長久の隠恋慕

竹芦

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長久の隠恋慕

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 ーまだ見えぬ 斜陽に落つる 鬼の角 待ち焦がれては 小袖を振るうー

 私の家系には代々伝わる詩がある。
 幼少期に母から教えてもらったが、幼い私は興味もなかったので、そのうち忘れてしまっていた。今年のお盆までは。

 千代は今年で二十歳になる大学生だ。大学の研究室は建築関係で古い建造物の調査などをしており、最近は研究も楽しくなってきていた。

 夏休みに入り、お盆には祖父母の家へ泊りに行くのが恒例行事だ。
 母の実家はかなりの田舎で、建物は明治から残っているらしい。千代はこの家が好きで、建築分野を志したといっても過言ではない。冬は過酷なところがいただけないが、夏は涼しくて気持ち良い。


 夏休みに入っても研究室では論文を進める学生が机に向かっている。
 千代もその一人だ。
「お盆は母さんの実家に帰るんだ。建物もけっこう立派な造りしてるし、夏は最高なんよね」
 千代が研究室の友達に自慢している。
「いいなあ。あたしんちは東京だから暑いんだよねー」と由紀がぼやく。
「東京なら遊ぶところたくさんあるからいいじゃない」
「それもそうなんだけどー、東京に友達おらんしー、千代の実家遊び行っていい?」
 由紀はうだるような研究室の机に突っ伏しながら千代に言った。
「そうね。まあいいけど、お盆の間は親戚がたくさん来るわよ。お盆の前から行ってもいいけど。」
「いやいや、千代の御親戚や噂の弟くんを拝みに行かないと」由紀がいたずらな笑みを浮かべる。
「うちの弟見たいだけじゃない」
「あと涼みに行くわ」
「なんでこの研究室こんな暑いのよ」千代は額に玉の汗を浮かべ、うちわで扇ぐ手ばかり動く。
「節電だからねー」
「節電するたびに日本の文化は遅れていくみたいね」千代が由紀のパソコンを覗き込みながら言った。


 8月12日。
 13日からは親戚でごった返すということで二人は早めに祖父母宅へ向かうことにした。
 大学で待ち合わせして、免許を取ったばかりの由紀の車に乗り込んだ。
「なんか荷物まとめて旅に出るみたいねー」と由紀がはしゃいでいる。
「私は帰るんだけど。頼むから安全運転でお願いね」千代は内心ひやひやしていた。

 何度か危ない場面もあったが、無事に昼前までに到着した。
 田んぼと山ばかりで緑と青空が映える。
「豪邸じゃない!」由紀が声をあげる。
「田舎ならこんなもんでしょ」と千代は言ってみたが、少し誇らしかった。
「おばあちゃん、来たよー」千代が玄関の引戸を開けて言うと、隣の牛舎の方から「よう来たね」と祖父母が出迎えてくれた。
 由紀は相変わらずマイペースだが、お世話になりますと深々と頭を下げた。
「礼儀正しい子だねー、何もないけどゆっくりしていきなさいね」
 祖母は私が久々に友達を連れてきたので喜んでいる。

 一緒に居間でお昼をご馳走になってから、家の中を探検した。由紀も古民家には興味があり、写真を撮りまくっている。
 ちょうど仏間に着くと、祖母が盆飾りの準備をしていた。
「おばあちゃん手伝おうか」千代が声をかける。
「大丈夫、大丈夫もう終わるところよ」
 祖母は仏壇の隅々まで布巾で拭きながら言った。
 仏壇の周りには光がくるくる回る盆提灯や花が綺麗に飾られている。その中心には異質な額縁があった。銅板でできているらしく青緑色に錆びている。
 千代は毎年飾ってあるので気にしていなかったが、由紀は何だろうかと気になったようだ。
「これなんですか?」由紀が祖母に尋ねた。
「これは家に代々伝わる詩を私のひいお爺さんが今後も残していけるようにと、銅板に彫ってくれたものよ」
「それあの詩だったんだ」千代は今になって我が家に和歌が伝わっていたことを思い出した。内容は覚えていないが。
「どんな詩だったっけ?」千代はど忘れしたように祖母に聞いてみた。
 すると祖母が詠って聞かせてくれた。

