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辿り至ったこの世界で
理想のこれからと
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「そういえばお姉様。 せっかく一人暮らしを始められるのです。 何かこれからやってみたいとか、そういう目標や楽しみな事ってありますか?」
お茶をしている雑談時に、サリーがそんな些細な事を聞いてきた。
楽しみ、目標………。
けれど、私はそれを聞かれても、その問いへの答えなんてものは咄嗟には浮かんでなんてこなかった。
もう一度深く考えて、確かに、思い返せばそうしたものはあまり深く考えた事が無かったと思い至る。 何せ、昨今の主観点は目先の新生活にのみ向いていて、それが平坦な日常へと落ち着いてからの事なんて何一つとして考えてもいなかったのだから。
ただ生活のために働いて、飢えぬよう死なぬよう食べて、それだけの最低限を日々こなして、ただ生きる。
そんな、人という生き物としての当たり前を滞り無く生活の流れとしてこなすための足場作りばかりで、公爵令嬢ではなくなった私自身が生きていく『これから』なんてものを想定しようとさえ思わなかった。
……まあ、所詮は雑談であると思っての軽い話であるのだ。 故に、そう深く考え込む事もないだろうとして、軽く考えた末の答えはこうである。
「無い……かしらね。 ほら、生活が落ち着くまでは暫くかかるだろうし。 それに、私はもう令嬢でもないしお金だって限りがあるのだから、そんな事を考えるよりも今は働いて貯蓄をしないと」
「そんなのダメですよ! ただでさえ環境の変化は心身への負担が大きいのに、その調子でリフレッシュも出来なきゃすぐに精神的にも肉体的にも限界を迎えちゃいますよ!」
「そんな大袈裟な」
軽い気持ちで返答したのに、思ったよりも熱く返されてしまった。
でも、私の答えは結構妥当なものだと思うのだけれど。
だって、一人暮らしが始まってからも暫くは新生活や周辺環境に人間関係と、想定し得るだけでもそれだけ考えるべき事があるというのに、さらにそこから先の事まで考えている余裕なんてあるわけがないのだし、何よりやっぱり貯蓄だって心許無いし……。
確かに令嬢時代は読書が好きだったけれど、今は本なんて持っていないし。
読書の他には、これと言って趣味と呼べるようなものも無いし、何処かに出掛ける事も一緒に出掛ける相手がいなかったから必要に駆られなければ無かったし……。
「ああ、確かに。 俺も、たまには城の外に出て羽根を伸ばしたくなる時があるから分かるよ。 少なくともエリーナ嬢は一人暮らしを始めたら無理をせず、適度に趣味を楽しむなり休養を取るなりすべきだろう」
「確かに、お姉様ってすぐ無理しますもんね」
私がうんうんと悩んでいる間にサリーはまだ熱弁を続けていたようで、さらにその挙句に何か感化でもされたのか、いつもなら犬猿の仲である筈のサリーにジークが支援をする始末であった。
しかも、何故か私の話で意気投合しているし。
普段はそんなに仲良くないのに、どうしてこんな時ばっかり息ピッタリなのよ……。
「そ、そんなつもりは無いのだけれど……。 でも、急にそんな事を言われても何をすればいいのか……」
「だったら、一緒に考えましょう! ジーク様もわりと街の方へ遊びに出てるそうですし、サリーも貴族歴より平民として暮らしてた時間の方が長いですから、色々とお教え出来ます。 お姉様は、何がしてみたいですか?」
さっきまでのようなおふざけや変なテンションの乱高下は無しで、数少ない真面目な話をする時の声の調子でサリーは聞いてきた。
「私が、してみたいこと」
そう呟いて、まず連想したのは薄ぼんやりとした『自由』という概念であった。
令嬢時代、厳しい教育の最中に窓の外から見える日の当たる世界に想いを馳せて、外の世界を飛び回る鳥や小さな虫にさえ羨望を覚えたものだ。 それは偏に、私には無い自由を持つもの達であったが故に向けた羨望である。
