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第2章 迷子の仔猫

厄介な友人_1

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10月25日 AM

 駅へと向かう長閑な街並を、イケメン風の高校生がロードバイクを颯爽と走らせている。それを追い掛けるように、ママチャリに乗った中年サラリーマンが額に汗を滲ませて次の急行に間に合わせようと道を急いでいた。

そんな日常風景を横目に見ながら背の高い男が二人、駅まで歩いていた。

「今日は、たしか午後からの予定だったよね……満員電車に乗ると性格悪くなるから嫌だって何度も言ったよね………… やっぱり、帰ろうかな…………」

蒼井静佳は駅にホームに立っていた。

「大丈夫大丈夫、混雑してる電車に乗って性格悪くなるのはみんな同じだから」
『いやー、混雑してる電車は変な人もいっぱい乗ってるからそっちの方が怖いよ、蒼井』

ニコニコしながら門脇智也が蒼井の質問を当然のことのようにスルーした。

それは毎度のことなので諦めて蒼井は続けた。

「性格が悪くなるどころか、人間不信になるからこの時間やめてくれっていつも言ってるよね。約束を守らないようなら本当に次は無いよ」

「ごめーん。今日のクライアントさん早い時間をご希望だったから、昼前には片付けちゃおうかなと思って」
『ごめんごめん、相手の様子を見るためにも早く行きたいんだ、許せ』

さすが確信犯の常習犯は手慣れたものだ。



 蒼井がこんなことを言うのには、本人的には少しばかり深刻な理由があった。
蒼井静佳には普通の人間には聞こえないはずのものが聞こえてしまうと言う厄介な能力がある。天の声や神のお告げが聞こえるなどと言った怪しいものではなく、人の心の声が聞こえてしまうという能力だった。決して空耳などではない。

他人と距離が近づいたり、その心の声が強烈な時は不可抗力的に他人の心の声が聞こえてしまう。だからと言って蒼井は口から出ている言葉と何ら変わりないと思うことにしているので罪悪感を感じることは少ない。

 しかし、時々困ることもあるのだ。その1つが本当に見たい映画を大音量の映画館で観られないこと。映画好きの蒼井にとっては何とも受け入れ難い事態だ。

なぜかどこから目線なのか分からないネタバレが披露されることがあるのだ。一体何回目の鑑賞なのか主人公になりきってセリフを語る。口ではなく心の声で。

 そんな迷惑体験の中でも極め付けの体験がこれだった。
蒼井が家の用事で仕方なく満員電車に乗った時のこと。沿線にある大学のバスケ部と思われる男子の話し声が聞こえた。

「短髪ってさ結構手間かかるんだよ」

「そうだよな、すぐ伸びるからな」

すると別の場所から突然苛立った心の声が聞こえてきた。
『何が手間がかかる? すぐ伸びるだぁ! こちとら短髪なんて薄いところが隠せないからできねえんだよ!喧嘩売ってんのか、ぁあ! 』と大層御立腹な声をあげていた。もちろん口には出さず心の声で。

驚いた蒼井が恐る恐る左横を見ると、爽やかな大学生のことをジトッと小さい目を更に細めて見ているポテッとした中年オヤジがいた。

爽やかな大学生に罪はないし、彼らは決して誰にも喧嘩は売っていない。確実にオッサンの被害妄想だ。そんな陰湿な視線や心の声は見たくもないし、ましてや聞きたくもない。ポテッとした中年オヤジはストレス発散になるかもしれないが、聞いてしまった蒼井は完全なる貰い事故である。渋滞中に起こる不可抗力な玉突き衝突のようなものだ。