 ーまだ見えぬ 斜陽に落つる 鬼の角 待ち焦がれては 小袖を振るうー

「すごいね千代の先祖は有名な歌人だったりして」
 由紀は高貴の眼差しで千代を見つめた。
「ご先祖様が詠ったものかもはっきりわかんないけど、そうだったとしても私はすごくないから、その目はやめなさい」

 二人は一通り部屋を見て周り、縁側で涼んでいた。
 部屋を風が吹き抜け、風鈴がりーんと鳴る。
「さっきの詩って、どういう意味なのかなー」由紀が気の抜けた顔で言う。
「さあ、鬼を待っているってことかしら」千代は詩の文字通りに想像した。
「そこは逃げるべきなのでは」
「うん、わかんないけど、先祖の言葉ってだけでもありがたいんじゃない。お盆はご先祖様帰ってくるんだし。」
「そういうもんかなー」
 何もわからないまま、特にする事もなくて、ただただ入道雲を眺めていた。

 暇そうな二人を見て、祖母が三時のおやつだと言ってスイカを切ってきてくれた。
「わーおっきいね。いただきます!」由紀が少し元気になった。
 スイカにかぶりつきながら由紀はモゴモゴ言っているが、夏みたいねと言っているようだ。
 千代は夏真っ盛りなのだがと思ったが、あえて突っこまず、ほんとね、と返した。
 時間がゆっくり流れるようだ。

 スイカを食べ終えた頃、祖母が桶に花や布巾を入れて外に出て行く姿があった。
「あんたのおばあちゃん、ほんと働き者ね。スイカのお礼に今度は何か手伝えるかな」由紀が縁側から飛び降りて走って行った。
「ちょっと、置いてかないでよ」千代も後をついていく。

「スイカごちそうさまでした!何かお手伝いしましょうか」由紀は祖母の目の前で急ブレーキをかけるようにして言った。
「お粗末様でした。わざわざ悪いね。裏山まで行くけど来るかい?祠にお参りしに行くのよ」
「裏山に祠なんてあったかしら」千代はその存在を知らないようだ。
「千代はもう二十歳になるんだっけか。ちょうどいいから教えておこうね」そう言って祖母は歩き出した。
 道中では大学での話をしたり、祖母から千代の昔話を聞いたりして笑いが絶えなかった。 
 おまけに山の景色や川のせせらぎは清々しく、日差しに焼かれるのも億劫になることはない。

 山を登り始めると、さすがに足が張ってきて会話が途切れた。すると祖母が口を開く。
「この裏山では昔から遭難する人や怪我をする人が多くてね、山神様の仕業だとか悪霊が住んでるだとか言われてたらしいんだ。もう何十年も前から伝わってる事だからはっきりとしたことはわからないよ。だけど、祠を参らなかった年には誰かがこの山で死んだそうだ」祖母は振り返らず歩みを進める。
「え、急に何?!ここそんな怖い山だったの?普通に遊びに入ってたわ」千代が驚いている。
「ずっとあたしがお参りしてたからね。今年は三人もお参りしてくれるんだ。心配することはないよ」
 やっと祖母は振り返って笑みを見せたが、お参りしないと死人が出るなんて気味が悪いと思う二人だった。さすがの由紀も苦笑いしている。

 登山道のような道から脇に逸れると谷を下る石段があった。
 下の方には小さな小屋が見える。階段を恐る恐る降りて小屋を覗くと、中には石垣が組まれてその上に木造の祠が鎮座していた。
 みすぼらしい小屋とは相反して緻密な装飾も施された立派な祠だ。柱や梁にも人や動物、龍など細かい浮き彫りがあり、禍々しくも感じる。
 祖母は慣れた手つきで祠の扉を開け、お神酒とサカキの枝を交換して、花を生けた。
 二人も布巾で祠を磨き上げるのを手伝った。
 そして揃って手を合わせた。

 来る途中であんな事を聞いてしまったものだから、千代は少し気が引けていたが、祠の精巧さ見惚れてしまった。
「もう少し見ててもいい?」と興味津々で研究者魂に火をつけたようだ。
「祠というか立派な神社のミニチュアね。こんなの見たことない」由紀も隅々まで観察している。
 そこで千代は気付いた。
 祠の奥の壁にあるもの。仏間で見た銅板だ。
「えっ」っと声が出てしまった。
 あれはご先祖様の和歌でお盆にご先祖様を尊ぶためのものじゃなかったの?そう勝手に解釈していた自分がいた。
 由紀も銅板の他に気付くことがあった。祠の階段を模した装飾に違和感がある。
 これでもかというほどの浮き彫りに目がいってしまうが、かすかに30センチ程の長方形の切れ込みが入っているのだ。千代の祖母の手前、触れるのは遠慮した。

