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「俺が……深窓の令嬢に……!?」

見た目より些か低いものの十分に可愛らしい声を固く震わせ、セルティス・ルディックは慄いた。目の前で姿見に映る少年もまた、青い顔を強張らせている。
フリルがふんだんにあしらわれた寝巻きに、そこから伸びるほっそりとした手足。そのくすみ一つない肌の白さ。加えて鏡の中から自分を見つめ返す瞳は碧眼で、長く真っ直ぐ伸びた髪は銀。顔立ちは少しつんとして近寄りがたいが美少女・・・だと言えた。
まるで生きた人間とは思えない人形めいたその風采。女性であれば誰もが欲しがる……と言えば過言だが、ここまで揃えば嫌がる女性も少ないだろう。
女性ならば。男であるはずの自分には、セルティスには不必要の産物。今まで夢に見たこともないものだ。

そもそも、どうして自分の名前をセルティスだと思ったのだろう。自分の名前は──……

そこまで考えて気づく。思い出せない。加えてどうしてこの容姿に疑問を持ったのか、その違和感すら揺らぎ始めた。
姿見に映る端正な容姿。そこに映る今の自分とは似ても似つかないどこか頼りなさげで目立った特徴のない顔立ちが脳裏に掠めては、蜃気楼のように消えていく。三度瞬きをする間に朧げになった輪郭はもう思い出すこともできなくなった。これは恐らく、前世の記憶。
そして一つの結論に辿り着いた。

「異世界転生、しちまったな……」

ひどい発熱で三日三晩うなされたのちに姿見の前で呆然とすること数分。そうして叩き出された答えであった。



本来の名前と顔は綺麗さっぱり忘れてしまった。代わりにはっきりわかるのは、セルティス・ルディックはたいそう美しく愛らしい見目をした『男』だという事実である。
セルティスが鏡を見て深窓の令嬢と言ったのは、何も見た目からそう判断したのではなかった。セルティスという名前と共に記憶として脳裏に叩き込まれていることだからである。自分は“令嬢”なのだと。
その記憶が言うことには、自分は侯爵家の末子で、自分よりいくらか歳上の婚約者を持つ身らしい。相手は公爵家の跡取りだという。立派な政略結婚である。
だというのに婚約者はお優しいことに、臥せがちな令嬢のためそう日を置かず見舞いに来る。最後に来たのは発熱する前日、つまりは今から四日前の話だった。
そうして五日目の朝、彼はセルティスの前に現れた。

「もうここには来なくていい」

病み上がりのセルティスへ見舞いに来た優しい婚約者は動きを止めた。瞠目した表情のまま固まったがそれは一瞬のことで、瞬きをして次に目を開けたときにはもういつもの彼へと戻っていた。

セルティア・・・・・、まだ具合が良くないのかい?」
「見てわかる通り俺は健康だ。今までにないほど顔色がいいだろう?」
「俺……?」

目が覚めるより以前のセルティスが病気がちだったのは不健康な生活を送っていたからだ。食は細く、運動もしなければ人目を避けて日にも当たらない。周囲の人間はそれを止めなかったし、何より過去のセルティス本人がそうしたがった。
しかし今のセルティスは望まない。肉も野菜もよく食べるし、健康な肉体を覚えているから今の痩せ細った身体は落ち着かない。おかずが美味しいと白米が恋しくなる弊害はあったが、主食がパンでも食は進む。おおむね問題ないと言えた。
そして、何が過去のセルティスをそうさせたのか。今のセルティスはそれを理解している。

「セルティアはもう居ない。俺はセルティスに戻る」
「……それは」
「言葉のまま。ローレンス様、貴方の婚約者になる為に名前と性別まで偽ったルディック家の令嬢は亡くなったんだ」

過去のセルティス──セルティアは、自らの成長が疎ましかった。だから食も死なない最低限を心掛けて、筋肉がつくのを嫌がり運動も嫌った。外に出たがらないのは人目を気にしたからだ。しかし、いくら努力をしようと、セルティアの身体は着実に性別相応に成長している。
悲嘆に暮れたセルティアは毒を飲んだ。セルティスが三日間も熱にうなされた原因だった。