机に向かって授業を受けるよりも、美しく歩くための訓練として本を頭に乗せて慎重に歩くよりも、外を思いっきり駆けたかったのだ。
けれど、今の私は令嬢ではなく、家の庇護を失くした代わりに自由を得た。 自らの力で生きていく世界、自由な日常を得たのだ。
ならば、その願いはとうに叶っているではないか。
でも、サリーが言いたいのはそういう事ではないのだろう。
私はもうすぐで『自由』な生活を手に入れる。
その道行きの先で、自由に駆けたり歩いたりする事が出来るようになった私が望む物はないのかと聞かれているのだろうから。
かと言って、してみたい事ねぇ……。
普段であれば、日常からの現実逃避に膨らませた妄想が実となって話せる事だってあるだろうけれど、今はそんな逃避したくなるような辛い事なんて無いし、そもそも今だって十分に満たされている程なのだ。
そんな、したい事なんて思い付く訳が無い。
「えぇと………やっぱり、思い付かないわ」
「そうですか……。 いやでも、ご安心ください。 このサリー、そんなお姉様にもオススメできる王都のグルメから名所、果ては穴場のお菓子屋さんや定食屋さんまで網羅しておりますとも!」
「食べ物ばっかりじゃないの」
「いいじゃないですか。 私、食べるの大好きなので。 それにお姉様がしたい事を思いつかないと仰るなら、サリーの好きなものを片っ端から紹介するだけです。 それでお姉様が好きになりそうなものが見つかるかもしれませんし、見つからなくてもそれはそれできっと楽しいですよ!」
確かに、サリーの話は魅力的に思える。
初めてジークに連れられた時、初めて歩いた王都の街は、道行く人々の営みと色んな未知に溢れていた。 屋台で買った串焼も、本当に美味しかったし。
あんなものに溢れた市井を自由に歩き、そして其処に在る全てに触れられたのなら、それはさぞ楽しい事だろう。
「でも、そういうものなの? 趣味ってそんな風に適当な感じでいいのかしら。 だって、私が元から好きな読書は知見を広げる意味では役に立つし、別に好きではなかったけれど貴族令嬢の間でポピュラーな趣味だった刺繍は教養として必要な事だったから」
「別にいいんですよ、そんなの気にしなくても適当で。 だって趣味なんですよ、楽しければそれで構いません! 趣味とか道楽なんて、結局はそんなものです。 貴族が頭固すぎるだけで、本来の趣味っていうのは日常の中で色んな体験をして『これだ』っていう風に直感的に見つかるものなんですから。 だからほら、まずはサリーのオススメをどうぞどうぞ!」
そう言って、サリーはズイズイと開いたメモ帳を私に押し付けてくる。
そのメモには見開きだけでもびっしりと文字が羅列されていて、文言はサリーの個人的感想を混じえた製菓店や惣菜屋に食堂などの評文で構成されていた。
それも、どの店も王都に在籍しているものばかりで、今の私にだって手に届く範囲のものばかりだ。
「自分が貴族になって思いましたけど、誰もかれも、何もかも不自由過ぎるんですよ、貴族っていうのは。 その点、お姉様はもう自由の身です。 これからは好きな事をしていいし、法と一般常識以外にお姉様を縛り付けるものなんて無いのです。 だから、今は難しいかもしれませんが、サリーはお姉様が本当の意味で自由を謳歌出来るようにと、応援をしたいのです」
「サリー……。 じゃあ、この『串あげ』っていう料理について教えて。 串焼きも素晴らしかったのだもの、串あげも良いものなのでしょう?」
「ジーク様から話には聞いていましたが、お姉様ったらすっかりカロリー増し増しのジャンクなものをお好みになって。 ですが、おっまかせください! 串揚げならば美味しい店を知ってますから!」
「えっ。 今、なんて? カロリーが、まし、まし……? ……ねぇ待って今の無し、ちょっと話聞いて!」