「おばあちゃん、あの詩……」千代が祖母に不安げな表情を向ける。
 ここへ向かう時に聞いた言葉がぐるぐるまわる。山神様、悪霊、死人、もしかしたらご先祖様もここで……。
「それがおばあちゃんもなんでここにあの詩があるのかわからないのよ」
 祖母は何か知っているのだろうと思っていたが、ガクッときた。
「山の守り神にでもなってくれてるんじゃないかしら」と祖母は言う。
 それならいいのだが。

 祖母は持ってきた桶や取り替えたサカキをまとめて帰る支度をしている。
 千代の耳元で由紀がささやいた。
「あの階段に何かある」
 そんなことを言われると気になってしょうがない。
 おばあちゃんはお参りを欠かさないけど、伝統として受け継いでいるだけで、この祠のことや詩のことは詳しくは知らないようだ。

 千代は荷物をまとめて腰を上げた祖母に声をかけた。
「私、大学で建築やってるじゃない。この祠の造り方珍しいからもう少し見ておきたいんだけど、いいかな」嘘でもない嘘をついた。
「まあ立派な祠だとは思っとったがそんなにいいもんなんかねえ。いいけど遅くならんようにするんよ。帰り道はわかるね」祖母は特に気にせず許してくれた。

 祖母が谷を登る階段を登り切るのを見送って祠の前に戻った。
「何かって何よ」千代が訝しげに聞く。
「ここだけ切れ目が入ってる。何か入れた跡じゃないかな」
 二人とも祠の歴史の手掛かりがあるかもしれないと感じ、胸が高鳴る。
 とりあえず、千代は装飾の出っ張りをつまんで押したり引いたりしてみたが、びくともしない。
 今度はドアをノックするようにコンコンと叩いてみた。高い音が返ってくる。
「やっぱり空洞みたいね。これ引き出しみたいになってるんじゃない」由紀が目を輝かせている。
「でも開かないね。鍵穴もないし、仕掛けがあるのかな」千代はもう一度祠を観察し始めた。

 正面には観音開きの戸棚があり、中に銅板が立て掛けられている。
 そこへ続く階段を模した装飾。そして切れ込み。その周りにはたくさんの動物が立体的に配置されている。
 上から下へ順に目線を送ってみるがめぼしいものはない。

 徐々に小屋の中も薄暗くなってきた。
「うーん、お手上げかー。写真だけ撮って帰りますか。日も傾いてきたし」
 由紀がそう口にした瞬間、祠に2つの影が落ちた。


 突然の事で声も出なかった。二人はゾッとして肩をすくめる。思い切って振り返るが何もない。
 ひぐらしの鳴き声とカラスの鳴き声が聞こえ、山の谷間からは夕日が見えるだけだ。

「びっくりした。何か来たのかと思った」
 千代は早まる鼓動を落ち着かせようとゆっくり呼吸した。
 影の正体まで首を回すと頭上の梁につららのような出っ張りがあることに気付いた。
「これの影かー、驚かせやがって」由紀は天を仰いで言った。
 千代も由紀に続いて見上げてみると一気に鳥肌が立った。

