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第1章 繰り返す女

備えあれば憂いなし_1

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 時は遡り、鮫島李花が過去から現在へ移動した後の出来事である。
実は変えてしまった過去の世界には彼女にとっては受け入れ難いがあったのだ。
大袈裟に言うと、彼女の思惑とは全く違った方向へと歴史は変わってしまったのだった。それは現在やそして未来へも影響を及ぼしている。

例えばこんな風に。


4月25日
 鮫島李花が現在へと戻った日の午後、一枚の婚姻届が戸籍課の課長の元へ届けられた。戸籍課課長の西島はそれを受け取るとすぐに内容を確認したかと思うと足早に人気のない小会議室へと入って行った。入るとすぐに、仕事用の携帯電話を使って発信した。何度か呼び出し音が鳴ると低い声がした。

「はい、本城です」

「戸籍課の西島と申します。緊急にお話ししたいことがあるのですが、今少しお時間をいただけませんでしょうか」

「すみません、静かなところに移動しますのでお待ちいただけますか」

「はい、わかりました」

返事をして待っていると意外と早く本城は話し出した。

「お待たせしております、もう大丈夫です」

「お時間いただきありがとうございます。先だって提出されている婚姻届不受理申請書に関する件でご報告がございます」

「…………  何があったのでしょうか」

「実は昨日、あなたと鮫島李花さんとの婚姻届が提出されました。今日はその確認のためにご連絡いたしました。一見して書類に不備は見受けられないのですが、こちらは本城さんが同意のもとに提出されたものでしょうか? 昨夜22:30頃に女性が役所に一人で来て提出したと報告を受けています。受理状況については受理した職員と防犯カメラによる確認も済んでいますので間違いありません」

「いえ、私はその方との婚姻届にサインをした覚えは一切ありません。ですから絶対に受理しないでください、できれば破棄していただきたいくらいです」

「分かりました。もし起訴された場合犯罪の証拠にもなるので破棄はできませんが、この届けは不受理ということで処理いたします」

「ご連絡ありがとうございます。婚姻届は必ず自分で提出しますのでその時はよろしくお願いいたします」

「分かりました、この件はすぐに処理いたします。お忙しいところありがとうございました。では、失礼いたします」

電話を切った西島は『婚姻届不受理申請書が役に立つことがあるなんて、提出した女は何をしたかったのだろうか、悪質な嫌がらせでなければいいけど』と頭に浮かんだがこれ以上詮索するのは辞めておいた。こう言ったことに変に足を突っ込むと無駄に被害を被るだけだからだ。

 世の中には嫌がらせ目的や不正に遺産相続をしようとして偽造婚姻届を出すものが少なからず存在する。まさか自分が担当した仕事で本当に戸籍上だけでも妻になりたくて嘘の婚姻届を出す者がいるとは、仕事に真面目な戸籍課課長の西島は夢にも思っていなかった。

一つ、面倒な仕事を終えて西島は自分のデスクへと戻っていった。もちろん、偽造婚姻届は戸籍に反映されることは永久にありえない。



 電話を切った本城幹彦は今日ほど過去の自分自身の行動を褒めたいと思ったことは無かった。
それに日本に来る以前は他人が勝手に婚姻届を出すなどという非常識なことが己の身に起きるとは考えたことすらなかった。

今の会社に入って少しした頃は本格的な日本暮らしが初めてなこともあり、社長の妹でもある鮫島李花の態度は日本では許されているのかと思い黙って見ていた。

時間が経つにつれて鮫島李花の異常性に気付き早急に対応しようと対策を考えていた。社内では鮫島グループの御令嬢でもある彼女のことを相談する訳にもいかず困った幹彦は兄の職場に出向き信頼できるオーナーも交えて相談することにした。

きっと兄と二人で話していたら兄は憤慨するばかりで婚姻届不受理申請書のことなど存在すら知ることもできなかったであろうことを簡単に想像できた。オーナーからの説明によると婚姻届不受理申請書は本人が役所に出向いて婚姻届を提出した場合のみ受理されること、そしてそれ以外は状況確認後却下されるというものだった。

「直ぐにでも婚姻届不受理申請書を提出した方が良い」

心配性の兄から真剣な表情で言われた幹彦は、半信半疑でその書類を提出したのだ。

兄を安心させるために提出したつもりのその書類が、本当は自分や美里を守るためのものだったと分かった今ではオーナーに対して感謝の気持ちを述べるだけでは自分の気持ちが許さなかった。

 結果的に偽造婚姻届まで勝手に提出されるほど身の毛もよだつ出来事の始まりはこんな些細なことからだった。

 鮫島李花は現在勤めているリームの社長であり、気の置けない友人でもある鮫島潤一の妹だ。リームには鮫島潤一にヘッドハンティングされて入社した。ヘッドハンティングの件で当初対応していたのは鮫島グループの人事担当者だった。

