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過保護な主
過保護な主(4)
しおりを挟む香りにつられたということだろうか……。
殿下の翻意の理由はよくわからなかったが、時間をかけて状況を理解したユリウスは、急ぎ厨房に行き、エレナにこのことを伝えた。
「さすがユーリ様ですわね。やっぱり思ったとおりでしたわ」
と、何故かエレナは得意げだった。
慎重に火ばさみでかまどから焼き石を取り出し、火鉢に入れて浴室へと運ぶ。
焼き石は、浴室を暖めるためのもので、殿下が湯浴を了承されたときのために用意していた。
石造りの浴室は、ユリウスの家にあるものよりも狭かった。
大人の男が膝を抱えて入れるくらいの木製の桶があり、その桶が、浴室の半分ほどを占めている。湯桶に入ってもあまり寛げそうにはなく、殿下がさっさと水浴びで済ませようとする気持ちもわからないではない。
壁際に置かれた小さな棚に、石鹸や体を拭うための浴布が置かれていた。その上のフックに壁掛けの燭台をかける。
火鉢を床に置き、再び厨房に行く。
何往復かして、盥にいっぱいのお湯を溜めた。熱いし重いしで、最後のほうは汗だくになって汗が目に落ちて来るほどだった。
湯の中に、故郷から持参してきた、薬草を乾燥させ、すり潰して粉にしたものを入れてかき混ぜる。森林の中にいるような、清涼感のある爽やかな香りが漂い始めた。
後は殿下が湯浴みをされる直前に、焼き石にお湯をかけて蒸気を発生させれば完成だ。故郷では、薬草の香りと温かな蒸気に包まれて湯に浸かるのは、美味しい食事にも勝る至福のひとときだった。
浴室の前室で待っていると、まもなくして燭台を片手に殿下が現れた。既にマントとコートは脱いでいる。ユリウスは殿下に断りを入れ、焼き石にお湯をかけて蒸気を発生させてから前室に戻る。
「香りは大丈夫ですか? お嫌いな香りなら、湯を足して香りを薄めます」
扉の隙間から薬草の香りが漏れてくる。
殿下は扉に鼻を近づけるでなく、壁際に控えたユリウスのほうに一歩踏み出し、距離を詰めてきた。
「汗だくではないか。お前が先に湯を使え」
「い、いえ、そんな! 侍従が主より先に湯浴みをするなど、聞いたこともございません!」
殿下は困ったように眉尻を下げた。
「働いたほうがお前が気兼ねなく過ごせるのなら、好きにしたらいいが、俺は自分をお前の主だとは思っておらぬ。あの者たちと同じように、ここにいる間は、お前のことは家族の一人として扱う。それ故、遠慮はいらぬ」
あの者たちというのは、ワーグナー夫妻のことだろう。夫妻が主の留守中に応接間でお茶をしたり、午睡をしたりして、我が家にいるかのように振る舞っていた理由がわかった。ユリウスのことも「家族の一人」と言ってもらえたことも、嬉しかった。でも、だからといって。
「お気持ちはありがたいですが、ライニ様はこの家の家長ですから。家長より先に湯を使うわけにはいきません」
きっぱりと断ると、殿下は小さく嘆息した。
「では、風邪を引かぬように汗を拭き、後で必ず湯で温まるのだぞ」
真冬に外で水浴びしても風邪を引かないと言っていた人の言葉とは思えないが。
ユリウスは「ありがとうございます」と礼を述べた。
「あの……、香りは大丈夫ですか?」
それを訊きたかったのに、話が逸れてしまっていた。
「お前が好きな香りなら、それでいい」
そう言ってベルトの留め具に手を伸ばした殿下が、その手を止め、ユリウスに顔を向ける。
「もう行っていいぞ」
ユリウスがいつまでも傍らにいるのが気になったようだ。
「湯浴の手伝いをするように言われたのですが、お着替えを手伝ったらよろしいのでしょうか?」
殿下は舌打ちでもしそうな渋面をし、はぁ、と呆れたように溜め息を吐いた。
「手伝いなどいらん。普段の水浴びも、人の手を借りたことなどない。……エレナには、あとで言っておく」
本気で嫌そうな顔をしているから、遠慮しているわけでもなさそうだ。
ただ、本当にそれでいいのだろうかと戸惑う気持ちもある。
ユリウスの家では、湯浴みの際、着替えも一人でするし湯にも一人で入るが、髪を乾かすのはいつも侍従の仕事だった。
「でも……。差し支えなければ、髪を乾かすお手伝いだけでもさせてください」
おずおずと申し出ると、殿下はしばらくの間、逡巡を顔に張り付かせて、ユリウスをじっと見つめていた。やがて観念したように口を開く。
「居間で待ってろ」
「あ、はい。では、ゆっくり暖まってくださいね。浴室が冷えてきたときは、焼き石に湯をかけると蒸気が出て暖まります」
ユリウスは一礼し、前室を離れた。
ラインハルト殿下は、高貴な身分には珍しく、あまり人の手を借りたくない方らしい。
ユリウスのことを引き受けてくれたことを考えると、完全な人嫌いというわけでもなさそうだ。
話をするだけでも緊張するのは変わりないが、初対面のときと比べて、殿下に対する恐れはかなり和らいできた。
ワーグナー夫妻やユリウスに対する態度を見ても、身分を笠に着るような人でないことは確かだ。それに、侍従が風邪を引かないよう心配してくれる、優しい人でもある。
薬草湯を気に入ってくれたらいいなぁ。
そう思いつつ居間へと向かう足取りは、一日の疲れを感じさせないほどに軽かった。
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