「ねえ由紀、ちょっとしゃがんで」
 二人がしゃがんでみると、自分たちの影で見えていなかったが、出っ張りの影は祠の階段付近で尖った影を落としている。
「詩の斜陽に落つる鬼の角ってこれのことなんじゃない」千代は自分を抱きしめるような格好で言った。
「ま、まじで?!」
 由紀は2つの影の先端を確認してみた。
 どちらとも狛犬の装飾と重なっている。狛犬は何か関係があるのだろうか。
「この祠が詩と関係してるなら、鬼の角の続きにもヒントが隠されてるかもしれない?続きはなんだっけ」
「待ち焦がれては、小袖を振るう、ね。私ちょっと怖くなってきたんだけど」千代は少し帰りたくなってきていた。
 しかし由紀は大興奮だ。詩を繰り返し声に出してみて考えいる。
「待ち焦がれるってことは期待してる。言い換えてみると、首を長くして待っている。うーん、キリンはこの中に彫られてないよな」
「首を長くするってのは背伸びして遠くを見る動作ね。袖を振るのは手を振っているのかしら」
 千代は由紀の言葉から連想してみた。
 なるほどと、隣で由紀が千代の言葉通りの動きをしている。
 無意識に鬼の角の影を落としている梁に手が触れた。
「冷たっ」由紀が声を上げる。
「大きな声出さないでよ。びっくりするから」
「なんか当たった」由紀は伸ばした手の先を確認した。
 金属製の家紋のようなものがある。
「もし今の動作が正解なら……」由紀は家紋に触れたまま左右に手を動かしてみた。
 すると家紋もその手に合わせて左右に動き、祠からコンと木の軽い音がした。
「今度は何?」千代は少し震えた声で言った。詩と祠の仕掛けが合致していることを確信し、好奇心と恐怖が入り乱れている。
 もう一度祠を見てみると、鬼の角が指し示した狛犬がさきほどよりも飛び出ている。
 触ってみると狛犬には奥行きがあり、円筒形の引き出しになっていた。
「なにも入ってないねー」奥まで確認したがやはり空で、引き出しを抜き取ることはできないようだ。
「ねえ、そろそろ帰ろ。もうヒントもないし、おばあちゃんに心配かけちゃう」千代が由紀の裾を引く。
「そうね。何か発見があるかと思ったけど残念だね」
「もう十分な発見だったと思うけど」
 そう言いながら、千代は狛犬の引き出しをもとに戻そうと手のひらで押した。
 だが、狛犬がもとの位置に戻るともう片方の引き出しは勝手に飛び出してきた。
「うわっ、触ってないのに動いた」由紀が一歩下がる。
「こっちの引き出しを閉めたら動いたわ」
 千代は開いた方の引き出しも押して閉めてみた。
 やはりもう片方の引き出しが飛び出る。
「もう帰るところなのに、わかってしまったかもしれない」千代はため息をついた。
「どういうこと?」
「この引き出しは裏の空間がつながっていて、かなり機密性が高いみたいね。だから片方を押すと空気の圧力でもう片方が飛び出すってことじゃないかな」
「なるほど、で、引き出しはもう閉められないんだ」
「いやそれでもう1つ推測があるんだけど、なんで両方とも狛犬が付いてると思う?」
「うん?狛犬、こまいぬ……あうん?」
「そう!阿吽の呼吸って言うじゃない。これ、同時に閉めれば空気の圧力はこの中で圧縮されるか、また別の場所に力が加わるか、どちらかだとは思わない?」
「まさか」由紀は階段の切れ込みに目をやる。

「ここまできたらやるしかないね。鬼が出るか蛇が出るか」由紀が狛犬に手をかける。
「どっちも怖いんだけど」千代も狛犬に手をかけた。

「せーのっ!!」
 声を合わせて一気に引き出しを閉めた。

 ビンゴだ。
 微動だにしなかった切れ目の入った階段からは予想通り、引き出しが飛び出た。
 中を覗いてみると一冊の見るからに古そうな本がある。右側を紐で閉じてあり、表紙には『隠れ歌』と書いてある。この本のタイトルだろう。
 虫が喰った様子もなく、状態は良いようだ。
 千代は本を手に取って広げてみた。
 由紀も身を乗り出して本を除く。
 本の文字は少し崩して書かれていたので、すらすらとは読めないが、いくつか読める文字や単語がある。
 冒頭は読むことができた。「まだ見えぬ」から始まっている。
「この本が和歌の原本ってこと?」由紀が言った。
「わからないけど、まだ続きがあるみたいね」
 千代が本をめくりながら言う。
 しかし、読めない字もあり、何より薄暗くて見えづらい。
「持って帰って読んでみようよ」千代がそう言うので、由紀も喜んで同意した。
 本を由紀のリュックサックに入れて帰路に着く。
 二人は思い掛けず釣れた大モノを引っ提げて帰るような高揚感があった。
 もと来た道を戻り、山を出ると千代は不思議に思った。まだ日が高いのだ。
「山にいる時は18時過ぎてるのかと思ってたけど、まだ明るいわね」
「谷底だったから余計に暗かったんでしょ」
「それもそうね。時計も見ずにちょっと焦ってしまったわ」

