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8 安弘編 しるし
しおりを挟む友人たちと写真を撮り終え、卒業証書を手にしたまひるが、校庭で待っていた俺たちの方へ駆けて来た。
「六年間はあっという間だねえ。まひるちゃん、おめでとう」
俺の父親が一番に声を掛ける。まひるに向けるいつもの、でれでれの笑顔だ。
「うん。おじいちゃん、ありがと」
「昼、何食べに行くか?」
「えーとね、焼肉!」
「そうかそうか。おじいちゃんが、美味しいとこ連れてってやるからな」
「おばあちゃん、お肉平気?」
「平気よ。美味しいのたくさん食べましょ」
グレーのブレザーにチェックのミニスカートを穿いているまひるは、すぐ後ろにいるお義父さん、お義母さんを振り返った。
「じーじとばーばも、焼肉でいい?」
「もちろんだよ。お腹ぺこぺこだ」
「佐伯さんの知ってる所へお願いしますね。期待してるから」
朋美の両親と俺の両親が笑い合って、まひるを中心に歩き始めた。
春と言ってもまだ寒い。
三月中旬の今日、まひるの通った小学校の卒業式は無事に終了した。体育館に入場してきたまひるの姿を見た時は胸が熱くなり、涙が溢れそうになったけれど、今はようやく気持ちも落ち着き、またひとつ、節目を迎えられたことに感慨を覚えていた。
小学校の門を出てしばらく歩き、駐車場へ向かう道で、お義母さんが一番後方にいた俺を振り向いた。そのままこちらへ歩いてくる。多分、あの話だな。
隣に来た義母に合わせて速度を緩め、前を行くまひるたちと距離を取った。
「まだ結構寒いですね」
そうね、と義母は歩みを進めながら答えた。
「ねえ、安弘さん。この前の話だけど」
「お義母さん。もうそれは無しの方向で」
「でも」
前を歩くまひるの背は、いつの間にか俺の母を抜いていた。大きくなったな。
「今は初婚だって結婚するの難しいんですよ~。俺みたいに歳食ってるオッサンが、それも大きな子どもなんていたら、完全に無理ですって」
わざと明るい声を出したけれど、納得してはもらえないんだろう。
先日、まひるの卒業式の時間を連絡した時、いや、正確に言えば一年くらい前から、俺は朋美の父母に再婚を勧められていた。
「歳って……まだ三十八じゃないの。若すぎるくらいよ。今まであなたは一人で十分過ぎるくらいやってきてくれた。もうそろそろいいと思うのよ。いいえ、遅いくらいだわ。まひるちゃんだって、きっとわかってくれるはず」
「……お義母さん」
「そのままずっと一人でいる気なの? 私は反対です。いつまでも朋美に義理立てしないでいいのよ? 私たちにだって、安弘さんは、気を遣いすぎる……!」
義母はバッグからハンカチを取り出し、目元を押さえた。
「あなたには朋美の分まで幸せになって欲しいのよ……」
「お義母さん、ありがとうございます」
俺の為に叱ってくれる人の言葉が胸に沁みた。
「さっきのは冗談にしても、まひるの為にと思ったことはあります。俺一人じゃ駄目なのかもしれないって、この十二年間、何度も考えました。まひるがいることを承知で、傍にいたいと伝えてくれた人もいました」
「だったらどうして」
「でも……俺が無理でした。忙しかったっていうのもありましたけど、朋美以上の人には出逢えなかった。そんなこと、お義母さんが一番わかっているじゃないですか」
「わかっている……?」
「朋美がどんなに素晴らしい人だったのかってことをです。別れることになるのは早かったけど、俺……何も後悔していません。むしろ、朋美を選んでよかった。まひるを遺してくれて、俺に幸せを預けていってくれた」
「安弘さん」
「俺は幸せなんですよ、お義母さん」
義母は足を止め、俺を見上げて言った。
「それで、いいの?」
俺も足を止めて小さく頷くと、義母はまた涙を零した。
すぐ傍をまた風が通り抜けた。
銀杏の葉がまひるの額へ舞い降りた時のように。
きっと朋美は違う形で――優しい眼差しを光に変えて、囁きを柔らかな花の匂いに変えて、いつも俺たちの傍にいてくれる。
食事を終えて、両家の父母とはその場で分かれ、まひると二人、マンションへ帰ってきた。
自室で部屋着に着替え、手に雑誌を持ってリビングへ入って来たまひるに声をかける。
「まひる、卒業おめでとう」
「何、急に。変なの」
ソファに座ったまひるは、不機嫌そうな顔で言った。反抗期真っ最中の娘は、祖父母には愛想が良くても、俺にはそっけない。それもまた成長なんだけどさ。寂しいわな。そのうち、臭いだの汚いだの言われたらどうすっか。
「お祝い貰って良かったな。メールしとけよ」
「わかってる」
「お父さんからはこれ。卒業祝い」
少し大人の腕時計だ。一生ものだぞ? 綺麗に包装された箱から時計を出したまひるは、早速手首に着け、腕を上げたり下げたりして眺めていた。
「……ふ~ん」
最近は朋美の話をしても、照れくさいのか返事はしないし、「それもう前に聞いた」なんて可愛くないことばかり言っている。いや、可愛いんだけどさ。
「ありがとうくらい言いなさいっての」
「はいはい、ありがとーございまーす」
雑誌を手にしたまひるの返事を聞きながら、自分の部屋へ向かった。
押入れから取り出した段ボール箱を持ち上げ、再びリビングに戻る。
「これはお母さんからだ」
「え?」
ソファの前に置くと、寝転がっていたまひるが顔色を変えて起き上がった。
それまでに写真やビデオを見せたことはあっても、他の物はこの箱の中にしまっておいた。
もうすぐ中学生になる、今のまひるにならきっと、朋美の思いが十分過ぎるくらいに伝わるだろう。
ガラガラ、よだれかけ、小さなワンピース、おしゃぶり。赤ん坊が使うものの中から、まひるがそれを見つけて取り出した。
「これ、何? ノート?」
年数が経った割に、綺麗な表紙のノート。朋美が大事に扱っていたことがよくわかる。
「まひるが生まれる前にお母さんが買ったんだ。その日からのことが書いてある。ひらいて中を見てごらん」
「いいの?」
「もちろんいいさ。お母さん、まひるが大きくなったらこれを見せたいって言ってたんだ。こんなに可愛がってたんだよって、まひるに伝えたいって」
ページをめくり、真剣な眼差しで文字を追うまひるの大きな瞳から、大粒の涙が溢れ出した。ぽろぽろと零れ続けるそれは、朋美がいなくなってからの数か月、黄昏時に泣き続けたあの涙に似ていた。
彼女は、俺とも朋美とも、どちらともとれない誰かに、静かな声で言った。
「……ありがとう」
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