その後は、一心不乱にメモ帳のページを捲って「来週、一緒に行きましょう! 引っ越し祝いの串揚げパーティーです!」などとはしゃぐサリーを「大騒ぎ禁止!」と止めながら、なんとか串あげ(ハイカロリー)パーティー開催などと恐ろしい事を言うサリーを説き伏せて、なんとか別の話題にシフトして事無きを得る事に成功した。
それでもやっぱり謎テンションだけは継続しているサリーの暴走をあまり話に入ってこなかったジークと一緒に止めたり、やっぱり引っ越しパーティーはしたいと言って聞かないサリーに根負けして予定を組んだりと騒ぎは起こるのだけれど、それは、わざわざ語るような特別な事もない普通のお話。
そう。 実に普通な、日常のエピソード。
ささやかなお礼にとジークとサリーを招いたこのお茶会の一時は、そんな、騒がしいながらも穏やかな一幕であった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「……それで、よろしいので? 今日の様子を見てる限り、お姉様から一線引いてるように伺えましたけど。 お姉様の事は諦められたのですか、ジーク様?」
エリーナが「お花を摘みに」と席を立った時を見計らって、サリーは先のような甘く優しい声とは違う『素の声』でジークに尋ねた。
エリーナが相手であれば「きゅるんきゅるん」と効果音でも付いていそうな普段と違ったその声に困惑もしたであろうが、むしろエリーナのいない所では平然と演じる事をやめるサリーのその声こそが普段のものであるため、ジークとしては特に驚くような事は無い。
「何の事だ……なんて、エリーナ嬢に関する事でキリエル嬢に惚けたって聞かないよなぁ。 でも、縁を切る事は無い。 エリーナ嬢はアリステルにとって、貴重な存在だ。 既に終わった事でも、その事実は変わらない。 これからも定期的に様子を見に来るし、密かに王城の近衛から護衛も付けられる事になっている。 だからそういう意味では、俺はエリーナ嬢と今後も付き合い続ける事になるだろう」
ジークの回答は、王族としての役目の話。
けれどサリーが訪ねているのは、別に口数が少ないわけでも寡黙というわけでもなく、まして相手がエリーナであれば平素よりリラックスした優しい声音が出るような「分かり易い」男であるジークが、まるでエリーナとサリーの会話にも入ってこず、ましてエリーナとの会話も少ないのはどういう意図があっての事か、という話である。
彼女が聞きたいのは、エリーナの現状から紐付けられた『王太子ジーク』としての判断ではないのだ。
故に、彼女は再度問い直す。
もちろん、ジークに対して普段から容赦の無い彼女は、挑発込みで。
「では『そういう意味』を取り払った個人的にはどうなのです? 王族でも王太子でもない、ただのジークという男としてはどうなのでしょうか? ……想いの一つも語れないような肝の小さい男はモテませんよ」
「……相変わらず、そう言う君は不遜が過ぎるよな。 一応、俺って王族で王太子なんだが」
「さっき私も言いましたよ、それ。 それに、サリーにはそんなの関係無いです。 お姉様さえ良ければそれでいいので」
そう答えながら、サリーは不遜の上塗りが如くジークの言葉を鼻で笑う。
それでも不敬と断じる気にさえなれないのは、彼女の態度があまりにも突き抜けきった思い切りの良いものが故か、それとも普通の貴族と違ってその言葉の全てが偽りの無いものであると分かっているからか。
どちらにせよ、不敬を咎めるでもないならばジークにはサリーの言葉に返せるような言葉などありはしない。
なので、ジークは先のサリーの質問に粛々と答えた。
「まあ、概ね君の言った通りだ。 俺は、エリーナ嬢に近付くべきじゃない。 彼女のこれからを考えて、そして彼女自身を想うなら、これが最善の結論だと思うからな」
「何をどう取って最善なのですか? まあ、ジーク様の事は正直どうでもいいんですけど」
「本当に君、俺の扱い雑だな」
「別にいいでしょう。 王子様って周りからチヤホヤされる立場なんですから、私1人くらい泥棒猫と思っていても。 いや、ジーク様は猫ってよりも鶏ですけど」