 家に戻ると祖母が夕飯の支度に取り掛かっている。
「ちょっと遅くなっちゃった。ごめんね。」
 千代が祖母に話しかけるが、祖母は少し首を傾げた。
「あたしもさっき帰ってきたばかりよ。むしろ早かったわね。お夕飯もう少しかかるから、ゆっくりしてなさい。今日来たばっかりで疲れてるんでしょう」
 千代は驚きつつも、祖母の言う通り疲れているのかもしれないとも思った。現に時計を確認してみるとスイカを食べ終えてからニ時間も経っていない。
 本を勝手に持ってきたのを見られてはいけないと思い、二人は寝室で本を読んでみる事にした。

「千代はこういう古い字読めるんだっけ?」
「少しはね。同じ研究室なんだから、由紀も読めなさいよ」
「いやー寝落ちしながら書いたようにしか見えなくってさー、研究は適材適所でやってかないと、ね」
 千代達の研究室では歴史史料の調査などから建築物の復元を専門にしていたので、古文書には触れる機会があった。

 千代は母が使っていた学習机に本を広げて、横にコピー用紙を並べた。本の字を自分たちでも読めるように書き写していくのだ。
「出だしはあの和歌で間違いないわ。そのあとはこの詩に関する出来事のようね」
 千代は辞書を持ってきていなかったので、読める単語を抜き出していって意味が通じるように繋げたり、時折スマホで検索しながら筆を進めた。
 文章の意味を理解するたびにその物語の情景が広がっていく。いつもは苦労する解読も不思議なほどに難なく進んだ。
 由紀は隣に座って千代の様子を見ていたり、机に並んでいる小説をめくってみたりしていたが、うとうとしてきた。
 千代は由紀が寝こけているのも気づきもせずに筆を走らせていると、途中で祖母が夕飯が出来たよと私たちを探して歩く声が聞こえた。
 その声で目を覚ましたのか、由紀はフガッといってびくついた拍子に膝を机にぶつけて転げまわった。
「っつ、いってー」
「あら、寝てたの?ご飯できたみたいよ。行きましょ」
「寝てたの?って気づいてなかったの?どんだけ集中してたのよ」
「つい捗っちゃって、大学でもこのぐらい集中力あればいいんだけど」
 千代は気にせず居間へ向かったが、由紀は千代の様子がいつもと違うように感じた。
 大学では隣で寝ていたり、ゲームをして遊んでいたりすると、ちゃんとやりなさいと怒ってくるのだ。
「まあ家だから大目に見てくれてるのかな」と由紀も居間へ向かう。

 夕食や風呂も済ませて、縁側で火照った体を涼めていた。
 由紀はどこからか扇風機を持ってきて顔を近づけている。
 もうこの家の物事は把握済みのようだ。
「本のことは何かわかった?」由紀が扇風機に向かったまましゃがれた声で言った。
「うん、この本を書いた人も裏山で怪我をしたみたいね。で、助けてくれた人と恋に落ちたらしい」
「へえラブストーリーだったか。和歌も昔はラブレターだったんだもんな」
「そうよね、あの和歌も恋心を伝えるためのものなのかもね。今のところ二人の恋路は順調そうよ」
「祠のこととかはまだわからないかー」
「あとでもう少し読んでみようと思うけど、先に寝てていいよ」
「うん、じゃあお言葉に甘えて。もう少し涼んでから寝ようかな」由紀はあくび混じりに答えた。

