。

「いってくる」
「ああ」

 貴族会議は王が出席するが故に、護衛の参加は認められない。辺境伯以上の貴族家当主のみが参加できる。

 ドーヴィと別れ、重くなる足を必死に動かしてグレンは会議場の扉をくぐった。参加者の中で最年少であり、当主としての歴も浅いグレンは他の出席者よりも早く、一番に着席して他の出席者を待たなければならない。

 グレンから遅れ、ドラガド侯爵を筆頭に侯爵達が。次いで公爵、そして王族が次々と着席する。最後に空いた王座に王がゆっくりと着席し、全員が揃った。
 議長役の公爵が「それでは会議を始める」と重々しく宣言する。

 議題はガゼッタ王国の財政から外交、各所で起きている暴動の鎮圧や領土拡大の戦争に至るまで。……しかし、そのいずれにもグレンに発言権はない。
 この場では一番下位になってしまう辺境伯と言えども、会議に参加するからには発言を求められることもある。だが、グレンという存在を無視するかのように、誰一人構うことなく、国の重要な施策が次々と決められていった。

 もちろん、中にはクランストン辺境領に多大な影響を与える施策もあったが――グレン・クランストン辺境伯の意見は、最初からないものとして扱われた。

「次――クランストン辺境伯家のセシリア・クランストンの賠償金支払い遅延について。グレン・クランストン辺境伯、説明を」

 グレンは肩を跳ねさせないように必死に我慢して、立ち上がった。会議室に座る重鎮たちの視線が一斉にグレンに集まる。その全てが、鋭い視線であった。この場に、グレンの味方は一人もいない。

「この度は、皆様にご迷惑をおかけして申し訳ありません。お恥ずかしい限りですが、現在、当家には皆様にお支払いできる金銭がございません」
「毎度毎度、君はそれしか言う事がないのか?」

 とある侯爵が吐き捨てるように言う。セシリアの罪を償うために、と要求されている賠償金は、クランストン辺境伯としての地位も土地も全て返上してもまだ足りず、グレンを筆頭に全領民が奴隷となっても払えぬほどの巨額なものだった。

「まあまあ。グレンくんも頑張っているのだから……ねえ、グレンくん? 君は頑張って返済しようとしてるんだよねえ?」

 ねっとりとした口調で老公爵が上座から侯爵を窘めた。それはグレンを助けるためのものではない。さらなる地獄に落とすためのささやかな手伝いだ。

「……はい。私の力不足で、申し訳ありません」

 頑張りました、が通用するわけもない。この会議において、グレンの発言は「はい」と「申し訳ありません」以外は許されないのだ。

 深く、テーブルにつくほどに頭を下げたグレンを前に複数の呆れたため息が降り注ぐ。

「ちなみに、クランストン辺境伯へ支援しようという家はおるかな?」
「まさか! 罪人を出した家に協力できるわけもありませんでしょう」
「そうですぞ。しかも野蛮な辺境の民と一緒に生活する人間に支援なぞ……そういえば、当家に来訪の際は豚小屋での寝泊まりをご希望されましたなぁ?」

 ドラガド侯爵が先日の一件を面白おかしく吹聴する。会議室内に老人たちの低い笑い声が響き渡った。

「しかし支払うものは支払ってもらわないと困りますね、いくら豚と言えども……いや、豚の方は肉となって我らに恩返しをしてくれますからね。さしずめ、クランストン辺境伯は豚以下の存在という事ですか」
「ハハハ、面白い事を仰いますな、殿下は!」
「どうにも今日は会議室が豚臭いとは思いましたが……これは豚ではなく、糞の臭いでありましたか」

 王太子の一言にドッと歓声の様な笑いがおき、大袈裟に鼻を摘まんでアピールする出席者もいる。グレンはそれらを聞きつつも、これ以上不利にならないように「皆様の空気を汚したこと、深くお詫び申し上げます」とひたすらに頭を下げた。

 遠くで小さな詠唱の声が聞こえる。一瞬だけ身を強張らせたグレンの頭上に、水の球が発生してすぐに破裂した。当然、冷たい氷のような水はグレンを頭からぐっしょりと濡らす。グレンの黒い髪の毛がべたりと肌に張り付き、水滴がぽとぽとと落ちた。せっかくの一張羅の正装も、水に濡れて変色していく。

「どうやら臭うようですからなぁ。きれいに洗い流して差し上げましたが……」
「ん? クランストン辺境伯、ドラガド侯爵へ礼の一つも言えんのか?」
「……とんでもございません。誠に、ありがとう、ございます」
「ハッ、糞の塊がそこにいるのだから水を被せただけで臭いが取れるわけもない」

