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50 千影視点 僕の女神へ(1)
しおりを挟む千影は、自分を見上げている夕美の髪を撫でながら、当時はまだ高校生だった彼女との出会いを思い出す。とたんにノスタルジックな甘酸っぱさが胸の中に広がった。
「僕が崖から飛び降りようとしたとき、夕美が引き止めてくれた。……さすがに忘れてないよね? いや、思い出してくれたんだよね?」
「あ……あの人って、千影さんだったの?」
夕美は、戸惑いと怯えを混ぜた複雑な瞳で千影を見つめている。
……ああ、なんて可愛らしいのだろう。
「そうだよ。どうせ死ぬなら、僕が好きな自然の中がいいと思って、適当にあの場所を選んだ」
「でも、宿泊者名簿には千影さんの名前なんて――」
「この前、僕らが夕美の実家に泊まったときのことだね。僕に隠れて必死に名簿リストを漁ってた夕美のこと、抱きしめたくて仕方なかったなぁ」
クスッと笑いかけると、彼女は泣きそうな顔をする。今すぐにでも彼女の何もかもを奪いたくなるが、どうにか抑えた。
千影は起き上がって、夕美の横に寝転んだ。少々狭いので横向きになり、彼女の体もこちらへ向かせて優しく抱きしめる。
嫌がる素振りはないので、話を続けることにした。
「もちろん偽名を使ったんだよ。住所もデタラメだ。死んでもすぐに素性がわからないように」
「だ、だったら、わざわざ宿泊の予約を取らなくても」
疑念をぶつけてくる声は震えており、千影の胸中もそれに呼応して甘く震える。
「まぁ、普通はそう考えるよね、うん。君は正しい」
夕美の体を抱きしめながら、千影はうなずいた。彼女は黙して、まるで身を潜めるかのように千影の腕の中でじっとしている。
この宝物を壊さないようにしたいのに、同時に抱き潰したくもなるのはなぜだろう。そんな思いを抱えながら、千影は続きを話す。
「でも、あのときの僕はそうした。死んだあとで、やっぱり見つけてほしかったのかな。……よく覚えてないんだ。気づいたらもう、山の奥へ向かっていたから」
あの日の、夕美に出会うまでの記憶は今でも曖昧だ。ただただ自分を消したくて、ビジネスの予定があったにも関わらず、遠くへ向かう電車に飛び乗っていた。そこまでの道のりや、駅についてからの行動、いつどこから宿の予約を入れたのかも、よく思い出せない。
断片的な記憶に残っているのは、東京駅構内のざわめきや、いつの間にか在来線に乗っていたこと。乗り換えをする時に、一度だけ訪れたことのある長野へ向かおうとぼんやり思ったこと。車窓から見える田園風景、ホームに降り立ったときの涼しい空気、森の木々の匂い、くらいだ。
「君に止められたあと我にかえった僕は、ロッジで自分の姿を確認して笑っちゃったよ。スーツ姿に山用のジャケットを羽織ってさ、履いていたのは革靴だった。お義父さんたちには奇妙な客だと思われただろうな。あ、君もそう思ったよね」
夕美の肩が小さく揺れた。急に矛先を向けられて驚いたのだろう。
「それよりも、ああまでしないと、あのときのことを思い出してくれないだなんて、それはちょっと悲しかったかな」
「……」
夕美の言葉が届かない。
「ん? もう一回言って?」
「……ぜんぶ、思い出させるために……? あの山での出来事を私に……、それで一緒に実家へ行ったの……?」
蚊の泣くような声だったが、どうにか聞き取れた。
「夕美は僕を救ってくれた。君がいなければ、僕はこうして生きてはいない。元気になったら、あのときのお礼を言おうと決めていた。でも……」
夕美と約束した通り、元気になって再出発を果たせたら、彼女がいたロッジへ行き、お礼を言って腕時計を渡そう。そう思っていたのだが……。
「でも……?」
「君を好きになっちゃったから、それだけじゃ物足りなくなったんだ。だから敢えて僕から言わずに、君に思い出してほしかった」
当時、夕美はまだ高校生であり、女性として見るつもりはなかった。だがその後、何年もロッジへ通う内に、いつの間にか彼女に惹かれてしまったのだ。そこで彼女に会うことはなかったにも関わらず。
「……千影さん、教えて。私と出会う前に、何があったの? どうして死のうだなんて……」
「夕美が聞きたいなら話すよ。途中で逃げ出さないと約束してくれれば」
千影の言葉を聞いた夕美の体が固くなる。
「……逃げない」
「わかった」
もう震えてはいない彼女の声に強い意思を感じ、千影は記憶の奥深くへと沈み込んでいった。
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