 寝室に戻ると、千代はまた机に向かった。いつになく真剣だなと由紀は思ったが、布団に横になった瞬間寝てしまった。


 それから何時間経っただろうか。
 由紀がふと目を覚ますと、すすり泣く声が聞こえる。
 少し身を起してみると、机の電球はまだ灯っており、千代が座っているのが見えた。
 肩を震わせているのは千代だった。
「ねえ、千代、大丈夫?」由紀は寝起きのかすれた声をかけてみたが反応がない。
 こんな千代は初めて見たと由紀は驚いていたが、どうすればいいのかわからない。
 とりあえずもう一度話しかけてみる。
「なにか辛いことでもあったの?私、話聞くよ」そう言ってもう少し千代のそばに近づいた。 
 すると千代が顔を上げた。
「もういいかい?」震えた声でそう言う。
「え?」由紀は予想だにしない言葉が返ってきたので、ポカンとした。
「何言ってんの?大丈夫?」
「もういいかい?」千代が繰り返す。
「もしかして、寝言?」
「……もう、いいかい。もういいかい、もういいかい、もうい、うあああああああああ。」
 震えた声はだんだんと大きくなり、怒号となった。
 千代は立ち上がり、扉を荒々しく開けて飛び出していった。
 取り残された由紀は何が起こっているのかわからず、足が震えていたが、なんとか千代を追いかけようと部屋を出る。
 寝室から出て右手正面に玄関の扉があるが、それは既に開け放たれ、外の月明かりに照らされた地面が見える。
 由紀も外に出てみるが、千代の姿はない。
 靴も履かずにどこかへ走っていってしまったようだ。
「ち、千代ー!」由紀はできる限りの大声で千代を呼ぶが、虫や蛙の声ばかりが返ってくる。
 しかし、叫んだおかげで千代の祖父母が目を覚まして出てきてくれた。
「こんな時間になにしてるんだ!」
 祖父が声を上げるが、由紀のただ事ではない様子に、もう一度落ち着いた声で「何があった?」と尋ねた。
「千代が泣いていると思ったら、おかしなこと言い出して、急にどこかへ行ってしまったんです」由紀は不安と恐怖の涙を浮かべて言った。
「由紀さんは家でばあさんと待ってなさい」
 祖父はそう言って、千代の行方を捜し始めた。


 残された由紀は居ても立っても居られなかったが、千代のじいちゃんなら見つけ出してくれるはずと、自分に言い聞かせて寝室に戻った。
「どうしよう、何が起こってるの」
 由紀は落ち着かない様子で部屋の中を行ったり来たりした。
 千代が座っていたところを見ると、机にはあの本と千代のメモがある。
 本は読めないが、千代が何か書き残してはないだろうかと、メモを読み始めた。


****************************************
 ーまだ見えぬ 斜陽に落つる 鬼の角
 待ち焦がれては 小袖を振るうー

 8月、山へ山菜を採りに行った時の事だ。その日はなかなか山菜が見つからず、いつもは踏み入れない山の奥まで探しに行った。
 やっとのことで谷川にうわばみ草が生えているのを見つけて、谷を下ろうとしたが、足を滑らせて転げ落ちてしまった。
 足の激痛に悶えていると、近づく人影があった。
 あまりの痛さに意識も朦朧とし、その人影に藁をもすがる思いで助けを求めた。
 彼は木片と身につけていた着物を千切って私の足を固定してくれた。そして私をおぶって里まで送ってくれた。両親が私を見つける頃には、既に彼の姿はなかった。私も一瞬よそ見した間に彼を見失ってしまったのだ。頭にも頭巾をかぶって、顔をあまり見せたがらないものだから、よほどの恥ずかしがり屋なのかもしれないと思った。
 足は幸いにも折れておらず、数週間で良くなった。
 もう一度彼に会いたいと思い、里中を回ったが、彼を知る者はいなかった。
 そこで、彼と出会った場所へ向かった。
 山道を行き、先日転げ落ちた谷を覗き込んだ。
 彼は見えなかったが、後ろから、危ないからここへは近づくなと言う者がいた。彼だ。
 山菜を採るならもっと良い場所があると連れて行ってくれた。
 彼はこの山のことをよく知っていて、私も夢中になって毎日通った。
 山菜よりも彼に会いに行ったのだ。
 初恋だったかもしれない。
 しばらく経ち、思い切って詩を送った。
 彼は微笑んで受け取って、私にかくれんぼをしようと言う。
 私が隠れて、彼が見つけたら返事の詩を詠もうと約束してくれた。
 適当な木の木陰に隠れて、もういいよと言う。
 静かに時間は流れて、待ちくたびれた私はわざと見えるように袖を広げてみたり、頭を覗かせたが、彼は来ない。そのまま彼が姿を見せることはなかった。
 毎日山へ彼を捜しに行くが見つからない。今は私の方が鬼の番なのだと決めて、もういいかい、と叫び続けた。返事が返ってくることを信じて。

 ある日、村で噂を聞いた。近くの山で山伏が鬼を退治したというのだ。
 私の背筋は凍りついた。
 最初から彼は鬼だと分かっていた。
 だが、彼が殺されたとはまだ決まったわけではない。
 彼を見つけ出すまでは、そんな噂は信じない。
 そう心に決めて……