「我儘に巻き込んで申し訳ないことしたと思ってる。幼い子供の一目惚れせいで、形だけでも本当の婚約者にさせてしまった。優しい貴方は今までの人生を俺に費やしてしまった。両家には俺が説得するから先ずは当人から婚約破棄の承諾だけでも……」
「婚約破棄? 断るに決まってるだろう」
「そう、婚約破棄……え?」

頭を下げていたが、冷たい声に思わず顔を上げる。婚約者であるローレンス・オリヴェルが声色と同じ温度をした瞳で見下ろしていた。

「こ、断る?」
「二度も同じ言葉を言わせる気かな。疲れているのだろう、もう少し横になっているといい。俺はジェイドと話をしてくるから」

ジェイドというのはセルティスの兄だ。二人は学生の頃から仲が良かった。
そもそもセルティアがローレンスを見初めたのだって、ジェイドの友人として家に招かれた彼を一目見てしまったからだ。

「ほら、布団を被って温かくしなさい」
「わぷっ、ちょ、話はまだ……」
「おやすみセルティア、いい夢を。それと」

麗しい顔が近づく。それが挨拶の距離感ではないと気づいたのは唇同士が触れたあとだった。

「男を簡単に捨ててしまえるだなどと、ゆめゆめ思わないように」

それだけ言ってローレンスは部屋を出た。後ろ姿を見送り、シミひとつない天井を見上げること数分。

「……? 俺が捨てるのはセルティアおんなじゃないか……?」

至極真面目な顔で呟くセルティスは、自分がたった今ローレンスおとこを捨てる話を持ち掛けたことなど微塵も気づいていなかった。



ところで、悲嘆に暮れて毒を飲んだセルティアの肉体、つまりは現在のセルティスは今も変わらず少女の見目をしている。セルティアは日々成長する身体を憂いたが、それはあくまで幼少期と比べた本人にとってのこと。今だって十分性別を偽って通用する容姿と言えた。むしろ、男にも女にも属せない曖昧さは一種の魅力だった。

覚醒後クローゼットの中を隅々まで見渡してスカートしか無いことを確認し、先ず最初に取った行動は使用人に服の処分と性別に合った物を用意させることだった。ところがどういうわけかセルティアの頃と変わらずワンピースを身に纏っている。一番簡素な物を選んだが、それでも胸元のリボンが風に揺れてくすぐったい。

邸宅の庭でお茶を飲む。ずっと部屋の中で過ごしたセルティア時代にはやらなかったことだ。
それが目の前に婚約者を座らせてのことなら尚のこと。

「セルティア、このティラミス美味しいよ。一口食べてみないかい?」
「頂こう」

差し出されたフォークが口元に運ばれるのに従い、従順に口を開く。何の躊躇いもなくフォークが口腔へ侵入してきた。軽く食み、舌で先端に載せられたクリームを掬う。

「……甘い物は嫌いじゃなかった?」
「嫌いな物だと知ってて差し出したのなら余程良い性格をお持ちのようだ。婚約破棄を申し出る理由が一つ増えたな」
「何から何まで別人のように変わったね」

ローレンスが今しがたセルティスに使ったフォークでケーキを食べている。元は彼のフォークを差し出されたまま使ったのだから文句を言うわけにもいかない。心なしかセルティスがそうしたようにローレンスの長い舌がフォークの先端を舐めたように見えたが…………セルティスは気にしないことにした。

「言ったろう、セルティアは亡くなった。俺はセルティスだ」
「君は今も昔もセルティアだよ。俺にそう名乗ったのだから。それと、君のほうから婚約破棄を申し出ることは出来ない」
「それは立場の問題で?」
「規約の問題で」

生まれながらの身分差を指しているのであれば手詰まりになるところだったが、別ならば考える余地はある。
「規約……」そう呟いて、セルティアとして曖昧な記憶を呼び起こしてみる。思い当たることといえば、幼いセルティアが一方的にさせた口約束だ。

