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第三章 続続編 古代魔法陣の罠

20 キシリアと語らう

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 《オズワルド視点》

 キシリアが案内してくれたのは、庭を見渡せるサンルームだった。やや広い寛いだ空間の一部が庭に突き出すように開いていた。そこの部分は高価なガラス張りになっていて日差しが春の盛りのように暖めている。
 ここでサロン仲間や多くの客人と笑い楽しんで過ごしたのであろう。

 キシリアの好みらしい美しい彫刻が縁や脚に入ったテーブルと、揃いの絹張りの椅子。刺繍が施されたソファ。凝った造りの長椅子。暖炉の前にはいくつもの大きなクッション。カウンターの背後の戸棚にはたくさんの綺麗なグラスや酒。

「何かお飲みになります?」

 鈴を鳴らして侍女を呼ぶと二十になったかどうかの娘がやってきて、カウンターで酒を用意し始めた。

「今日は客はいないのか?」

 この問いにキシリアはふっと自嘲するような笑みを零した。

「もうわたくしも若くはありませんわ。昔のようなバカ騒ぎは疲れます。今は音楽家の卵や画家の卵が滞在する程度ですのよ。若い芸術家たちは芽が出るまで、その日の暮らしすらも苦しいものです。少しでも支援できたらと思っておりますの」

 侍女が渡してくれた酒は強めの蒸留酒に氷を落としたものだ。キシリアが私の好みを伝えてくれたのか。それともただの偶然なのだろうか。

「その、あれらはどうしたのだ? その、子供たちだが?」

 私は言い出しにくい件をきまり悪げに訊ねた。確か何人か子供ができたとか聞いたことがあるが、今、この屋敷には気配がない。別宅は静かだった。

 キシリアは私を驚いたように見つめていたが、やがてほほほとおかしそうに笑いだした。

「それは私の侍女たちですわ。王宮の女官だった彼女たちは美人揃いでしたからね。サロンに訪れる殿方も彼女たち目当てがほとんどでしたのよ。一時、子供たちでそれは賑やかだったこともございましたわね。ほほほ。まあ、ほほほ。将軍はどんな誤解をなさっていたのでしょう。ほほほほ」

 私は頬を赤らめる。そういう形での話は伝わってこなかった。キシリアもきっと承知で、誤解されやすいように話を流したに違いない。これは、不誠実な夫へのキシリアの意趣返しだったのかもしれないと思い至った。

「女官たちは? 今、ここにはいないようだが」
「彼女たちは皆、出て行きました。ここの田舎暮らしが嫌になって出て行った者もいますし、夫を得て幸せに所帯を持った者もいます。たまに子供や孫を連れて顔を見せに来てくれる者もおりますのよ。彼女は、あの頃はずいぶん心得違いをしていたと、ひどく悔やんでいるようですわ」

 キシリアはカクテルを一口飲んで、まだ緑の乏しい花壇を眺める。その横顔が思いのほか疲れているような気がして胸を突かれた。

 華やかな暮らしをしていたと思っていた。奔放に思いのままに人生を謳歌していると思っていた。
 だが、その多くの伝聞は全く真実ではなかったのかもしれない。彼女は幸せではなかったのだと悟った。

 自分が生んだ子供を捨て、慣れ親しんだ王都を離れ、世捨て人のような森の中の屋敷に引き籠って。
 心から笑ったことなどなかったのではないかと、ふと感じた。

「将軍、あなたはとうとう来てくださらなかった。あんな誤解を生むような噂が流れても、わたくしを問い詰めにいらしてはくれなかった」

 キシリアが視線を遠くへ飛ばしながら、ぽつりと独り言のように言葉を紡いだ。

「わたくしは待っていました。本当はわたくしから出向くべきだと、思ってはいました。でも、わたくしも若かったし、愚かで、意地っ張りでした。わたくしね、将軍のことを憧れていましたのよ。凱旋するお姿はとても立派で雄々しくて。娘たちはみんな憧れておりましたわ。将軍のところへお嫁に行けて、わたくし幸せだと思っておりましたの」

 キシリアが悪戯っぽい表情で振り返った。きらきらとした少女の顔と被って見えた。私の胸がどきどきと早鐘のように鳴りだす。

「時折、王都の噂が聞こえます。ロワクレスはあなたに似ているようですわ。娘たちの憧れだそうですわね」

 だが、キシリアはまた視線をガラスの向こう、早春のうっすらと雲が流れる空へと投げた。

「わたくしは当時、まだ、子供で何も知らなかった。無知でした。屋敷での暮らしは、王宮での暮らしと何もかもが違っていました。わたくしは妻となる本当の覚悟もなかったのですわ。物語の中で読む幸せな結婚という夢を見ているだけでした。現実を理解していなかった。あの家で、わたくしはただただ、窮屈で、足りなくて、不満でいっぱいになってしまいました。何もできないわたくしを家の者が嗤っているようにさえ思ってしまいましたのよ。社交界へ出ればわたくしは子爵家の妻。これまで傅かれていた者たちに礼を尽くさねばならない立場になってしまった。そんなことも、あの当時はとても辛かった。馬鹿でしたわ」

