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 木之原は「やられたな」と笑う。まるでカードゲームで負けた時のような軽い調子に、響はゾッとしたものが背筋を這った。
 ヒートを起こしたオメガをドラッグパーティーなんかに放り込めば、間違いなく複数のアルファに犯される。下手したら首も噛まれ、身体と心に大きな傷を負う。バース専門医の木之原が、その悲惨さを知らないわけがないのに。目の前の男が、全く知らない怪物のように見えた。 
「君たちの仕掛けに、僕は見事に引っ掛かったみたいだね。……君たちはどこまで、僕のことを知っているのかな?」
 通常の定期検診時のように、木之原が穏やかに尋ねる。咄嗟に声が出ない。隣に立つ壱弥が、響を支えるように背中を撫でてくれる。響は気持ちを鎮め、口を開いた。
「……最初に先生に疑問を抱いたのは、壱弥でした」
 三人でクリスマスケーキを食べたあの診察の日。帰りの車内で、「先生はなんで、TX+の匂いに似ている果物が、無花果だって分かったんだろう?」と壱弥が首を傾げた。
「……どういうこと?」
 響は意味が分からず聞き返す。
「だって、響は先生に『タルトの果物の香りが、TX+に似てる』って言っただけなのに、先生は無花果の葉っぱの話をし始めたから」
 予想外の方向から突然小石をぶつけられたみたいに、嫌な痛みが胸に広がった。
「……それは……俺、果物の香りって言ってた?無花果とは言ってなかった?」
 響は尋ねながら、その可能性はないなと気づいていた。壱弥の記憶力は、記憶というより、写真や動画を撮るように記録すると言った方が正しい。その正確さは疑う余地がない。
 TX+から無花果の香りがするなんて情報は、どこにも出ていない。フィアラル・アルファの優れた嗅覚のみが察知できる僅かな香りを――TX+使用者も売人も、押収した警察も知らないそれを、木之原は知っていた。
「……なるほど。語るに落ちたね」
 響の説明を聞き、木之原は自分のミスを恥じるように目を細めた。
「映像も物的証拠も押さえられてるんじゃ、隠しても仕方ないな。僕はTX+の開発者だよ。壱弥くんの鼻が嗅ぎ取った通り、TX+には無花果の葉が僅かだけれど使われている」
 木之原の告白に、響は目を見張った。
 TX+になにかしらの関わりを持っているだろうとは思っていたけれど、まさかその最高責任者だとは想像していなかった。
「産みの親だとは、さすがに思っていなかったかな?親馬鹿かもしれないが、なかなか悪くない薬だと思うから、ぜひ響君にも試してもらいたかったよ」
 にこりと笑う木之原に、響は思わず目を伏せる。響の尊敬していた彼は、もうどこにもいないのだと痛感する。いや。そんな人は最初からいなかったのかもしれない。
 響は顔を上げ、木之原を見据えた。 
「俺には不必要なものなので、遠慮しておきます。それに、あの脅迫状もいらないので、先生に全てお返ししましょうか?」
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