「大きくなったらお嫁さんにしてください……顔を真っ赤にした君にそう言われて、俺は何と答えたと思う?」
「……『君が一生俺に夢中になってくれるなら』だったかな」
「それは忘れていないんだね」

にこりと微笑んだ顔を見るに、この問いに対する答えは正解だったらしい。
セルティスは気取られぬよう努めて紅茶の注がれたカップに口をつけ、生唾を飲み込むのを誤魔化した。

「その規約について詳しく聞いても?」
「婚約して10年が過ぎた今になって興味を持つとは」
「おかしいか? 別人のように変わったのなら当然では?」

ローレンスは婚約者をじっと見つめた。セルティスも目前の男を見返す。ローレンスは今年で21歳になる若者だ。セルティスは16歳になる。
一切の動揺が見受けられないセルティスの態度は、自分より五つも歳下であることを忘れさせる。向けられる視線を浴びるとまるで自分が歳下になった心地だった。父ほどの年齢を重ねたと言えば過言だが、それでも一回り上の同性の貫禄すら感じられる。
まるで大人の男のようじゃないか。
ローレンスは婚約者が「別人のように変わった」と言っておきながら、その実本当に彼が心変わりしたとは思っていなかった。しかし対峙すればするほどに、それは思い違いであったのではないかと疑心が生まれる。

「そうだね。何も特別なことはない」

疑いの心は敢えて踏み潰した。大丈夫。この超然とした年下の婚約者は今もまだ己のことを好いている。

「なに、簡単な取り決めだよ。先ほど言った通り、君からこの婚約の破談を申し出ることはできない。ただそれだけだ」
「つまり貴方からは可能なわけだ。それだけでも十分俺に不利じゃないか? 婚約とは双方の同意の上で成立する契約なのだから。その権利が片方にのみ与えられるというのはフェアじゃない」

セルティスは内心で考える。ローレンスは立場の問題ではないと言ったが、結局対等な関係ではなかったということだ。

「この婚約はかつて君の熱烈な要望が叶えた望みであり、俺はそれを聞き入れた。だから決定権が俺に委ねられたのはおかしな話かい?」
「だとしてもこうして人は心変わりするものだ。況して6歳と11歳の子供がした口約束なんて。どうしてそんなものを唯一の取り決めとしたのか詳しく聞きたいものだな」

思うに、ただセルティアの意思が尊重された訳ではないのだろう。周囲の思惑があり、セルティアは口実に過ぎなかった。
セルティス自身、立場も年齢も上の婚約者がいると知ったとき真っ先に政略結婚と決めつけた。

セルティスの推測は部分的に正しかった。
セルティアの意思が尊重されたことは間違いではない。たとえそこに行き着く過程に作為の痕跡があろうと、結果的に申し出たのはセルティアのほうだ。そして“周囲の思惑”というのは誤りだった。
この婚約はただ一人の男の作為と思惑が粘着質な執念で実現させた、彼の望んだものなのだから。

「子供の口約束で済ませればいいものを、規約と呼ぶからには正式な書類も用意してあるのだろう。果たして誰の入れ知恵だろうな?」
「入れ知恵だなんて人聞きが悪いな。俺たち貴族は簡単に将来の約束はできない。況してその場限りの嘘や約束を破るなんて以ての外だ。父やお義父様もそれをわかっていた」
「結局政略結婚というわけか」
「純粋に望んだものへ対価が付いてきただけさ」
「代価の誤りでは?」

お陰で公爵家は正妻の子供を諦める必要がある。同性間でも妊娠するシステムがあれば話は別だが、この世界に都合よく魔法や奇跡は起こらない。
しかしそれを承知した上で両家の同意があるのだから、この婚約破棄は容易ではなさそうだ。

「ならば貴方に嫌われるのが一番早そうだ」

泰然自若としたこの子供は、本当に自分の知る婚約者だろうか?
ローレンスは胸のざわめきを悟られないよう、悠然と微笑んでみせた。セルティスも笑みを浮かべる。活路を見出した勝利を祝する笑いだった。
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