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第五章 ‐ いつか星の海で ‐
064話「Heavenly Blue:1」
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第64話「Heavenly Blue:1」
カスミがクレープを食べ終えると、二人は再び屋外へ戻った。空調の効いた室内から外に出ると、日が落ちて少し涼しくなったはずの横浜の夜の蒸し暑さが気になってしまう。
ふと、カスミが足を止めて顔を上げる。彼女の見上げた先の視界には、この遊園地とみなとみらいを象徴するコスモクロック大観覧車がゆったりと回り続けていた。
清壱も一緒に足をその場に止めた。彼は観覧車を軽く一瞥した後は、まるで興味も無いかのように周囲を油断なく見回す。少なくとも彼には、観覧車よりもずっと重要な事柄がある。
今もどこからか、こちらを見守っているであろう京子の気配を除いては、リーヴァーズの気配は感じられないし、その他の襲撃の予兆も今のところ感じない。横浜の喧騒とは対照的に、状況はとても穏やかなものだった。
「あっ――――」
その時、カスミが小さく声を漏らしたのを、清壱の地獄耳が聞き取った。反応した清壱は彼女の目線を追うようにして目線を上げた。
それまで輝きの無かった大観覧車が光を帯び始めていた。
最初に中心部が緑に輝いて、続いてゴンドラに近い外周部が白い光によって輝く瞬間を、一組の男女が目にした。
観覧車がライトアップされると、続けてジェットコースターのレールがピンク色の発光を始めた。日没と共に始まった遊園地の一斉ライトアップは、まるでその世界全体が魔法にかかったようで――――
「綺麗……」
その輝きに心揺さぶられたカスミが呟くと、吐息を吐いた。それは先ほどまでの陰鬱な物では決してなく、感動を伴った息だった。
「……ああ」
清壱も目を細め、とても短く、聞き逃してしまいそうな相槌を打つ。だけど今度は、カスミはその声を聞き逃さなかった。
「イチさんも、そう思います?」
「うん、こういう光は、好きだよ」
その言葉を聞いてカスミは、言葉を口にしようとする。しかしそれぞ上手く言語に出来なくて、口をパクパクとさせ、沈黙だけが流れる。
「あ、あの…………イチさん、その」
ようやく声が出るが、今度は自分の顔面に急激な発熱を感じる。今の自分の顔を鏡で確認するぐらいなら、首を吊って死んだ方がマシかもしれない。そんな事を頭の片隅に思いながらも、カスミは早すぎる鈴虫の鳴くような声の小ささで言葉を紡ぐのだ。
「もし、その……乗ってみたいって言ったら、その………観覧車……」
時間をかけ何とかそこまで口にすると、まるでオーバーヒート寸前のロボットが強制排熱を行うかのように、少女の黒髪の先まで熱が伝わってゆくような錯覚を覚える。50メートル走を行った直後かのように彼女は肩で大きく息を吐いて、羞恥の熱を冷やそうとする。
食べ終えたばかりのチョコバナナクレープのエネルギーを使い尽くすほどの労力と引き換えに、確かに少女はその提案を言語化したはずだった。…………隣に立つ清壱からの返事が、返ってこない。
「うぅ…………や、やっぱり何でも……」
無視されてしまった。カスミが落胆して、恥ずかしさと後悔で胸を締め付けられた。この心の苦しさは、好奇心の代償だと思った。
二人のすぐ傍を、仲睦まじそうな若いカップルが通り過ぎた。沈黙は続いた。カスミが、異変に気付いた。
「…………イチさん?」
清壱が無表情のまま、瞬きもせずに呆然と観覧車の光を見つめていた。メモリ使用率100%に達したコンピューターのように硬直した姿で、いつもの彼ではないように感じた。
「あの……どうか、しましたか……?」
見たことのない彼の姿に少女は余りにも不安になって、その袖を掴んで声をかける。その瞬間に清壱は何度か瞬きして、ようやくカスミの方を見た。
「申し訳ない、少し仕事の事を」
彼がいつもと同じ、感情の起伏の読めない声色で詫びた。