電車の中はこんなことが多発するから精神衛生上、非常によろしくないのである。

 ピアニストの蒼井静佳は、演奏に悪影響を及ぼすのでうるさい場所や人混みには極力近付かないことにしている。なのに門脇には全く通用しない。

「大勢の前で演奏することもあるんだから、少しくらいなら人混みだって大丈夫だろう?」

本当のことを知らない門脇にはたわいも無いことだと言われる。それに対する蒼井のささやかなる反論はこうだった。

「お客様は静かに落ち着いた気持ちで聞いてくれるから大勢いても大丈夫なんだ」

門脇に真意が届いているかどうかは疑問である。

 蒼井はそんな過去の経験から、この厚顔無恥な友人と外出する時に二つ条件を出した。

1つ 半径1.5m以内に人が近く場所には近寄らないこと
1つ 蒼井の仕事がある時は付き合えないので悪しからず

門脇が以上を守らない時はそれ相応のペナルティを課すこととする

即ち と暗に伝えたのである。
そんな訳で満員電車などは全くもって論外なのだ。

この条件を守ると約束したので門脇に会う事を了承したはずだった。それにも関わらず当の本人はこう宣うのだ。

「あれー、この前はこんなに混んでなかったんだけどなぁー。それにこれくらいの混雑だったら、人混みじゃないと思うんだけどなぁー」

約束を酔っ払いの戯言のように軽く扱うのだった。蒼井は門脇に約束を思い出させるように彼にしては珍しく怒ってみた。

「まず駅のこの状態は人混みだと思うのだが、おかしくないかな門脇くん」

「まぁまぁ急がないと遅れちゃうよ、ほら乗るよー」
『本当に急がないと遅れちゃうよ、乗るよー』

ノラリクラリと暖簾に腕押しとはこんな男のことを言うのだろう。

 先日急に門脇から連絡があり電話をとったら開口一番奴はこう宣った。

「客先に同行して欲しーい、詳細は後でー」

一方的に話して電話は切られた。ご丁寧に詳細は機密文書として送り付けられたのが今回の事の発端である。蒼井の能力も本人が目の前にいない電話の時は相手の心の声も聞こえてこないから門脇の真意が分からず始末が悪い。

いつもこんな感じでふわふわと浮雲のような掴みどころのない門脇。なのに実は叔父が所長を務める探偵事務所で働いている。探偵の仕事に行くのになぜ蒼井に声をかけるのか疑問に思って尋ねてみても、ふわふわとそんな調子ではぐらかされるのである。

『もしかしたらあいつ、ピアニストは暇だと思っているのか』と蒼井が考えたところで門脇の頭の中などわかるはずもない。門脇の心の声は恐ろしいくらいに口から出る言葉とリンクしている。全く同じではないが、ほぼ同じようなことを考えている。

誰に対してもそうではないのだろうが、蒼井は門倉に嘘をつかれたことはほぼ記憶にない。しかし探偵たるもの、時には嘘も必要だろう。事実蒼井が知らないだけで門脇はかなりの名役者だったりする。

蒼井は自分に対しての門脇しか知らないので、彼のことを安心して付き合える奴だと思っている。しかしそれを本人に伝えるつもりはない。

 蒼井はこれまでの普通とは言い難い出来事に懐かしさを覚えていたが、ふと今置かれている状況と門脇とのこれまでの問答を、理不尽な満員電車の中で思い出した。

今、現在進行形で満員電車の中にいるはずなのに何かがいつもと違っていた。それはちょっとした違和感だった。あまりに集中していたので周りの音が聞こえないのかと思っていたが、どうやらそうではないようだった。

門脇以外の人間の心の声が聞こえないのだ。

確かに蒼井は『もう、関係ない人の心の声なんか聞きたくない』と思ったのだがそんなことはいつも思っていることだ。その願いが突然、何の前触れもなく叶えられてしまった。

蒼井は長年の宿願が突如叶ったこの状況にも関わらず、己の中に相反する気持ちを抱え困惑していた。それは聞きたくもない他人の心の声が聞こえないことは喜ぶべきことなのに、それが聞こえないことを残念に思う自分も確かに存在しているからだった。

 今1つだけ確かなことは、『自分の意思でその時必要としない人の心の声が聞こえなくなる』と言う事実があると言うこと。門脇は関係ない人ではないから心の声が聞こえなくなることはなかったのだろうと蒼井は考えていた。


 このことは次に仕事でブルーローズへ行った時には九条ではなく天ヶ瀬に相談したいと蒼井は考えていた。何となくだが、天ヶ瀬なら教えてくれそうな気がしたからだ。

取り敢えず今は、現地に着いたら門脇の仕事の手伝いができる状態に戻れるように満員電車の中で出来ることをいくつか試してみることにした。

これがあの事件に巻き込まれたきっかけだった。




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