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16.湖

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 彼が向かったのはボート乗り場だった。椿をボートに乗せると、慣れた手つきで漕ぎ出す。
 湖の中央まで来ると、ギルバートは言った。
「ここならひとりになれる」
 確かにそうだった。
 湖を取り囲む緑はとても美しいが、とても遠かった。周囲でボート遊びに興じている人々は自分たちの楽しみに熱中しているし、水鳥たちは人間には無関心だ。
「ほんとにそうですね」
 椿は、湖に漕ぎだすのはいい案だと思った。ここなら罪悪感を感じることもない。
「私もボートが漕げるといいんですけど」
「漕いだこと、ないのか?」
「はい。乗ったのも初めてです」
 言いながら手を伸ばし、冷たく澄んだ水を掬う。そのまま手をあげると、指の隙間から零れ落ちる水が光を受けて煌めいた。
 とても綺麗だった。
「漕いでみろよ」
「はい?」
「教えてやるから、やってみろ。ほら」
 差し出されたオールを受け取り、言われるままに漕いでみる。が、オールは湖面を撫でるばかりでボートは一向に動かない。
「あ、あれ?」
「もっと深く水に差し込め」
 オールを深く差し込むと、ボートどころかオールを動かすことさえできなくなった。
「深すぎるんだよ。もう少し浅く」
「はい」
 言われた通りにしてみるとオールは動いた。が、ボートは進まず、一カ所でくるくる回るだけだ。
「左右の力を均等にしろ。利き手じゃない方の手に、少しだけ力を多く込める感じで」
 左手に力を込めると、今度は逆に回り出す。
「ど、どうして? なんで回るんですか?」
「左手に力が入りすぎてるんだ。同じくらいの力になるように加減しろって」
「そんなこと言われたって」
 椿は少し浅めにオールを水に入れ、思いっきり漕いでみた。
 水が舞い上がり、ギルバートを直撃する。
「ご、ごめんなさい!」
 ギルバートは額に金髪をはりつけ、椿を一瞥した。緑の瞳の輝きが怖かった。
「ごめん、なさい……」
 近くを通りかかったボートの老夫婦の夫の方が、ギルバートに声をかけた。
「がんばれよ、お若いの。私も女房を口説き落とすまでには何度もそうやって水をかけられたものさ」
 笑みを含んだ声で、老婦人が夫を窘める。
「あなたったら」
 ギルバートは彼らに軽く手を振り、深々とため息をつくと、椿の手からオールを取り上げた。
 怒っちゃったかな。でも当然だよね。せっかく教えてくれようとしてたのに、水をかけちゃったんだもの。どうして私って、いつも人に迷惑をかけちゃうんだろう。
 椿は鞄からハンカチを取り出すと、ギルバートに差し出した。
「ギルバートさん、あの……、これ、使ってください」
 ギルバートはそれを受け取り、顔や頭にかかった水を拭いた。
「水をかぶっても大丈夫な時期になったらちゃんと教えてやるから、腕立て伏せでもして両腕に筋肉をつけとけ」
 椿は驚いた。
「怒ってないんですか? 水、かけちゃったのに」
「初めてだったら仕方ないだろう。ましてやそんな細っこい腕じゃ」
「細くないですよ。こっちに来てから太りました」
「太いって、それで?」
 呆れたようにまじまじと見られ、椿は居心地が悪くなった。
 余計なこと、言わなきゃよかった。
「じゃ、太さに見合うだけの力をつけるんだな」
 ギルバートはハンカチをポケットにしまうと、再びボートをこぎ出した。
「あの、ハンカチ……」
「洗って返す」
「いいですよ、そんなの気にしないでください!」
 それでも、ギルバートはハンカチを返そうとはしなかった。
 椿はいたたまれなくなる。
 悪いことしたなあ。ギルバートさんは親切にしてくれてるのに、かえって気を遣わせてばっかりだ。お買い物にきてたのに、それだって邪魔してって、……あれ?