サリーの評にジークは、もはや苦笑いしか浮かばない。
否定の仕方が本当に容赦ない上に正鵠を射ているのだから尚の事である。 正論を気に食わないからと頭ごなしに否定する事の無いジークとしては何も言い返せもせず、別に返せるような言葉も無いのだから。
しかし、サリーは反論や幼稚な返事さえない事が気に食わないのか、眉根を寄せると大きなため息を一つ吐いた。
「お姉様が『そういう人』じゃない事は分かっているんです。 もしもそうだったら、いいえ、微かにでもその兆候があったのなら、サリーが一生を懸けて口説き落としてでも『そういう』幸せをあげますから。 たとえ、お姉様の中に貴方が残っていても、全部上書きしてサリーでいっぱいにしますから」
その言葉に巫山戯も冗句も無く、サリーはそう宣言する。
それはまるで、ナヨナヨと迷っているジークに対するかのように、ただ真っ直ぐに。
けれどそれは、おそらくは彼女の望みでありながら、同時に在り得ないと既に断じているかのような語り方でもあった。
「でも違うんですよ、お姉様は。 サリーにはお姉様を幸せにする事は出来ませんし、これからの道行きをどうしていくかまだ決められていないお姉様の隣を、生涯を掛けて共に歩き続けられもしないんです。 だから、そういう所だけは本当にジーク様が羨ましいんですよねぇ。 本当に理不尽ですよ、世の中って」
「……まあ、人は生まれを選べないし、思想と現実の在り方が乖離する事なんてよくある話だからな」
「ええ。 だから、まあ。 正直、わたしは結構ジーク様の事を信頼して、そして期待してたんですよ。 だから、2人が『そう』なるんだったらそれも仕方ないって、最近はそう思っていたんです。 それでお姉様が幸せになるんなら、それ以上に喜ばしい事はないですし」
「君は、本気だったんだな。 それほどに彼女の事を」
「お姉様はサリーの恩人ですから。 憧れるのも、幸せを願うのもーーー惚れるのも。 たとえ同性であったとしても、不思議な事なんて全然ないでしょう?」
何でもないように、サリーははっきりと己が想いを吐露した。
それは、ジークの出来なかった事。
諦めてしまった道筋であり、今まさに封じ込めようとしている想いでもあった。
「俺だって本当は、彼女が……」
けれど、その後の言葉は続かなかった。
それを言ってしまえば、一度決めた道筋の否定と、決意の揺らぎを生んでしまうから。
彼は王族であり、そして王太子であるが故に、既に下した決定を覆す事など、あってはならないのだから。
そんなジークの在り様に、サリーはもどかしく思いながら皮肉を漏らす。
「はぁ……。 さっきも言いましたけど、どうしてお貴族様っていうのはこんなにも頭が固くて、そして面倒臭い世界に生きてるんですかねぇ」
「………」
ジークは、サリーの言葉に応えない。
彼自身が、サリーの憂う世界の頂点に座す一族の一員なのだから。
その責が故に、否定は出来ない。
けれども未だ半端なその決意はジークの表層に歯噛みという形で浮き上がって、彼の視座の揺らぎを示していた。
その様を見たサリーは、再びため息を漏らすのだった。
お茶をしている雑談時に、サリーがそんな些細な事を聞いてきた。
楽しみ、目標………。
けれど、私はそれを聞かれても、その問いへの答えなんてものは咄嗟には浮かんでなんてこなかった。
もう一度深く考えて、確かに、思い返せばそうしたものはあまり深く考えた事が無かったと思い至る。 何せ、昨今の主観点は目先の新生活にのみ向いていて、それが平坦な日常へと落ち着いてからの事なんて何一つとして考えてもいなかったのだから。
ただ生活のために働いて、飢えぬよう死なぬよう食べて、それだけの最低限を日々こなして、ただ生きる。
そんな、人という生き物としての当たり前を滞り無く生活の流れとしてこなすための足場作りばかりで、公爵令嬢ではなくなった私自身が生きていく『これから』なんてものを想定しようとさえ思わなかった。
