桜吹雪の後に

片隅シズカ

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二章「動国の花」

第十話「開花 ーかいかー」 (後編) ④

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『えぇ。まるで、夜長姫の存在なんて始めからなかったかのような……』
『半分正解。あれは気を斬る際に、夜長の容姿の記憶を消したからだよ』
『え!?』
『記憶だって、始まりと終わりがあるだろ?』
『…………』

 確かに、気は万物に宿るとは言っていた。
 だけど、まさか大勢の人々から記憶を消すことができるなんて。

(絶対に大丈夫というのは、そもそもの記憶を消すからだったんだ……)

『とはいえ、消せる記憶には限度があるけどね』
『どういうことですか?』
『夜長の存在自体は消せないんだよ。心ごと破壊しかねないからね。それほどまでに、あいつは多くの人間の心に深く根付いたんだ』
『…………』
『かといって、このままの状態であんたが人前に出たら、それはそれで面倒だ。いくら巫女でも、容姿を作り替えることはできないからね。だからひとまず、夜長の悪目立ちする容姿の記憶を、民衆から消すことにしたんだよ』

 あまりにもこうとうけいな事実に驚くほかないけど、僕にとってはありがたい話だ。心配事が全てゆうに終わったのだから。


 そして、新たな可能性が見えてきた。


『虹さん』
『ん?』
『それって、夜長姫の容姿の記憶だけなら、桜さんからも消せるってことですか? 国の気じゃなくて、桜さんの気から直接――』
『無理だね』

 あっさりと否定されてしまった。

『限度があるって言ったろ? 深く根付いたといったが、それにだって個人差がある。事実、社の連中は前と変わらないだろ?』
『あ……』
『桜に至っては、もはや不可能といっていい。長年、夜長を殺すことだけを考えて生きてきたし、そもそも深く関わり過ぎた。個人の気をいじったところで、どうにもならないよ。それこそ、心を破壊するつもりで切らない限りはね』
『……そうですか』
『ま、そもそも記憶を消すなんて滅多にしないよ。今回は特別』

(やっぱり、無理か……)

 どんなに髪を短くしても、この見た目を変えることはできない。容姿だけでも忘れられたら、僕を見る度に夜長姫を思い出さずに済むのに。



 僕を見る度に、人を殺したという罪悪感に苦しんでいるかもしれな――



『――っで!』

 突然、額に鋭い痛みが走った。虹さんにデコピンをされたのだ。ていうか、デコピンってこんなに痛いものだっけ?

『考え過ぎるのは、あんたの悪い癖だ。根詰めるのは体にも頭にも毒だよ』
『はい……』
『今日はとりあえず休みな。視察はまだ始まったばかりだからね』

 虹さんが背中を向けて歩き出す。
 だけど、すぐに立ち止まって振り返った。

『あんた、顔つきが変わったね』
『え?』
『今朝とは全然違う。あんだけ不安がってたのに、今は嘘みたいに清々しい顔してる。何か良いことでもあった?』
『……えぇ、まぁ』
『そっか。お休み』
『お休みなさい』

 もっと深堀りしてくるかと思ったけど、今度は止まることなく去っていった。


「…………」


 ぼんやりと天井を眺めるも、そこにはただ闇が広がっているだけだ。

(記憶か……)

 この世界に来たばかりの時に、この体の名前が分からないということで、桜さんに案内されて記憶喪失者用の身分証を作ってもらった。

 あの時は、この世界では記憶喪失の存在が、制度が整えられるくらい広く認知されているのかなとしか思わなかったけど。

(……まさかね)

 僕は起き上がり、部屋を出た。
 静かな廊下を忍び足で歩く。程なくして、さっき通り過ぎた庭が目に入った。
 
(ここでいいかな)

 庭に入ると、その辺に落ちている枯れ枝を拾った。今晩は少し空気が冷たいけど、まだ祭りの興奮が冷めていないのか、むしろ心地良い。

(両腕は、肩の位置で固定して、そのまま右手首をひねる――)

 両腕を上げ、ほこすずを鳴らすのと同じ動きで、手首を捻るように振った。中心にあの一本桜があるつもりで、ゆっくりと庭の中を回る。


 花鶯さんの舞を思い返す。


 綺麗だった。花鶯さんの舞も。赤い一本桜が、刃を振るう度に桜色に染まっていく様子も。舞と一本桜に見惚れる人々の顔も。

 全てがまぶしかった。
 あれが人の心を動かすということなのかと、全身を揺さぶられた。

 僕に、あんな風に人の心を動かせるだろうか。

 いや。やらないといけないし、やりたい。
 僕も、あんな風に人の心を動かしたい。

 初めてだった。人の夢を応援することはあっても、自分が何かをしたいと強く思うなんて。僕にできることなんて、たかが知れていたから。



 知らなかった。自分の願望で、こんなにも胸が熱くなるなんて。



 体を動かしたところで、いったん足を止める。
 庭全体を視界にいれ、意識を変えた。

 透明の桜が、庭中に姿を現した。

 桜はほとんど散ってしまったけど、ひとたび意識を変えれば、またたく間に春へと染まり返る。この瞬間が、僕は好きだ。

 国の気が中央にあるのだと想像しながら、再び庭の中を歩き出した。

 歩いて、舞って、枝を振るう。
 幻想的な春が広がる中で、同じ動きをひたすら繰り返していく。

(…………うん。大丈夫、痛くない)