 彼女の横顔は苦渋を飲み混むような苦しさが浮かんでいた。だが、私は何も言葉をかけてやれなかった。当時の私は彼女が抱えていた苦悩も困難も、まるで気づいてやれなかった。気づこうとさえしなかった。
 
「侍女たちもそんなわたくしに油を注ぐように、不満や不備を言い立てて、ザフォードの家の悪口ばかり焚き付けて来ました。ええ、今ではわたくしも侍女たちの驕り昂った不徳な振る舞いだったとわかりますわ。でも、そんな侍女たちを抑えることもできなかった。わたくし自身も身分に驕って何も見ようとしなかった。結局、わたくしの至らなさが全ての原因でした。わたくしはあなたの妻として失格でしたわ。母としても」

 ――違う! 失格だったのは私のほうだ。

 私は心の中で叫んでいた。彼女の精神を追い詰めてしまったのは、私だったのだ。私こそ、夫として、父として何も心得ていなかった。何もしなかった。

「あなたがとうとうお訪ね下さらなかったことこそが、わたくしの不心得の証です。当然です。わたくしがあなたとロワクレスにした仕打ちはそれほどのことですから。そのことをやっと理解した時は遅すぎました。ですから、わたくしは諦めたのです」

 閉じた口元に苦みを含んだしわが刻まれた。急に彼女が歳相応の、いやそれ以上に疲れ切った老女に見えた。

 その瞬間、腑に落ちる。
 私はキシリアを愛していたのだ。愛しているからこそ、憎悪し、絶望した。憎悪は愛の裏返し。憎悪するほどに私は愛していたのだ。今もなお。

 気が付いたら、口が勝手に想いを吐露していた。

「私はかつて王女だった貴女を一目見た時から焦がれていた。そして、それは今も変わらない。私は自分で自分の心に封をしてそれに気づかないようにしてきた。だが、やはり私が貴女を愛している心は消えることはなかった。キシリア。今更、虫がいいとは解っている。あれだけの仕打ちをしておいて、どの口が言うと非難もされよう。しかし、私はそれでも言おう。貴女に乞い願う。今一度やりなおせないか? 私のところに戻ってきてはくれまいか?」

 振り返ったキシリアの瞳が大きく見開いていた。翠の眼に驚きを浮かべて見つめてくる様子はあどけない少女のようだった。
 私は立ち上がって彼女を抱き締めようと手を伸べたが、長い年月が私を臆病にした。私の手は伸ばされたまま、途中で止まってしまう。

「二十五年。二十五年ですわ。なんて時間を無駄にしてしまったのかしら……」

 キシリアが呟いた。見る間に、気丈な瞳が潤んでくる。ぽろぽろと涙が零れて白い頬を流れ落ちていった。

「わたくしは母親なのに、ロワクレスを捨てたんです。あなたにひどい言葉を投げ、冷たい態度であなたを捨ててしまったのです。わたくしにはあなたの想いを受ける資格がありません」
「しかし、今の貴女はそれを悔やんでいる。まだ、やり直せる。今一度、私とともにやり直そう」

 だが、キシリアは首を横に振った。

「わたくしの罪は重いものです。わたくしは自分が許せません。あなたの想いに再び応えられるかどうかも自信がありません。ここでの暮らしもすっかり馴染み、わたくしを頼りにしてくれる者も、親身になってくれる者もおります。彼らを、また、わたくしの勝手で捨てることはできません。王都へ参ることはできませんわ」

 二十五年という歳月は彼女の上にも確かに存在し、ここでの繋がりができているのは当然のことだった。キシリアの逡巡も理解できる。
 だが、これは拒絶ではないはず。キシリアが私を再び受け入れてくれようとしているのかもしれない。そう思うと、凍り付き屍のようになっていた胸の中に温かいものが流れ始めるのを感じた。

「そうだったな。貴女には貴女の暮らしがある。私は待とう。貴女が私とともに暮らせる日まで。二十五年も待ったのだ。さらに待つことぐらいできよう。だが、私がここへこれからも度々訪れることを許して欲しい」

 キシリアは立ち上がって私と向き合った。だが、その眼はまだ厳しく、身体の動きも口調も堅苦しいものだった。

「ここは将軍の領地ですのよ。許しを請う必要はありませんわ」

 他人行儀な様子は崩してはいないが、それでも疎まれてはいないのだろうと思う。

「ありがとう。だが、キシリア、あまり私を待たせ過ぎないで欲しい。せめて墓へ入るまでには、共に暮らせるようになりたいものだ」
「……まあ!」

 ほほほとキシリアの笑い声が弾けた。それは、心から笑う王女の頃の明るい笑いだった。
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