 悔しいと思う気持すら、もう擦り切れた。いつも通りに、魔力を要求され、奉納して、それで終わればもう何でもいい。自分のプライドも人間性も、好きなだけ踏み躙ればいいとすらグレンは思う。

(……終わったらさっさと辺境に帰ろう。道すがら、ドーヴィがまた美味しい食事を作ってくれるから、のんびり野営して、食料が足りなくなったら釣りでもしようかな。あとは、途中の村でみんなにお土産を買って。家に帰ったら、料理長にお願いしてお菓子でも作って貰おっと。あと、ニンジンは一週間出さないように命じよう。それから――)

 絶対に「はい」と「申し訳ありません」以外を口にしないように、ぎゅっと口を引き結んでグレンはぐるぐると『楽しい事』だけを考え続ける。

「……で、クランストン辺境伯はまた魔力で補填すると?」
「はい、そのようにさせて頂ければ……」

 ふむ、と保護結界の運営を担当している公爵が手元の資料を捲った。ちなみに、グレンには何の資料も配布されていない。会議が始まってからテーブルの木目を見つめる以外にやることはなかった。

「では、魔晶石10個分ほどを」

 グレンは声を上げそうになり、慌てて自身の太ももを強く抓りあげて声を抑えた。驚いただけでも「叛意あり」と見なされてしまう。

 魔晶石10個と言えば――前々回、グレンに課せられた補填作業だった。あの時は途中で意識を失い、気が付けば辺境の屋敷のベッドにいた。そこから、立ち上がれるようになるまでさらに数日を要し、完全に回復するまで二か月はかかったように思う。
 つぅ、と背筋を冷たい汗が流れていく。前々回に死ななかったのは、ただの偶然だ。もう一度同じことをやって生きていられるかはわからない。

「10個はなかなかの作業量ですが……」
「大丈夫です、殿下。このグレン・クランストン辺境伯はすでに実績があります」

 王太子はグレンの身を心配したのではない、魔晶石の補充が滞りなく行われるかを心配しただけだ。

「おお、そうですか! では安心して任せられますね。……なあ、クランストン辺境伯?」

 王に次いでこの場で高貴な位にある王太子からの言葉に、笑い声が消え、全員がグレンからの答えを静かに待った。グレンにとっては永遠にも続くように思える地獄の沈黙だった。

「……はい。補充作業の方、喜んでやらせて頂きます」

 途端、ドラガド侯爵が拍手をする。それにあわせて、周囲からも拍手が起こり、会議場内ににこやかな雰囲気が流れる。

「いやあさすがクランストン辺境伯だ! 魔力に秀でたクランストン辺境一族であるな! 君が無理だと言うのなら、君の姉に、それも無理なら領民を奴隷として徴収するところであったよ」

 ドラガド侯爵はたっぷりと敵意と悪意に満ちた笑顔で、グレンを見た。グレンはそれを受けて、無理に口角を吊り上げて笑顔を作り出す。あくまでも、グレンは、自ら進んで作業に赴くのだ。嫌そうな顔をしていてはならない。

「全くだ! 魔晶石10個など、普通の人間なら死んでしまうからな! 頼まれてもやらないものだ!」
「ハハハ、死罪相当の罪人を出した家ですからね、やはりここは命相当で償って貰うのが妥当でしょう」
「うむ、殿下の言う通りだ。……あるいは、グレン・クランストンは豚以下の糞であるから、そこまで考えが至らないのかもしれないな!」
「脳みそのない糞にも使い道があるということですか。勉強になりますよ」

 心臓の鼓動が止まらない。老人たちの嘲笑も、王家の人を人と思わぬ発言も。それら全てがグレンの心をひどく傷つけ、遠回しに「死ね」と言われた事実が、さらにその傷を抉り続ける。

 グレンを見下し、罵倒する発言が飛び交う会議室。王が王笏を一振り、床にカツンと突き立て音を鳴らせば一瞬にして会議室は静まり返った。

「では、グレン・クランストンは直ちに作業へ向かうように。晩餐は欠席で良いだろう」
「……はい。では、失礼させて頂きます」

 王からの死刑宣告に、グレンは静かに頷いた。どのみち、貴族会議後の晩餐にグレンの席は毎回存在しない。床に座らされ、老人たちが楽しく酒を酌み交わすのを見ているだけだ。時折、施しのつもりなのか床に捨てられたベーコンを口に運び、零されたワインを啜るのがグレンの晩餐会だった。
 だったら、早々に作業に向かった方がまだありがたい。グレンはドーヴィに貰ったお守りを無意識に握りしめながら保護結界装置のある部屋まで案内する騎士に続いた。
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