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第四章(最終編)悠久の時を越えて
5 宰相の嘆息
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《女王ネルバの側近 ヨルム視点》
赤い柱が等間隔に並ぶ回廊を湿った風が吹き抜けて、茶色の袍の袖や裾を乱していく。海からの涼風は、最近蒸し暑くなりつつあるこの時期に嬉しいものだが、今日の風は湿気が多い。回廊から見上げる空も重く、 一雨来そうな気配だ。
潮風による腐食を 防ぐために塗られている赤い柱を見て、また塗り替える時期のようだと胸の中で頷く。じきに管理部のほうから、予算明細と計画案が届くだろう。
執務開始前の定刻通りの時間に、私は執務室の扉を叩いた。いつもなら既に中にいるはずの女王の声がない。私は扉を守る衛兵に疑問の顔を向けた。
「今朝はまだお見えになっておられません」
麻の短筒の袖に短いズボン。その上に革の胸当てと脛当てを装備し、手に持った槍を真っすぐに立てた衛兵が律儀に応じた。
――おや、珍しい。自分より遅いとは。
だから嵐がくるのかと、私はずいぶん失礼なことをつい思ってしまった。
十七で就任したネルバ女王は、ほかに楽しみはないのかと心配するほど、生真面目に政務に取り組む。 美しい若い女王に多くの男が群がり寄るが、とうとう心を許す男一人もなくいつしか二十代の華の歳も過ぎてしまった。
執務室に入り、やりかけの業務や今日処理すべき書類などを整理する。先代の王夫妻――ネルバ女王の御両親が即位されてからずっと宰相として実務の処理に当たってきた私も六十の坂を越えた。
海の魔物に重傷を負わされた王に、跡を継ぐネルバ姫の政権を支えるようにと頼まれ、王を追うように病で亡くなられた王妃に託され、私は退任の時期を失って今に至っている。そろそろ後進に後を譲らねばならない。
それなりに若い者たちも育ってきており、政務の多くも任せられるようになってきた。だが、ネルバ女王自身の身が固まらない。ネルバ女王を託せるご伴侶がせめて見つかるまではと、私も頑張っているのだが。
自分の机で書類にペンを走らせていると、ネルバ女王が入ってきた。日頃よりずいぶん遅いお出ましだ。
自分の席で立ちあがって出迎えながら、どこか具合でも悪いのだろうかと様子を窺う。
一つ頷いて自分の執務席に向かう足取りはきびきびしていて、むしろよりお元気そうに見えた。顔色も良く、幾分上気している。すこぶる機嫌がいいらしい。
いつも冷たいくらいに無表情の彼女には珍しい。
私はおや? と思わず顔を見つめた。
「……となります。如何致しましょうか?」
「……っは! ああ、すまぬ。もう一度説明しておくれ」
「…………」
これで四度目である。同じ説明を既に三たび繰り返していた。
「いえ。これは急ぎの要件ではありませんので。次の時に」
これもこちらで処理しておかねばならないだろう。私は溜息を噛み殺した。
いったい女王はどうされてしまったのか? まったく心ここにあらずである。今も視線は書類に落としているが、焦点を結んでいるようではない。その上、直ぐにあちらこちらへ視線がさ迷いだし、そわそわと落ち着きもない様子。
こんなネルバ女王を初めて見る。
頬を染め、胸に手を当て、溜息をつく。
こう言ってはなんだが、まるで十代の少女のようだ。
私は孫娘を思い浮かべた。十二になった孫は最近色気づいて何やかやと大騒ぎしている。女王のご様子が、丁度そんな孫と重なって見えた。
まさかな。まさか、その御歳で初恋でも患っておられるとか?
