桜吹雪の後に

片隅シズカ

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二章「動国の花」

第十四話「花曇り ーはなぐもりー」 (後編) ⑤

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「前から思ってたんだけど、同世代に敬語を使われるのって変な感じがするのよ。ましてや、今は立場としては私が下なんだし」
「あ、えっと……」
「それとも、私が年増に見えるとか?」
「それはないです! マジで!!」
「久々に聞いたわね、それ」

 桜さんがくすくすと破顔した。

 理解が追いつかず呆けたのは一瞬で、僕もすぐさま釣られるように笑った。

「この言葉にそんな風に反応してくれるのなんて、桜さんくらいですよ」
「でしょうね。私も、この言葉を使う相手なんて葉月くらいよ。まじで」

(いつものやりとりだ)

 なんてことない言葉なのに、不思議とこのやり取りをするだけで心が安らぐ。

「話を戻すけど、もしかして気を遣ってる?」
「え?」
「ため口で話すのは失礼だとか」
「えっと……」

 心安らいでいたのも束の間。どう返すべきか分からず、言葉が詰まってしまう。

 正直、確固とした理由なんて欠片もないのだ。

「これはその……単に癖になってるだけなんです。妹にも注意されたことがあって、年下には敬語を使わないように気を付けてるんですけど」
「確かに、また敬語になってるものね」
「あ……」

 桜さんに指摘され、慌てて口を押さえた。

(難しいなぁ)

 元の世界では、特に困らなかった。幼い頃から周りは大人ばかりだったし、時々顔を出していた父の劇団も大人の世界だった。

 そして学生になってからは、人との関わり自体が少なくなった。自分でも笑っちゃうくらい、同世代との関わりが皆無なのだ。

 強いて困ったことを挙げるなら、妹の友達に敬語で話して、引かれるから止めてほしいと妹に怒られたことくらいだ。

 意識しないと敬語で話してしまう自覚はある。

 そしてその話し方が、どうしても人と距離を置いてしまうことも。

 どうせ物理的に縮められないなら、最初から精神的にも線を引いてしまった方が楽だと、心のどこかで思っていることも。


 だけど――――


「まぁ、難しいなら別に――」
「直す!!」

 桜さんが目をぱちくりとさせた。口までぽっかりと開いている。

 彼女のこんな呆けた顔は、滅多にお目にかかれない。普段の僕ならあり得ない勢いだったから驚いているのだろう。僕自身、自分の口から出た声に驚いている。

 桜さんは、僕の敬語に違和感があると言った。

 つまり、桜さんは感じ取っていたのだ。
 僕が他人に対して、引いてしまう線を。

(そんなのは、嫌だ)

 僕は、桜さんに対しては線を引きたくない。自分からこんなにも関わりたいと思った人は、生まれて初めてだから。


 何があっても、ずっと傍にいたい人だから。


 だったら直すしかない。

 彼女との間に、線を引かないように。

「直しま……直す。桜さんがそう言うなら」
「私が言ったからって……」

 桜さんが苦笑する。おそらく、そんなに深く考えて言ったわけではない。与太話の延長でしかないのだろう。

 だから、これは僕の気持ちの問題だ。

「ねぇ、葉月」
「はい……あ、何っ?」
「もし私が死んでと言ったら、葉月は死ぬの?」
「…………」

 もちろん、冗談だと分かっている。

 桜さんは真面目だけど、結構お茶目なところもある。いわゆるブラックジョーク的な言葉を口にしても、何もおかしくない。

 奇妙なのは、僕の胸の内だった。

 自分でも不思議なくらい、拒否感がなかった。恐怖心も、猜疑心も。



 むしろ、その言葉が胸にすとんと落ちた。



「……何か、理由があるんでしょう?」
「え?」
「桜さんのことだから、きっと、やむを得ない理由があるんだと思う。死にたくはないけど、桜さんがそれを望むなら……仕方ないかな」
「ーーーーーー」

 桜さんが、目を見開いたまま静止した。
 まるで、石にでもされてしまったかのように。

 そこでようやく、自分がとんでもなく危ない発言をしていることに気が付いた。

「もちろん、本気で望んだらって話ですよっ? 冗談だと分かって――」
「葉月」
「はい」
「また敬語になってる」
「あ!!」

 桜さんがくすぐったそうに笑った。

 凛とした美しさを持つ彼女だけど、やっぱり笑っている時は各段に綺麗だ。

「別に無理しなくていいのよ?」
「大丈夫! 絶対に直すから!!」

 鼻息を荒くする僕の前で、桜さんがまた笑う。

 敬語矯正の道は、思いのほか険しそうだ。







 絶対に直すと必死な姿がいじらしくて、緩んだ頬がなかなか戻らない。

(無理しなくていいのに……)

