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06.噂の悪女と

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  それからというもの俺は庭園、テラス、マダム達が集うゲストルームに顔を出す。なんなら化粧室の前で待機し用を足し終えた令嬢を出迎える、といった荒行までやってのけたのだったが。
 かれこれ三十分ほど近くたった今、ネフィアを見つけられないでいた。

 あいつ、もしかして怖気づいて……まさか来てない、なんてことないよな!?
 そんなことをしたら俺の今までの計画が水の泡に──

 いつの間にか貴婦人達に囲まれて、それを払いのけるように進んだ先にドリンクを配る使用人が目に入る。注がれている深く赤い液体は長年王家の倉庫より熟成されていた、最高級の葡萄酒ワインだ。

「俺はいらない。それより、ネフィア公爵令嬢を見なかったか? たしか公爵家の馬車はとうの昔に着いていたと思うが」

「はい、ですがそれはエミリーお嬢様のものかと。ネフィアお嬢様は、ノートム公爵様とついさっきご到着に。ああ、あちらです」

 使用人の向けた視線の先にはルシエルが嫌々送った、それもわざと無名の仕立て屋に作らせた、粗末な青いドレスに身を包むネフィアの姿があった。

 記憶の通りだ。やはり今回もルシエルは婚約を破棄するつもりだな。
 それもネフィアを大勢の前で断罪して。

 「では」と通り過ぎようとする使用人の手を掴む。トレイに乗せられたグラスがぐらつき、大きく揺れるもさすがは長年付き従えてきたことだけのことはある。一滴も中身を零すことなく落ち着いたグラスに「さすがだ」と呟いて、明らかに怒った様子の彼女へ微笑んだ。

「アラン様、突然手を掴むなど……これほど高価な葡萄酒ワインを零しでもしたらどうするのですか!?」

「悪いなテレジア、せっかくお前の注いだ酒だ。一度は断りはしたが、やはり飲むべきだろうと思ってね。さっきの言葉を訂正させてくれ、一杯もらえないか?」

 「どうぞ」とテレジアから渡されたワイングラスを手に取り、わざとネフィアの背後へと回り込む。どうやらネフィアを含め令嬢たちは会話に夢中のようで、まったく俺に気付く様子などなかった。

 ならばここはあくまでも自然に……上手くいく、よな。

 突如、俺のとった行動に悲鳴にも似た声を驚いて上げる令嬢達へ、俺はあくまでも申し訳なさそうに言った。

「すまない、挨拶をと思い近づいたのだが手元が狂って葡萄酒ワインを零してしまったようだ。本当に申し訳ない、こんな赤い染みを付けたドレスでルシエル兄さんに合わせるわけにはいかないな。
どうか俺にもう一度、あなたへ挨拶をするチャンスを与えてはくれないだろうか?」

 ネフィアは馬鹿ではない。ここまですれば、お前も断れないことくらいわかるだろう。

 膝をついて手を差し出せば、躊躇はしていたが案の定柔らかい手が重なる。
 ネフィア=ノートム。後に噂の悪女と呼ばれる女が手に入った瞬間であった。忙しなく料理を運ぶ使用人を一人捕まえて、あらかじめ考えておいた言葉を言った。

「今すぐネフィア嬢をゲストルームへと連れて行く。テレジアを呼べ、出来れば下女も数人な。今すぐドレスを着替えさせる」

「は、はい、アラン様。ご命令通りに」

 ネフィアの手を引き去り行く最中、令嬢たちが羨ましそうにこちらを見るが、相手が公爵家の令嬢ネフィアだということもあり止める者などいなかった。

「あの……ここまでしてもらうわけには、それにドレスの染みならあまり目立たないようですし」

 困惑しているが、まさか俺だと気付いていないのか? でも今は説明している暇はない、な。

「黙れ。いいか、ゲストルームに入ればドレスの他に包みと手紙を用意してある。使用人にはルシエルから貰ったものだと答えて読め、決して内容は漏らさぬように。いいか? 俺の指示通りにするんだ、お前が二年後も生きたいと望むならな」

 びくりと震えたネフィアの手を離し、あらかじめ特別に用意してあったゲストルームへと入る。すでに待ち構えていたテレジアに要件を伝え……いいや、長年仕えてきた彼女にその必要はなく「頼む」との一言で全てが片付いたのは良い意味での誤算であった。

「俺は外で待つ。三十分だ、三十分以内にネフィア嬢の身支度を整えろ。誠心誠意をもってだ、頼むぞテレジア」

「アラン様の仰せの通りに。見違えるほど美しくしてご覧に入れましょう」

 誰もいない廊下で、ぱたりと閉じた扉にもたれ掛かりずるずると座り込む。なんとか間に合った、なんとかネフィアを救済できる証拠をでっち上げる事が出来たのだ。

 あとはネフィアを連れて会場に戻れば……あと数分もすればあの馬鹿二人が三文芝居でも始めている頃だろう。

 ルシエルに言われた通り、今日はやけに口元が緩んでいるようだ。窓に映る緩み切った表情の自分に呆れはしたものの、悪い気分ではなかった。

 それから部屋の前で待つことニ十分たらず。着替えを終えて現れたネフィアに俺は困惑していた。

 待て待て待て、こ、こいつってこんなに美人だったっけ?

 真っ赤な薔薇を連想させる赤いドレスに身を包み、緩く巻いたハーフアップの髪型は彼女にとてもよく似合っている。少々派手すぎたのではないかと後悔していたドレスも、気品を損なわず上手く着こなしているようだった。

「あの、アラン様……いかがされましたか?」

「なっ、なんでもない。それよりネフィア嬢、早く会場に向かわねば。テレジア、お前も片付けを終えたら来い。ロレンズが寂しそうにしていたぞ」

 頬を赤らめ返事をしたテレジアが下女を連れ部屋の中へと戻っていく。俺は不安そうな顔をしたネフィアに向かって手を差し出した。

「俺がエスコートする。あの手紙の内容で、わからないことがあったなら言ってくれ。パーティーが始まれば答えることはできないからな」

「ではひとつだけ……本当にあなたを信じてもよいのでしょうか?」

 両手を前で握りしめ、俯く彼女の瞳は暗い影を落としている。安心させるためにも、ここは頷いてやるのがベストだと分かっていた。だが彼女に嘘をつくことは気が引けて、あまりにも無責任のように思えて仕方なかった。

「……確実に助かるか、は正直わからない。だができることは全て手を尽くした、これだけは信じてほしい。
もし俺の考えたシナリオで、またお前がエミリーとルシエルに断罪された時は……そうだな、お詫びに俺も一緒に死んでやる。約束だ」

 大きく見開かれた深碧色の双眸は、俺の紫檀色の瞳をどう捉えているのだろうか。暫くの間俺を見ていたネフィアは、意を決した様子で俺の手に自身の手を重ねた。

「わかりました、私はあなたを信じます。どうぞよろしくお願いいたします、アラン様」

「ああ。では行こう、俺達の晴れ舞台へ」

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