鮫島潤一は友人としてお願いするのではなく本城の実力と人間性を他の社員にも認めてもらうためにヘッドハンティングという手段を取ったのだった。本城が入社するといつもの様に鮫島李花は兄である潤一に会うためにリームへやってきた。

挨拶をすると、その後もやたらと絡んでくるようになり、その後は毎日のように会社へやってきてはショールームで商品を買って帰っていく日々が続いた。

 そんなことが一ヶ月ほど続いたある日、それは突然前触れもなく起こった。昼の時間帯で事務所兼ショールームには人がまばらだった。久し振りに現れた鮫島李花は周りのことなど気にせずこう宣った。

「結婚を前提に付き合って頂きますわ」

何故か上から目線で本城に宣言してきたのだ。

「大変申し訳ございません。私には心に決めた人がいるので、貴方様のご希望には決して沿うことは出来ません」

本城は丁重にお断りした、はずだった。

 それから一週間程は不気味なほどに何事もなく過ぎた。後から知った話では、その一週間は以前から決まっていた鮫島グループ会長の海外の視察に同行していたようだった。どうやら本人は海外視察をドタキャンしようとしたのだが会長に有無を言わさず連れて行かれたと兄の潤一が教えてくれた。

しかし鮫島李花は非常に諦めが悪かった。

「あなたが心に決めた人よりも絶対に私の方が本城さんを好きだという自信があるわ。それに私の方が絶対に良いに決まっているのだからどうしても私と付き合って欲しいの。会社での貴方の立場も良くなるのだから、すぐにでも結婚しましょう。ええぇその方がいいわ、良いに決まっているわ」

到底理解できない訳の分からない理屈を捏ねてはしつこく付き纏ってきた。

呆気に取られるとはこんなことなのだと冷静な本城は妙に納得したのだった。もちろん本城はその度に丁重にお断りした。

 それでも諦めるという言葉を知らない鮫島李花。その行為はリームへの営業妨害となり少しずつ売り上げにまで影響するようになって行った。

彼女が頻繁にリームに足を運ぶようになってからというもの、他の客の客足が徐々に遠のき、売上げが右肩下がりに下がり始めたのである。それはまるで疫病神がついたかのようだった。タチの悪い疫病神に対抗策を講じるべく、社員一同本気で策を練りだした。

 半年近くその状態が続き皆もヤキモキしている頃、それでも決して本城のことを諦めない鮫島李花対策として兄であり社長である鮫島潤一は、営業職である本城にショールームでの勤務をさせないことにしたのだった。その代わり従来からある応接室とは別に通称を作り、大切な接客はその商談専用ルームに通すことになった。

専用商談ルームでもショールームのように商品を見られるようにコンパクトではあるが見やすいショーケースを用意した。

本城の担当するお客様にはショールームの受付で名前を確認してから専用通路を通って貰い部屋へと案内した。勿論専用通路にも商品を飾り客には特別感を味合わせた。

 仮に鮫島グループ役員であろうと商談専用ルームへの関係者以外の立ち入りを禁じたので鮫島李花は近づくことができなくなった。

温厚な鮫島潤一はこれまで鮫島家での妹に対する父の決定に疑問を呈していた。しかし、会社の売上げにまで影響を及ぼしたこと、それに拒否されても諦めない執念深さを見たことで考えを改めたのだった。

そしてこの出来事が決定的なトリガーとなった。温厚な潤一までもが父の決定に同意することに繋がったのだ。世の中への被害を最小限にするために『鮫島李花を鮫島本家から一生出さない』という決断に。

優秀な社員に色目を使う妹から自分の大切な会社と社員たちを守るべく動いたことが功を奏したのか、停滞していた売上も少しずつ回復して行った。



 これまであった恐怖に値する出来事を思い出していた本城幹彦は、今度は婚約者の新島美里のことを考えていた。彼女の身の安全を、そしてこれからの二人の生活を守っていくのは他ならぬ自分自身なのだと。

美里にはこれまで余計な心配をかけたくなくて話していなかった会社での出来事。
本城幹彦は美里と彼の幸せな生活のためにこれまであったことをきちんと話そうと心に決めたのだった。

現実世界に意識を戻した幹彦は、婚姻届不受理申請書について教えもらうきっかけをくれた兄へ連絡した。仕事が忙しいのか電話は不在メッセージが流れた。しかしその後、すぐにメッセージが送られてきた。

心配性の兄はせっかちでもあった。内容を読みフッと笑みをこぼした本城は仕事が終わったら兄の待つブルーローズへ行くことにした。


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