「あ、いえ、その……」
それは”いつもの”清壱だった。カスミがさっきまでの事も忘れ胸を撫で下ろすと、清壱が口を開いた。
「ごめんね、ちゃんと聞いてたよ。乗ろうか、観覧車。……せっかくここまで来たしね」
観覧車のネオンに当てられた清壱が、淡く儚い笑みを見せた。
◆
『本日は世界最大級の大観覧車『コスモクロック21』にご乗車頂きまして誠にありがとうございます。この横浜は我が国が長年の鎖国を破って開港した、近代日本の発祥の地であり、今では、21世紀の新しい国際交流の場として、更に注目が高まっています』
観覧車の青いゴンドラの一つに二人乗り込むと、添乗員不在の代わりにゴンドラ内部のスピーカーから録音音声が再生される。
8人乗りに設計されたゴンドラは他の遊園地のそれよりも空間が広く、向かい合わせに座ると両隣の空間に不安を覚えてしまいそうだ。カスミは尻を持ち上げ、ゴンドラの端まで移動する。
『そんな、歴史と未来が交差する横浜の新名所、みなとみらい21に位置する『横浜コスモワールド』とこの大観覧車は、浪漫あふれる高所観覧施設として、最新技術を駆使して建設されました。
一周の時間は約15分。この360度の、雄大な空中散歩を、ごゆっくりお楽しみください。また、皆様に快適にご利用いただく為、ゴンドラ内のご飲食・喫煙はご遠慮ください。
なお、お体のご不自由なお客様の為に、一時回転を止めてご乗車頂く場合がございますが――――』
女性の案内音声が続く中、ゴンドラは非常にゆったりと上昇を始めた。カスミは帽子を脱いで、額の汗をハンカチで拭く。
ふと、カスミがゴンドラの壁に何かがくっついているのを見つけた。
「なんだろ、これ」
さあ、と清壱が言うのを耳にしながら、カスミはそれをよく観察する。ゴンドラに白いタブレット端末が取り付けられていて、オレンジ色のポップな字体で「コスモクロック 観覧車ナビ」という文字が画面に映し出されている。観覧車備え付けの歴史・観光情報案内システムだった。
「観覧車ナビ、だって」
「へえ……今はそういうのもあるんだな」
「ニンジャにも知らない事があるんです?」
彼の呟きを耳にしたカスミが、少し意地悪っぽい笑みを見せた。
「当然あるさ。昔はこんなの無かった」
「……やっぱりイチさん、前にもここ来てるんじゃないですか」
「ん……いや……」
「別に隠さなくていいですよ」
「やっぱり横浜でお仕事してると……あるんでしょう? そういうことって…………」
彼の正確な年齢は知らないが、自身よりも一回りは年上の男性である事に違いはないだろう。「大人の男性」ならきっと、そういう事もあるんだろうと思って出た言葉だった。
対する清壱は、こう答えた。
「ここに来たのは、今日が生まれて2度目だよ。前に来たのは小学生の頃だ。……あの頃は、こんなの無かった」
「そっか。……お父さんや、お母さんと?」
「いや、友達とだ」
清壱は短く言った。
「そういう家庭じゃなかった」
「そうなんだ」
「母は……宗教団体の熱心な信者だった。『輪菩教』っていう……」
「あ……聞いたこと、あります」
「知ってるのか」
「小学校の頃、友達の男の子が、そこのお家の子だって……」
カスミは限りある見識の中で、辛うじて知っている事を述べた。
「そうか、そうか。……信者が結構増えてるからな。今度、選挙にも出ると」
「そうなんですか? 私、詳しい事までは……」
「密教系の団体……なのかな。母と出かける先はいつも宗教施設だった」
「……大変だった?」
「物心がつく前に入信させられたから、僕には選択肢が無かった。毎日教典を朝と夜に読まされて、週二日、施設まで電車に乗って片道二時間、施設では教祖の妙林 信光のビデオを見せられて、日が暮れるまで座禅を組まされた。
公園で友達と遊べた時間も、幼馴染とテレビゲームをして過ごせた時間も「霊能者になるための修行」のために棒に振った」
「……大変だったんだ…………」