 悪いなと思いつつ、葉月があたふたしていて助かったと安堵する。笑顔の歪さで、心のざわつきを悟られずに済んだから。

 葉月は目が覚めてからというもの、味がまるで分からないのだという。

 それには、心当たりがあった。



『まぁ、どうしたの? それ』



 姫の視線は、私の手元へ向いていた。私と同世代にも関わらず、可憐に目を丸める様は好奇心旺盛な幼子のそれだ。

 私が手にしているのは、一輪の花だった。

 今にも折れそうな茎に、純白の柔らかな花弁が五つ。花びらが風に揺られて、白い蝶がしがみついているようにも見える。綺麗ではあるが、なんとも頼りない。

『門の前に置いてありました。おそらく、姫様への贈り物かと』
『お供え物でしょ。私は生き神様だものね』

 言葉とは裏腹に、自惚うぬぼれる様子はじんもない。

 そのつまらなさそうな顔には、若干の呆れを含んですらいた。

 この姫は、他人からの称賛や崇拝といったものに関心を示さない。むしろ、どこかうとんでいる節すらある。なんとまぁ贅沢なことか。

 もちろん、姫の気持ちなど知ったことではない。姫の弱みに付け込むために、人となりを把握しているだけだ。


 隙あらば、その可憐な花をれるように。


『どちらにしろ、ご覧の通りしおれているので土に還すしかありませんが』
『だったら、私にちょうだい』
『え?』
『ほら』

 姫が白く小さな手を出してくる。

 萎れた花を差し出すなど無礼極まりないが、他でもない姫の命令だ。正当な理由がない限り、どんなに馬鹿げていようが逆らえない。

 そもそもこのくたびれた花は、姫への供え物だ。それなら彼女の好きにさせればいいと開き直って、白い花を差し出した。

 姫が花を受け取り、じっと見つめる。

『なんて花なの?』

 姫の口から出た問いに、私は驚きを隠せなかった。この飽きっぽい姫が、物言わぬ花にさらなる興味を示すなど思いも寄らなかったからだ。

 困惑を悟られないよう、表情を消して答える。

『くちなしです』
『くちなし……あぁ。あの香りが強いという花ね。実物は初めて見たわ』
『くちなしは基本的に山奥に咲いています。姫様はもちろんですが、屋敷の者が目にすることも少ないでしょう』
『お前は詳しいのね』
『薬学をかじっておりますので』
『なるほどね』

 そう言うや否や、姫は花をがくごとむしり取った。花に声帯が付いていたなら、凄惨な悲鳴が上がったことだろう。


 姫は、純白の花を口の中に放り込んだ。

 止める間もないほどに、なんの躊躇ちゅうちょもなく。


『な――っ』

 何を考えてるんだこの馬鹿女と、思わず口を突いて出そうになった。

 いずれはその命を手折るが、今ここで腹を下されたら非常に困る。侍女という立場上、人目がどこにあるか分からないこの場で捨ておくわけにはいかないのだ。

 そしていくら巫女が不死身に近いとはいえ、与えた物で腹を下そうものなら……最悪、この首が胴から離れかねない。

(これだから世間知らずのお嬢さまは!)

 内心で毒づきつつ、すぐに吐き出させようと手を伸ばしたが、当の姫がそれを手で制した。やむを得ず、私は伸ばした手を引っ込める。

 そんな私を尻目に、姫は花をしゃくする。
 生物の本能の如く、淡々とあごだけを動かして。

 小さなのどが、微かに動いた。

 真顔の姫は、繊細な細工を施された人形のようだ。どこか人間離れしていて、神秘的にすら見える。姫を憎む私の目にすら、そう映るのだ。

 だからこそ、姫の真顔は恐ろしく冷たいと言われるのだろう。

『……口の中がざらざらするわね』
『それはそうでしょう』

 つい今しがたまで、土まみれで門の前に放置されていたのだ。当然の結果に、思わず立場をわきまえない声を漏らしてしまった。

『洗ってくるわ』
『承知いたしました。すぐに水を――』
『いらないわ。それくらい一人でできるもの』

 姫は茎だけになったくちなしを地に捨てると、そのまま見向きもせずに通り過ぎていった。花に対する興味は、もう失せたようだ。

(それにしても大胆な)