 数百年が経った。

 私は長い間、鬼の役を演じ続け、心を保った。
 その結果、本当に鬼になってしまったらしい。
 彼を探すには好都合だか、人の身ではもうすぐ動けなくなるだろう。
 この本はひとときの依代として、社にでも保管しておこう。新しい依代が現れるまでは。
****************************************


 千代は無我夢中で走っていた。体も痛いが、深い悲しみや不安に駆られ、胸が締め付けられるように痛い。
 たどり着いた場所は裏山の祠だった。別の記憶が彼と最初に会った場所であることを告げる。
 この山は隅々まで探し尽くしたはずだが、どうしても探さずにはいられない。
 彼のいるはずのないような木の根元を掘り返してみたり、辺りを必死に見回してみたり。
 千代の体は容赦なく傷つけられていった。
「この娘の体でも手がかりは見つからないのか。祠の仕掛けを解く者なら使えると思ったが」
 千代に潜り込んだ鬼は覚醒し始めた。そして祠を再度見る。
 そこには祠を建てた時にはなかった物があった。鬼は目を見開き……泣いた。


 由紀はそこに書いてあったことが信じられなかったが、千代の様子を見た後なら唯一の手掛かりだと信じざるを得なかった。
「千代は鬼に憑依された?どうすればいいの」由紀は息を飲むのと声を出すのがごちゃごちゃになってか細い声を出した。
 早くどうにかしなければ千代の身に危険が及ぶかもしれない。
 由紀は本とメモを持って祖母のところへ向かった。
 祖母は仏間で手を合わせ、体を小刻みに震わせている。よほど心配なのだろう。
「おばあさん、私、謝らなくてはいけないことがあるんです」
 由紀は祖母に祠で本を見つけたことやそれを読んで千代がおかしくなってしまったことを話し、本とメモを見せた。
 祖母は怒る様子はなかった。
「あの祠にこんなものがあったなんて、でも、鬼の話は少しだけど我が家に伝わっていたの。信じてはなかったけどね。この本のことを知って、やっと合点がいったわ」
「どんな話が伝わっているんですか」由紀は千代を助ける方法があるのではないかと期待した。
「その本に書かれているような話ではないわ。昔、山伏が討ち取った鬼が最後に口にした和歌を代々受け継いできた、ということだけよ」
「ご先祖様の詩じゃなかったんですね」由紀は驚いた表情を見せた。
 しかし、この家に伝わっている詩はこの本に書かれていた。つまり、山伏に殺された鬼の詩ではない?
 由紀は仏壇に立て掛けられている銅板を見ながらもう一度尋ねた。
「この詩以外にまだ詩がこの家に伝わっているということですか?」
 祖母は首を縦に振った。
「祠に向かいましょう。そこに答えが待っているわ」
 祖母と由紀は立ち上がり、東の空が明るくなりつつある山へ歩き出した。

 祖母と由紀が祠に着くと、千代を抱きかかえる祖父の姿が見えた。
 千代は気を失っているようで、だらりと落ちた腕や足は泥や切り傷でいっぱいだ。
「千代!大丈夫?!」
 由紀が駆け寄ると千代は少しうめき声を出して目を開けた。
「痛い」千代はあまり痛がっていないような落ち着いた声で言った。
「その様子だと正気に戻ったみたいね」由紀が涙を浮かべて千代に抱きついた。
「そうだ、鬼はどうなったの?」
「うん、彼を見つけた。というか、欲しかった答えが見つかったようね。まだここにいるわ」
 千代は胸元に手を添えながら、祠に目を向けた。
「あの銅板、うちの仏間にあったものとは違う内容のものだったわ」
「気付かなかった。というか読めないし」由紀は祠の銅板に近づきながら言った。
 祖母も祠の前に来ると、和歌を声に出して詠んでくれた。
 
ー朽ちてなお 朝日に染まる 赤の袖 御代たがえても 共に歩まんー

「これは……」由紀は胸が熱くなるのを感じた。
「まるで鬼になった少女の未来を見通していたような詩だね。我が家に彼女の救いの一手が伝わっていて本当に良かった」
 祖母も安堵の表情を浮かべている。
 千代の方を振り返るとちょうど朝日が差し込み始めていた。
 寝巻に着ていた浴衣の袖は血が滲み、朝日で鮮やかに見える。泣いた鬼の顔は笑っていた。
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