少女は何と言えばいいのかが正直わからなかった。自分も家庭環境は色々あったが、そういう経験は全く未知数のものだったからだ。それで? オバケは視えるようになったの? そんな冗談なんて間違っても言える気分にはなれなかった。
カスミがクレープを食べ終えると、二人は再び屋外へ戻った。空調の効いた室内から外に出ると、日が落ちて少し涼しくなったはずの横浜の夜の蒸し暑さが気になってしまう。
ふと、カスミが足を止めて顔を上げる。彼女の見上げた先の視界には、この遊園地とみなとみらいを象徴するコスモクロック大観覧車がゆったりと回り続けていた。
清壱も一緒に足をその場に止めた。彼は観覧車を軽く一瞥した後は、まるで興味も無いかのように周囲を油断なく見回す。少なくとも彼には、観覧車よりもずっと重要な事柄がある。
今もどこからか、こちらを見守っているであろう京子の気配を除いては、リーヴァーズの気配は感じられないし、その他の襲撃の予兆も今のところ感じない。横浜の喧騒とは対照的に、状況はとても穏やかなものだった。
「あっ――――」
その時、カスミが小さく声を漏らしたのを、清壱の地獄耳が聞き取った。反応した清壱は彼女の目線を追うようにして目線を上げた。
それまで輝きの無かった大観覧車が光を帯び始めていた。
最初に中心部が緑に輝いて、続いてゴンドラに近い外周部が白い光によって輝く瞬間を、一組の男女が目にした。
観覧車がライトアップされると、続けてジェットコースターのレールがピンク色の発光を始めた。日没と共に始まった遊園地の一斉ライトアップは、まるでその世界全体が魔法にかかったようで――――
「綺麗……」
その輝きに心揺さぶられたカスミが呟くと、吐息を吐いた。それは先ほどまでの陰鬱な物では決してなく、感動を伴った息だった。
「……ああ」
清壱も目を細め、とても短く、聞き逃してしまいそうな相槌を打つ。だけど今度は、カスミはその声を聞き逃さなかった。
「イチさんも、そう思います?」
「うん、こういう光は、好きだよ」
その言葉を聞いてカスミは、言葉を口にしようとする。しかしそれぞ上手く言語に出来なくて、口をパクパクとさせ、沈黙だけが流れる。
「あ、あの…………イチさん、その」
ようやく声が出るが、今度は自分の顔面に急激な発熱を感じる。今の自分の顔を鏡で確認するぐらいなら、首を吊って死んだ方がマシかもしれない。そんな事を頭の片隅に思いながらも、カスミは早すぎる鈴虫の鳴くような声の小ささで言葉を紡ぐのだ。
「もし、その……乗ってみたいって言ったら、その………観覧車……」
時間をかけ何とかそこまで口にすると、まるでオーバーヒート寸前のロボットが強制排熱を行うかのように、少女の黒髪の先まで熱が伝わってゆくような錯覚を覚える。50メートル走を行った直後かのように彼女は肩で大きく息を吐いて、羞恥の熱を冷やそうとする。
食べ終えたばかりのチョコバナナクレープのエネルギーを使い尽くすほどの労力と引き換えに、確かに少女はその提案を言語化したはずだった。…………隣に立つ清壱からの返事が、返ってこない。
「うぅ…………や、やっぱり何でも……」
無視されてしまった。カスミが落胆して、恥ずかしさと後悔で胸を締め付けられた。この心の苦しさは、好奇心の代償だと思った。
二人のすぐ傍を、仲睦まじそうな若いカップルが通り過ぎた。沈黙は続いた。カスミが、異変に気付いた。
「…………イチさん?」
清壱が無表情のまま、瞬きもせずに呆然と観覧車の光を見つめていた。メモリ使用率100%に達したコンピューターのように硬直した姿で、いつもの彼ではないように感じた。
「あの……どうか、しましたか……?」
見たことのない彼の姿に少女は余りにも不安になって、その袖を掴んで声をかける。その瞬間に清壱は何度か瞬きして、ようやくカスミの方を見た。
「申し訳ない、少し仕事の事を」
彼がいつもと同じ、感情の起伏の読めない声色で詫びた。
「あ、いえ、その……」
それは”いつもの”清壱だった。カスミがさっきまでの事も忘れ胸を撫で下ろすと、清壱が口を開いた。
「ごめんね、ちゃんと聞いてたよ。乗ろうか、観覧車。……せっかくここまで来たしね」