 あの花は無毒だが、仮に毒があっても、黒湖の加護があるのでお構いなしだ。

 いや……加護がなかったとしても、あの姫は興味さえ湧けば構わず口にする。
 そして即効性の毒でもない限り、淡々と咀嚼し続けて飲み込むだろう。



 彼女には、味覚がないから。



(……味が分からない、か)

 ふと脳裏をよぎった記憶に、心をかき乱される。

 現時点では、葉月の味覚障害は稀な症状と判断するほかない。高熱の後に味覚を失うことは、稀だが本当にあり得ることだ。

 だけど、気を多く見過ぎて倒れたことは、紛れもない事実だ。

 も熱を出す前に、不思議な桜をたくさん見たと言っていたから。

(私の予想が当たっているのだとしたら……)



 葉月が味覚を失ったのは、夜長姫の浸食だ。



「じゃあ、そろそろ行くわね。明日の打ち合わせがあるから」
「あ、はい……うん。お疲れ様」

 敬語の矯正に四苦八苦しつつも、けして笑顔を忘れない葉月だった。

 部屋を出た私は、台所へと足を向けた。
 今晩は非番だが、何かしていたい気分だった。

(確か、今日の夕食当番は李々のはず)

 あの子のことだ。顔を出すだけでも喜ぶだろうし、ついでに手伝うくらいなら構わないだろう。自慢ではないが、料理は一通りできる。

「…………」


 廊下は、気が遠くなるほどに静かだった。


 巫女の部屋付近は、用でもない限り誰も近寄らない。神にも等しいという価値観が、自然と足を遠のかせてしまうのだ。

(……まさか、本当に直そうとするとはね)

 敬語のことは、ただの気まぐれだった。

 前々からぼんやり感じていたことを、あの時、なんとなく言葉にしようと思っただけだ。けして意地でも直してほしいわけではない。

 それでも嬉しかった。

 私がふと零した一言を、あんなにも懸命に拾ってくれたことが。

 だからこそ、今は葉月の傍にはいられない。葉月の変化に、そして葉月の言葉に動揺していることを知られたくないから。

 葉月にとって、自分の変化で人をがんじがらめにしてしまうことは、死ぬ以上に耐え難い苦痛だと知ったから。



『死にたくはないけど、桜さんがそれを望むなら……仕方ないかな』



 朗らかに笑いながら言う台詞じゃなかった。
 そして葉月には、相手をからかうためにそんな冗談を言う器用さはない。

 あの言葉は、紛れもない本心だ。

 思えば、彼はずっとそうだった。

 刺された時も、社町の住人に襲われた時も、そして会議の時も、常に私の命を優先してきた。自分の命すら差し出しかねない勢いで。

 葉月は、自分に対する執着が恐ろしく薄い。

 いつ死ぬか分からない環境に置かれていたからなのか、別のところに要因があるのかは分からないけど、確かなことが一つある。



 葉月の中で私は、自分の感情や命よりも優先すべき存在となっている。



(……駄目だ)

 今のままでは、葉月は自ら死を受け入れる。私が望んだからというだけで、なんの抵抗もすることなく、笑って――。

 そんなのは、人間じゃない。ただの奴隷だ。

 たとえ巫女になろうとも、葉月は人間だ。人として、自分のために生きる権利がある。魂まで血まみれの鬼である私と違って。

(そう、私は――鬼だ)

 鬼である私はいつか、彼から人としての権利を奪うだろう。

 夜長姫を蘇らせるわけにはいかない。と同じ絶望で、葉月に壊れてほしくない。そんな身勝手かつ独善的な想いで。

 鬼である私の刃を、よりによって葉月が笑って受け入れてしまうなんて、そんな理不尽なことがあっていいはずないのだ。

 だから、私は――――


「あれ?」


 背後から声がかかり、足を止めて振り返る。

「あぁ。やはり、あなたでしたか」

 線が細いのに、深みのある声色。
 相手に安心感をもたらす、丁寧な所作。

 器用かつ穏やかなその人柄から、社の者たちがこぞって頼りにする存在。



 そして二ヶ月間、社から遠ざかっていた男。



めし……」
「お久しぶりです、桜さん」

 物腰柔らかな笑みが、私を静かにとらえた。
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