「ギルバートさん、お買い物にきてたんですよね?」
「え? いや、俺は……」
「もう、済ませたんですか? それとも、まだ済んでないんですか? 御用が済んでいないなら、もう岸につけていただいていいですよ。なんだか今日はすっかりつきあわせてしまったみたいで、」
「俺は、別に買い物に来たわけじゃない!」
 ギルバートは椿の言葉を遮るように、声を張り上げた。
 椿と目が合うとそっぽを向く。
「だ、だから、その……」
 弁解するように呟いていたが、はっきりした内容はない。
 耳まで赤くなっていたので、何やら気恥かしかったのだろう。
 もしかして、ひとりになりたくてボートに乗りにきたのかもしれない。
 そう思ったが、椿はそれについては何も言わないでおくことにした。
 多分これはギルバートさんのとっておきの秘密で、それを教えてくれたのだから。
「ギルバートさん」
 買い物袋から取り出したリンゴを放る。
 弧を描いて手元に届いたリンゴを、ギルバートは受け止めた。
 問うような視線を向けられ、椿はにっこり笑った。
「おやつです。たまには丸かじりもいいでしょう?」
 そう言ってリンゴをかじると、ギルバートも笑みを返した。
「おまえ、ほんとにリンゴが好きだよな」
 上着の袖で軽くリンゴを拭いてから、ギルバートはそれにかじりついた。
「好きというよりも、習慣ですね。祖父が作ってくれたお弁当には必ずウサギリンゴが入っていたので、ないと落ち着かないんです」
「爺さんが作るのか?」
「はい。私は祖父に育てられたので。祖父と、桜と藤の木が私の家族です。桜も藤も遊んでくれましたけど、料理はできませんから」
 そう話してから、ギルバートが訊いたのは料理人は雇っていないのか、ということだろうと思い当たった。
 そういえば、と椿は思う。
 白鹿が自炊用の寮というのは名前だけにすぎない。もともとは白鳥では対応できない、アレルギーなどの身体的理由や宗教上の理由で食事制限のある生徒のために作られたが、鷹也と椿以外は皆、料理人を雇っている。
 さらにまた、鷹也が自炊しているのは自分で作るのが苦ではないからで、料理人が雇えないからではない。
 皆、椿とは生活レベルが違いすぎるのだ。
 だが、ギルバートはそれについては何も言わなかった。
「親は?」
「ふたりとも、私が子どもの頃に車の事故で亡くなりました」
「鷹也もそう言っていたが」
「ええ。親族の集まりに行く途中、私と鷹ちゃんと、あと同世代の親戚ふたりの親が同じ事故で亡くなりました」
 ギルバートは何とも言えない顔をした。心配しているような、悪いことを訊いてしまったというような。
 椿は慌てて言った。
「でも、みんなそれぞれちゃんと育ててもらいましたから。一宮の家は勿論ですけど、私も、祖父だけじゃなくて桜と藤にもかわいがってもらいました。桜は姫って呼んでいて、藤はみことって呼んでるんです。ふたりとも昔の日本の貴族みたいなんですよ。姫は樹齢千年以上で、命の樹齢は多分七、八百年で長生きなんです。音楽が好きで、お琴を教えてもらいました」
「命が七、八百歳で姫が千歳? ということは、爺さんは二千歳くらいか?」
「もっと上かもしれません」
 ふたりは笑みをかわした。
 他愛もない話をしながら岸に向かい、帰路につく。
 寮に向かう道で、道場帰りの鷹也と会った。
「デートか?」
「馬鹿、おまえ、何を……っ……」
 赤くなったギルバートをフォローするように、椿は言う。
「市場で偶然会って、送ってもらったの。そういえば、あのリンゴジャム、おばあちゃんに食べてもらったけど、やっぱりお砂糖の量が足りないって。ソースにしたらいいって言われたから、今日の夕飯は冷蔵庫にあったハムをリンゴソースで食べよう?」
 鷹也はそれに同意し、ふたりで歩いていたことにはそれ以上触れなかった。が。
 ギルバートと別れ、夕飯を取りながらその日にあったことを話すと、鷹也はあっさりと言った。
「傍から見たらデートじゃないのか、それは?」
 鷹也の指摘に椿は目を丸くする。
「そういうものなの?」
「おそらく」
「一緒にボートに乗っただけだよ?」
「当事者がどう思っていようと、判断するのは見た側だろう。それに、カンピオンはデートのつもりだったかもしれない」
「鷹ちゃん、いくらなんでも冗談きつい! でも、そんな……、学校じゃなかったし、誰にも気づかれてない……よね?」
 希望を込めて同意を求めてみたが、鷹也の返事は素っ気なかった。
「さあ? 結構みんな街に出かけてるから、中には湖でデートしてる連中もいるだろう。そうでなくてもあいつは目立つし」
 椿は改めて、ギルバートに近づかないように気をつけることにした。
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