 最初に言われたとおりに、頭を慣らすために定期的に気を見るようにしている。その内、気を見ると必ず、しばらく経ってから頭痛がするのだと分かってきた。

 それ以来、花鶯さんのアドバイスに基づいて、少し動いてから気を見るようにしている。準備運動のようなものだ。
 その成果なのか、日が経つにつれて、次第に頭痛の頻度が減っていった。今夜に至っては、全く起こっていない。

 祭りの熱で興奮しているのか、気を見ることに頭が慣れたのか。
 今夜はすごぶる気分が良かった。今までにないほど、清々しい気持ちだった。

(ちょっと、やってみるか)

 先日の授業で一度、線を切ったことはあるものの、社町に入る数日前で慌ただしかったこともあって、自主的にはまだやったことがない。

 良い機会だと思い、かたわらにある池の気に向かって枝を振るってみた。

(あ、できた!)

 花鶯さんの言う通りだ。本当になんの力も要らない。まるで豆腐でも切ったかのように、驚くほどあっさり白い線が二つに分かれた。

 もう一本切ろうと、再び枝を振り下ろす。



 刹那、水のような何かが顔にかかった。反射的に目をつむる。



(え、なに――――)

 ぼとり、と嫌な音がした。
 何が起こったか全く分からないまま、恐る恐るまぶたを開いていく。

「…………え?」

 足下に、白い蛇が転がっていた。
 腹がぱっくりと割れ、全身が真っ赤に染まっている。ビクビクとけいれんしていたけど、すぐに動かなくなった。

 蛇の周りは、赤い絵の具でも叩きつけたかのような赤で汚されていた。蛇を中心に、生々しい赤が広がっていく。

 ほおに付いた何かを、手でぬぐう。
 赤い液体だった。ベタベタして気持ち悪い。

(………………血?)

 ぼとりと、再び白い蛇が落ちてきた。地面にまた赤が叩き付けられる。同じように腹を裂かれ、真っ赤に染まり、痙攣している。

 何かに誘われるように、僕は視線を上げた。

(えっ? なんで……)

 今は夜だ。それなのに、青くまぶしい空が目の前に広がっている。
 しかもなぜか、僕は高楼のようなところに立っていた。日の光が眩しくて目をらしたいのに、どうしてか動けない。

 不意に、体が後ろを向いた。

「――――ひっ!」

 そこには、この世のものとは思えない光景が広がっていた。知らない男が、血の気の引いた顔で棒立ちになっている。


 その真上は天井で、大量の蛇の死体がぶら下げられていた。


 蛇の死体はどれもこれも、腹をむごたらしく引き裂かれていた。
 赤い血がしたたり落ちて、男の顔を、全身を、足元を赤く染め上げている。

(なに……あれ……? なんで……蛇――)



 頭の中で、何かが切れた。



「――――いっ!?」

 突然、頭を何かでつらぬかれた。
 そう勘違いしてしまいそうな衝撃が、頭の中を容赦なく走った。

「あっ、う、ぐぅっ!!」

 声を抑えられない。頭が割れそうだ。痛みが次々と押し寄せてくる。

 痛い。視界が、赤い。
 頭が、痛い。体が、熱い……!

 痛みが激しくなって、体にまで広がっていく。何かが、体を突き破ってきそうで怖い。赤くて、痛くて、熱くて、思考がままならな――――



 両肩を、強く掴まれた。



「……はぁ……はぁ……っ」

 一瞬で嘘のように痛みが、熱さが消えた。

 視界が、赤くない。元に戻っている。
 自分の呼吸が、やけにはっきりと聞こえてくる。息を荒げていたことに、地面に座り込んでいたことに、ようやく気付いた。

「…………」

 両肩を掴む力が、スッと弱まった。包み込むような、優しい力になった。


 視線の先に、人影がある。

 恐る恐る、顔を上げた。


「……桜、さん?」
「えぇ。もう、大丈夫だから、安心して」

 桜さんが、小さく微笑む。肩を上下させ、息を整えている様子だ。どうやら、ここまで走ってきてくれたらしい。

(蛇は…………?)

 もうろうとした頭で、辺りを見回す。
 蛇の死体も、血まみれの男の姿もなかった。

 ただ静かな夜だけが広がっていて、目の前に桜さんがいる。

 綺麗な黒髪は、すっかり乱れてしまっていた。いつもは一つにまとめているけど、職務を終えてほどいていたのだろう。

(桜さん、心配……し……て……)


 全身から、一気に力が抜けた。


「葉月!?」

 体が支えられたのを感じる。桜さんの手の感触が温かい。肌に触れた黒髪が、くすぐったいけど柔らかくて、気持ち良い。



「葉月――しっかり――は――き――」



 桜さんが呼んでいる。
 起きて、ちゃんとお礼を言わないと。

 それなのに、僕の意思とは裏腹に、意識は底へと落ちていくばかりだった。
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