いやはや、いやいや、私も耄碌したかと首を振って馬鹿な考えを頭から払ったが、女王が集中力を欠き、常軌を逸しているのは紛れようもないことだった。
長年苦労して準備してきた国を挙げての大願成就が満を得て成されようする刻が迫っているのだ。このまま腑抜けな状態で迎えるわけにはいかない。しっかりしてもらいたいものだと、私は心の底から叫びたかった。
執務室で昼食を取ることがことが常であったネルバ女王が珍しく奥宮の自室へ戻った。私も休憩にするべく重い腰を上げたところへ、荒々しい足音を無遠慮に立ててクワイが押し入ってきた。
女王の従兄殿であるクワイは肥えた腹を揺すってきょろきょろと部屋を見回す。私を目にとめると、問いただしてきた。
「ネルバはどこだ? いつもここにいるんじゃないのか?」
私はクワイに物の通りを思い出させるために指摘した。
「いくら従兄殿とて、女王様を呼び捨てとは不敬でしょう。言葉使いもなっていませんよ」
「ネルバは俺の妻になるのだから、夫がどう呼んだってかまわないだろう。今日の昼は一緒に食事しようと言ってあったはずだ。どこにいる?」
「ご自室に戻られましたよ。それは、あなたがおっしゃっただけで、女王様は承諾なさっていないでしょ?」
「むう。ならば、晩飯は一緒にしようと伝えてくれ。もうそろそろ夫の俺ともっと親交を深めても良い頃だ。例の期日も迫っているしな。ネルバは照れ屋でしょうがない。そこが可愛いのだがな」
クワイはでれでれと相好を崩して出て行った。
おめでたい男だ。ネルバ女王が嫌っているとツユとも思っていないらしい。
私は何度目かの溜息をついた。今日は朝から溜息ばかりをついているような気がする。
ネルバ女王のお相手にクワイはないだろう。たしかに魔力だけは大きいが、それだけの男だった。頭も性格もお粗末だ。女王の従兄という身分だけは高くて、顔もそこそこだったので、野心的な女たちからもてはやされ、自分がもてる男だと勘違いしている。だが、女王を支え、伴に政権を担うにはあまりにも力不足だった。
優れた者はいる。性格の良い男もいる。だが、今、ネルバ女王の相手として相応しい者の中に、魔力がネルバ女王と添えるほどの者がいなかった。魔力の差が大きいと子を成しづらいし、何より魔力に当てられて心身が萎縮し寿命を縮める。
魔力が大きく鈍感でお気楽なクワイだから、ネルバ女王相手でも平気でいられるのだ。大抵の者は自然と膝をついてしまう。それほどに、ネルバ女王の魔力は大きかった。
「外の国の者でもよい。どこかにネルバ女王と対等に添える者がいないものだろうか?」
赤い柱が等間隔に並ぶ回廊を湿った風が吹き抜けて、茶色の袍の袖や裾を乱していく。海からの涼風は、最近蒸し暑くなりつつあるこの時期に嬉しいものだが、今日の風は湿気が多い。回廊から見上げる空も重く、 一雨来そうな気配だ。
潮風による腐食を 防ぐために塗られている赤い柱を見て、また塗り替える時期のようだと胸の中で頷く。じきに管理部のほうから、予算明細と計画案が届くだろう。
執務開始前の定刻通りの時間に、私は執務室の扉を叩いた。いつもなら既に中にいるはずの女王の声がない。私は扉を守る衛兵に疑問の顔を向けた。
「今朝はまだお見えになっておられません」
麻の短筒の袖に短いズボン。その上に革の胸当てと脛当てを装備し、手に持った槍を真っすぐに立てた衛兵が律儀に応じた。
――おや、珍しい。自分より遅いとは。
だから嵐がくるのかと、私はずいぶん失礼なことをつい思ってしまった。
十七で就任したネルバ女王は、ほかに楽しみはないのかと心配するほど、生真面目に政務に取り組む。 美しい若い女王に多くの男が群がり寄るが、とうとう心を許す男一人もなくいつしか二十代の華の歳も過ぎてしまった。
執務室に入り、やりかけの業務や今日処理すべき書類などを整理する。先代の王夫妻――ネルバ女王の御両親が即位されてからずっと宰相として実務の処理に当たってきた私も六十の坂を越えた。
海の魔物に重傷を負わされた王に、跡を継ぐネルバ姫の政権を支えるようにと頼まれ、王を追うように病で亡くなられた王妃に託され、私は退任の時期を失って今に至っている。そろそろ後進に後を譲らねばならない。