観覧車のネオンに当てられた清壱が、淡く儚い笑みを見せた。
◆
『本日は世界最大級の大観覧車『コスモクロック21』にご乗車頂きまして誠にありがとうございます。この横浜は我が国が長年の鎖国を破って開港した、近代日本の発祥の地であり、今では、21世紀の新しい国際交流の場として、更に注目が高まっています』
観覧車の青いゴンドラの一つに二人乗り込むと、添乗員不在の代わりにゴンドラ内部のスピーカーから録音音声が再生される。
8人乗りに設計されたゴンドラは他の遊園地のそれよりも空間が広く、向かい合わせに座ると両隣の空間に不安を覚えてしまいそうだ。カスミは尻を持ち上げ、ゴンドラの端まで移動する。
『そんな、歴史と未来が交差する横浜の新名所、みなとみらい21に位置する『横浜コスモワールド』とこの大観覧車は、浪漫あふれる高所観覧施設として、最新技術を駆使して建設されました。
一周の時間は約15分。この360度の、雄大な空中散歩を、ごゆっくりお楽しみください。また、皆様に快適にご利用いただく為、ゴンドラ内のご飲食・喫煙はご遠慮ください。
なお、お体のご不自由なお客様の為に、一時回転を止めてご乗車頂く場合がございますが――――』
女性の案内音声が続く中、ゴンドラは非常にゆったりと上昇を始めた。カスミは帽子を脱いで、額の汗をハンカチで拭く。
ふと、カスミがゴンドラの壁に何かがくっついているのを見つけた。
「なんだろ、これ」
さあ、と清壱が言うのを耳にしながら、カスミはそれをよく観察する。ゴンドラに白いタブレット端末が取り付けられていて、オレンジ色のポップな字体で「コスモクロック 観覧車ナビ」という文字が画面に映し出されている。観覧車備え付けの歴史・観光情報案内システムだった。
「観覧車ナビ、だって」
「へえ……今はそういうのもあるんだな」
「ニンジャにも知らない事があるんです?」
彼の呟きを耳にしたカスミが、少し意地悪っぽい笑みを見せた。
「当然あるさ。昔はこんなの無かった」
「……やっぱりイチさん、前にもここ来てるんじゃないですか」
「ん……いや……」
「別に隠さなくていいですよ」
「やっぱり横浜でお仕事してると……あるんでしょう? そういうことって…………」
彼の正確な年齢は知らないが、自身よりも一回りは年上の男性である事に違いはないだろう。「大人の男性」ならきっと、そういう事もあるんだろうと思って出た言葉だった。
対する清壱は、こう答えた。
「ここに来たのは、今日が生まれて2度目だよ。前に来たのは小学生の頃だ。……あの頃は、こんなの無かった」
「そっか。……お父さんや、お母さんと?」
「いや、友達とだ」
清壱は短く言った。
「そういう家庭じゃなかった」
「そうなんだ」
「母は……宗教団体の熱心な信者だった。『輪菩教』っていう……」
「あ……聞いたこと、あります」
「知ってるのか」
「小学校の頃、友達の男の子が、そこのお家の子だって……」
カスミは限りある見識の中で、辛うじて知っている事を述べた。
「そうか、そうか。……信者が結構増えてるからな。今度、選挙にも出ると」
「そうなんですか? 私、詳しい事までは……」
「密教系の団体……なのかな。母と出かける先はいつも宗教施設だった」
「……大変だった?」
「物心がつく前に入信させられたから、僕には選択肢が無かった。毎日教典を朝と夜に読まされて、週二日、施設まで電車に乗って片道二時間、施設では教祖の妙林 信光のビデオを見せられて、日が暮れるまで座禅を組まされた。
公園で友達と遊べた時間も、幼馴染とテレビゲームをして過ごせた時間も「霊能者になるための修行」のために棒に振った」
「……大変だったんだ…………」
少女は何と言えばいいのかが正直わからなかった。自分も家庭環境は色々あったが、そういう経験は全く未知数のものだったからだ。それで? オバケは視えるようになったの? そんな冗談なんて間違っても言える気分にはなれなかった。
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