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第一章

02:サンドレイズ領へ

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 目を覚ました時には、もう陽が高かった。思った以上に疲れていたのだろう。ひどかった雨は止んで、少し肌寒いと感じる程度になっていた。
「まだ雲行き怪しそうだけど……今のうちに街道に出たいな」
 移動はできそうだと、マリィシャは岩洞から出て伸びをした。
 さすがに体のあちこちが痛い。一座のテントで野宿というのはよくあったが、あれでも敷布があるだけ恵まれていたのだなと、こんな時は心底思う。
「ま、腐ってても稼げないしな! よし、やるぞ」
 ペチンと両頬を叩いて気合いを入れ、マントを羽織り直す。
 勘だけで道なき道を歩くと、ほどなくして案内看板の立つ道に出ることができた。
「えっと……サンドレイズ領まであと三キロ、か……。聞いたことない領だな?」
 以前身を置いていた一座で、文字を教えられたことがある。おかげで生活に困らない程度には読み書きも可能だった。それは本当にありがたくて、文字や金額が読めなくて酷い目にあったことはない。
 この道をまっすぐ進めば、サンドレイズという領があるらしい。
 旅をしていると、その領や周りの領に関しての情報が耳に入ってくる。情勢や治安など、事前に分かっていないと危険なこともあるせいだ。稼げない場所、命の危険が高い場所に行きたがる旅芸一座などいやしない。

 だから、マリィシャがサンドレイズの名を聞いたことがないということは、よほど特徴のない領なのだと分かる。
 ことさらに治安が悪いわけでも、全然稼げないというわけでもないようで、マリィシャは行き先をそのサンドレイズ領に決めた。
 水たまりを避けて、鼻歌を歌いながら歩みを進める。空はまだ雲が厚く、油断はできない状態だ。ほんの少し歩調を速め、あまり舗装されていない道を歩いた。



 しばらくすると、領の境である石の塀が見えてくる。頑丈そうな門の傍には護衛兵。それは見慣れた光景だった。マリィシャは「こんにちは」と小さな声で門兵たちに挨拶をし、通行料を支払う関所に足を踏み入れた。
 板張りの室内には、右手に支払いカウンターがある。昨夜の雨のせいか他に通行客はおらず、暇そうに新聞を読んでいる男が座っていた。
 マリィシャは腰の小さな袋を取り外し、中から出しだ通過をチャリンとカウンターに置く。
「サンドレイズ領へ」
 カウンターの男はその通貨とマリィシャを順に見やり、そして新聞へと視線を戻した。

「足らねぇよ」

「えっ、足りない!?」
 マリィシャは目を見開いた。
 出したのは五シルク通貨一枚と一シルク通貨七枚。十二シルク出したというのに、足らないとはいったいどういうことか。男に詰め寄ると、傍に立てかけてあった料金表をクイと顎で示された。

 領を出るには十一シルク、隣の領に入るには七シルク。

 そう書いてある。
 つまりはここを通るためには十八シルク必要ということになり、あと六シルク足りない。
「そんな……だって、この領に入ってくる時は合わせて十二シルクだったのに!」
「そんなこたぁ俺には関係ねえ。領主様から言われてる金額を徴収してるだけなんでな。ここを出て向こうに行くにゃ合わせて十八シルク必要ってだけだ」
 ここで通行を監視し管理している男は、すげなくそう返してくる。
 通行料はその領の主が決めているもので、確かに男に非はないし、領主たちのサインが入っている料金表は偽りのものにも見えない。とある領では関所での横領が横行していたらしく、その事件があってから厳しく制定されたとも聞いている。
 文字が読めない旅人はこういう時に騙されることも多いだろうなと思うが、男はそっけないだけで間違ったことを言ってはいない。
 領に入る時は安いが出る時には高いということか、とマリィシャは眉を寄せる。

 足りない分だけどこかで稼いでくるしかない。昨日の領に戻るのはリスクが高いけれど仕方がない。

 マリィシャは窓の外をちらりと見やる。だが謀ったかのように、雨粒が窓を叩き始めた。不安定な雲行きだったとはいえ、このタイミングでまた降り出すなんてついてない。
「嘘だろ……」
 この様子ではまた土砂降りになりそうだ。
 こんな状態でまた領に戻り、どこかで踊りを披露して稼ぐことなんてできやしない。ちら、と退屈そうにカウンターについたままの男を見やる。この男に踊りを披露したところで、金を払ってくれるとは思えない。
「言っておくがここで寝泊まりなんざできんぞ。さっさと払うもん払うか、戻るかしな。ああ、傘が欲しいなら一シルクで売ってやる」
 とりつく島もなさそうだ。マリィシャは視線を泳がせ、小さな袋の中を見下ろす。

 お金に替わる物がないわけではない。これを出せば通ることはできるだろう。それどころか、お釣りがくる。

 だけど、これだけは手放したくない。ふるふると首を振って、どうにかしてお金を稼いでこようと踵を返した。
「いやあ、ひどい降りだ」
「急だったなあ。帰るまで保つと思ったが……おーいキース、ちょっと軒下を貸してくれ」
 ドアから二人の男が顔を出す。呼ばれた男は、先ほどまでの仏頂面をがらりと変えて席を立ち、親しそうに返事をした。
「ああ、構わないぞ。こう雨続きじゃ、商売もできないだろう」
「明日は降らねえといいんだがなあ」
 自分の時とは態度がまるで違う、とマリィシャは眉を寄せる。
 リンゴを乗せた荷車にシートを被せているところを見るに、彼らは領を行き来して商売をしているらしい。それならば毎日ここを通るのだろうし、所員と仲が良いのも頷ける。
「雨宿りしていくかい?」
「いや、荷も心配だし、このまま帰るよ。あー一応通行証な、二人分」
 そう言って男が薄い板きれを二枚提示する。あんたらはもう顔パスだろうと笑うキース。
 定期的な通行には、ああして定期通行証が発行されるのだ。だが、どこにも住民登録をしていないマリィシャはそれを発行してはもらえない。
 どこかに落ち着くことができればいいのだけれどと苦笑して、雨足が弱まるのを祈るだけだ。

「あんたは雨宿りかい、別嬪さん」
「え?」

 声をかけられて振り向くと、男の一人がリンゴを差し出してくる。取られた手のひらに落とされて、マリィシャは困惑した。
「おいおいフレッド、大事な売り物だろうが。そいつはここを通る金もねえ旅芸人だぞ」
 その通りだ。腹は減っているが、これが売り物だというのなら、対価を払う余裕がない。返そうとしたが、やんわりと押し戻される。
「これちょっと傷がついちまっててな。売り物にならないんだよ。キース、よかったらあんたにも」
 キースは「ありがとよ」と笑いながらリンゴを受け取る。マリィシャは押し返されたリンゴを見下ろし、どこにも傷なんかついていないことに気がついた。フレッドの気遣いだろう。それは、肩を竦めたキースも感づいているようだった。

「あ、ありがとう……」

 その厚意を素直に受け取って、マリィシャは頭を下げる。
 こんなふうに気を遣ってもらったのはいつぶりだろう。うっかりすると涙がこぼれ落ちてきそうで、マリィシャは俯いたまま唇を噛み、気づかれないようにマントの裾で目元を擦った。
 たった一個のリンゴでも、旅芸人に無償で与える奇特な者はいない。芸の見物料だったり軽作業の報酬だったり、通貨と交換でなくても手に入ることはあったが、マリィシャは彼に何もしていない。
 こんな人もいるんだと、降り続ける雨とは裏腹に、マリィシャの胸はほわほわと温かだ。これは大事に食べようと、鞄にしまった。
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