それなりに若い者たちも育ってきており、政務の多くも任せられるようになってきた。だが、ネルバ女王自身の身が固まらない。ネルバ女王を託せるご伴侶がせめて見つかるまではと、私も頑張っているのだが。
自分の机で書類にペンを走らせていると、ネルバ女王が入ってきた。日頃よりずいぶん遅いお出ましだ。
自分の席で立ちあがって出迎えながら、どこか具合でも悪いのだろうかと様子を窺う。
一つ頷いて自分の執務席に向かう足取りはきびきびしていて、むしろよりお元気そうに見えた。顔色も良く、幾分上気している。すこぶる機嫌がいいらしい。
いつも冷たいくらいに無表情の彼女には珍しい。
私はおや? と思わず顔を見つめた。
「……となります。如何致しましょうか?」
「……っは! ああ、すまぬ。もう一度説明しておくれ」
「…………」
これで四度目である。同じ説明を既に三たび繰り返していた。
「いえ。これは急ぎの要件ではありませんので。次の時に」
これもこちらで処理しておかねばならないだろう。私は溜息を噛み殺した。
いったい女王はどうされてしまったのか? まったく心ここにあらずである。今も視線は書類に落としているが、焦点を結んでいるようではない。その上、直ぐにあちらこちらへ視線がさ迷いだし、そわそわと落ち着きもない様子。
こんなネルバ女王を初めて見る。
頬を染め、胸に手を当て、溜息をつく。
こう言ってはなんだが、まるで十代の少女のようだ。
私は孫娘を思い浮かべた。十二になった孫は最近色気づいて何やかやと大騒ぎしている。女王のご様子が、丁度そんな孫と重なって見えた。
まさかな。まさか、その御歳で初恋でも患っておられるとか?
いやはや、いやいや、私も耄碌したかと首を振って馬鹿な考えを頭から払ったが、女王が集中力を欠き、常軌を逸しているのは紛れようもないことだった。
長年苦労して準備してきた国を挙げての大願成就が満を得て成されようする刻が迫っているのだ。このまま腑抜けな状態で迎えるわけにはいかない。しっかりしてもらいたいものだと、私は心の底から叫びたかった。
執務室で昼食を取ることがことが常であったネルバ女王が珍しく奥宮の自室へ戻った。私も休憩にするべく重い腰を上げたところへ、荒々しい足音を無遠慮に立ててクワイが押し入ってきた。
女王の従兄殿であるクワイは肥えた腹を揺すってきょろきょろと部屋を見回す。私を目にとめると、問いただしてきた。
「ネルバはどこだ? いつもここにいるんじゃないのか?」
私はクワイに物の通りを思い出させるために指摘した。
「いくら従兄殿とて、女王様を呼び捨てとは不敬でしょう。言葉使いもなっていませんよ」
「ネルバは俺の妻になるのだから、夫がどう呼んだってかまわないだろう。今日の昼は一緒に食事しようと言ってあったはずだ。どこにいる?」
「ご自室に戻られましたよ。それは、あなたがおっしゃっただけで、女王様は承諾なさっていないでしょ?」
「むう。ならば、晩飯は一緒にしようと伝えてくれ。もうそろそろ夫の俺ともっと親交を深めても良い頃だ。例の期日も迫っているしな。ネルバは照れ屋でしょうがない。そこが可愛いのだがな」
クワイはでれでれと相好を崩して出て行った。
おめでたい男だ。ネルバ女王が嫌っているとツユとも思っていないらしい。
私は何度目かの溜息をついた。今日は朝から溜息ばかりをついているような気がする。
ネルバ女王のお相手にクワイはないだろう。たしかに魔力だけは大きいが、それだけの男だった。頭も性格もお粗末だ。女王の従兄という身分だけは高くて、顔もそこそこだったので、野心的な女たちからもてはやされ、自分がもてる男だと勘違いしている。だが、女王を支え、伴に政権を担うにはあまりにも力不足だった。
優れた者はいる。性格の良い男もいる。だが、今、ネルバ女王の相手として相応しい者の中に、魔力がネルバ女王と添えるほどの者がいなかった。魔力の差が大きいと子を成しづらいし、何より魔力に当てられて心身が萎縮し寿命を縮める。
魔力が大きく鈍感でお気楽なクワイだから、ネルバ女王相手でも平気でいられるのだ。大抵の者は自然と膝をついてしまう。それほどに、ネルバ女王の魔力は大きかった。
「外の国の者でもよい。どこかにネルバ女王と対等に添える者がいないものだろうか?」
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