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第四章 ‐ 裏切者は誰だ ‐

033話「役目を終えた者/まだ終われない者」

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第33話「役目を終えた者/まだ終われない者」


 虚ろな表情で一人の戦士が立ち尽くしていた。
 高雅高校の校舎屋上に立つ男は、その全身を返り血で真っ赤に染めていた。

 霧がかった雨は温く、男が浴びた悪党共の穢れた血と臓腑の臭気を却って際立たせている。

 屋上から地上を見下ろすと、醜悪なレイプツリーが遠くで風になびいていて、それが視界に入る度に無間ムゲンは内心歯噛みした。

(芳野よしのさん……済みません)
 彼は心の中で詫びた。芳野とは雇われ用務員で、この学校を今日まで守ってきた老人だった。芳野は決して軍隊の訓練を受けた兵士ではなく、中東の米軍拠点を守る鍛え抜かれた戦士という像には程遠い人物であったが、彼は彼なりに、用務員としてこの高校の平穏を守ってきた守護者であったはずだ。それは悲しくも、彼の死を持ってこの日証明されてしまった。

 自分は、彼の大事に守って来た筈の学校を戦場にしてしまった。
 彼の守ってきたものを駄目にしてしまった。……そして彼自身の命までも

 それでも今の無間の後姿を見たら、芳野であれば彼の健闘を讃えて優しく肩を叩いてくれる”かも”しれなかった。


 ――――かもしれなかった。
 彼の命と共に、その可能性は永遠に喪われてしまったし、何があっても芳野はもう笑ったり泣いたり、怒ったりすることがないのだ。だからこんな考えはどこまでも無意味で、無価値なのだ。ゆえに、無間は多くを考える事をやめた。


 正直、時が許してさえくれるのならば、夜のとばりが落ちてくるその時まで、独りずっと屋上でこうしていたい。しかし状況が、遅れて今頃向かってきているはずの警察の存在がそれを許容ゆるしてくれない。


 胸ポケットにしまった閻魔大王のスマートフォンが震えた。影の組織の仲間で、今回の任務に関して後方支援を行っている大宮 七々子ナナコからのメッセージだ。無線連絡の傍受により警察が出動した事を確認した旨、および至急撤退する事を要求する内容であった。


 了解。無間は短い返信を打つと、牛車切ギッシャギリを一度地面に置き、腰に巻いた刀剣保持用の革ベルトに手をかける。
 それは、既に余分な重量と化した、本身ほんみ無き「罪滅ツミホロボシ」の布鞘をこの場に放棄する目的だった。


 牛車切だけは回収したが、一日に数十人を斬り、刃こぼれの激しい「罪滅」本体は体育館内で悪漢の死体の一つに突き刺したまま放棄されている。
 ――――あの異形の刀もまた、悪党の命とその運命を共にする事によって、その生まれて来た役目を全うしたのだった。


 無間はズボンの腰ベルトに牛車切の鞘を差し直すと、暗い雲を見上げた。



 さあ、脱出だ。

 芳野の戦いはここで終わったが、この命燃え尽きるその時まで、無間はこの先も戦い続けなければならないのだから。



 ◆


 屋上を後にした無間は、裏門側から高雅高校の敷地を脱出した。出口に至る道の途中で、悪漢たちが倒されていて、冥府の主はその死の道を辿った。

 一人、二人、悪漢の死体が転がっている。顕教がやったのだろうか、死体にはナイフによる裂傷が。

 学校近くの道を一人、返り血に塗れた姿で歩いている時、近くの住宅の、二階のカーテンが揺れ動いた。
 カーテンの隙間からこちらを覗き込む、女性の怯えた瞳を冥府の主が見た。その壮絶極まる姿と虚無の瞳を目にした時、カーテンはピシャリと閉じられた。


「安心して欲しい。君を殺したりなんかしないよ」
 無表情のまま、半ば自嘲的に無間が独り言を呟いた。
「――理由が無ければ」
 そう付け加えて、彼は更に歩いた。


 遥か背中に、サイレン音が聴こえてきた。
 警察が徐々に集結を始めたのだろう。今頃になって、という気持ちは拭えないが。

 更に歩くと、悪漢の死体をまた見つけた。
 2人の悪漢はどちらも側溝で事切れていたがそれぞれ、頭部と胸に矢が刺さっていた。

「クロスボウか……」
 それはアーチェリー用のものでもないし、弓道のものでもない。クロスボウボルトである事はその長さやノックの有無及び形状などで判別できる。

 詳細に調べている暇はないが、一見して月照支部で使っているクロスボウボルトのように見えた。
 顕教も、銀蘭も、そのどちらもクロスボウは持っていなかったはずだが……。

 その時、スマートフォンがブルリと鳴った。

 「脱出支援の為の応援が現着しています。望見座および雲母がそちらへ向かっています合流し、共に脱出してください。返信不要。」
 確認すると、大宮職員からの追加メッセージが届いている。

 スマートフォンをまた懐に戻し、脱出ルート上を更に辿っていると、道路の向こうから人影が二つ飛び出してきた。

 それはどちらも女性で、手巻き機構付きの強力なライフルクロスボウを構えている。

 無間も一瞬は牛車切に手を伸ばしたが、結局柄に触れるより先に手が止まった。女性二人もこちらを指差した後、構えていたライフルクロスボウを降ろし、こちらに向かって手を振った。

「もしもーし! 私達でーす!」
「「望見座モミザ」、「雲母キララ」」
 無間は二人を知っていた。望見座モミザ雲母キララ、ちょっとだけユニークな号を名乗る女性二人で、共に所属を同じくする”影”の組織の仲間である。

 無間は二人の獲物を見て、先ほどの悪漢の死体は彼女らの戦火であったのだと得心する。

「無間せんせーい!」
「こらこら、注意がおろそかだぞ。実戦では常に警戒を怠るな」
 モミザがニコニコとしてこちらに駆け寄って来ると、無間はまるで教え子を諭すように苦笑して諫めた。

「先生、凄い血ですよ。お怪我の方は?」
 モミザはやはり、壮絶な殺戮を物語る彼の姿を前にして、彼の放つ血肉と臓腑による死の匂いに軽く咳き込んで心配する。

「ノーダメージだ」
「えぇ……」
 無間のあっけらかんとした完封宣言にモミザが困惑の声を隠し切れない。

「とにかくご無事で何よりです。遅くなってすみません」
「いや、よく来てくれた。こういうのは本番よりも、引き上げの方が助けが要る」
 雲母が遅れて近寄ると、手の甲を返り血に染めた閻魔大王の手を握って片手で握手する。

「この天気です。立ち話もアレですから、移動しましょう」
「そうしよう」

 暗い雲が空を覆い、霧のような雨が温い風に舞っている。遠くにパトカーのサイレンを聞きながらも、三人は移動を再開した。
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