……まあ、所詮は雑談であると思っての軽い話であるのだ。 故に、そう深く考え込む事もないだろうとして、軽く考えた末の答えはこうである。
「無い……かしらね。 ほら、生活が落ち着くまでは暫くかかるだろうし。 それに、私はもう令嬢でもないしお金だって限りがあるのだから、そんな事を考えるよりも今は働いて貯蓄をしないと」
「そんなのダメですよ! ただでさえ環境の変化は心身への負担が大きいのに、その調子でリフレッシュも出来なきゃすぐに精神的にも肉体的にも限界を迎えちゃいますよ!」
「そんな大袈裟な」
軽い気持ちで返答したのに、思ったよりも熱く返されてしまった。
でも、私の答えは結構妥当なものだと思うのだけれど。
だって、一人暮らしが始まってからも暫くは新生活や周辺環境に人間関係と、想定し得るだけでもそれだけ考えるべき事があるというのに、さらにそこから先の事まで考えている余裕なんてあるわけがないのだし、何よりやっぱり貯蓄だって心許無いし……。
確かに令嬢時代は読書が好きだったけれど、今は本なんて持っていないし。
読書の他には、これと言って趣味と呼べるようなものも無いし、何処かに出掛ける事も一緒に出掛ける相手がいなかったから必要に駆られなければ無かったし……。
「ああ、確かに。 俺も、たまには城の外に出て羽根を伸ばしたくなる時があるから分かるよ。 少なくともエリーナ嬢は一人暮らしを始めたら無理をせず、適度に趣味を楽しむなり休養を取るなりすべきだろう」
「確かに、お姉様ってすぐ無理しますもんね」
私がうんうんと悩んでいる間にサリーはまだ熱弁を続けていたようで、さらにその挙句に何か感化でもされたのか、いつもなら犬猿の仲である筈のサリーにジークが支援をする始末であった。
しかも、何故か私の話で意気投合しているし。
普段はそんなに仲良くないのに、どうしてこんな時ばっかり息ピッタリなのよ……。
「そ、そんなつもりは無いのだけれど……。 でも、急にそんな事を言われても何をすればいいのか……」
「だったら、一緒に考えましょう! ジーク様もわりと街の方へ遊びに出てるそうですし、サリーも貴族歴より平民として暮らしてた時間の方が長いですから、色々とお教え出来ます。 お姉様は、何がしてみたいですか?」
さっきまでのようなおふざけや変なテンションの乱高下は無しで、数少ない真面目な話をする時の声の調子でサリーは聞いてきた。
「私が、してみたいこと」
そう呟いて、まず連想したのは薄ぼんやりとした『自由』という概念であった。
令嬢時代、厳しい教育の最中に窓の外から見える日の当たる世界に想いを馳せて、外の世界を飛び回る鳥や小さな虫にさえ羨望を覚えたものだ。 それは偏に、私には無い自由を持つもの達であったが故に向けた羨望である。
机に向かって授業を受けるよりも、美しく歩くための訓練として本を頭に乗せて慎重に歩くよりも、外を思いっきり駆けたかったのだ。
けれど、今の私は令嬢ではなく、家の庇護を失くした代わりに自由を得た。 自らの力で生きていく世界、自由な日常を得たのだ。
ならば、その願いはとうに叶っているではないか。
でも、サリーが言いたいのはそういう事ではないのだろう。
私はもうすぐで『自由』な生活を手に入れる。
その道行きの先で、自由に駆けたり歩いたりする事が出来るようになった私が望む物はないのかと聞かれているのだろうから。
かと言って、してみたい事ねぇ……。
普段であれば、日常からの現実逃避に膨らませた妄想が実となって話せる事だってあるだろうけれど、今はそんな逃避したくなるような辛い事なんて無いし、そもそも今だって十分に満たされている程なのだ。
そんな、したい事なんて思い付く訳が無い。
「えぇと………やっぱり、思い付かないわ」
「そうですか……。 いやでも、ご安心ください。 このサリー、そんなお姉様にもオススメできる王都のグルメから名所、果ては穴場のお菓子屋さんや定食屋さんまで網羅しておりますとも!」
「食べ物ばっかりじゃないの」
「いいじゃないですか。 私、食べるの大好きなので。 それにお姉様がしたい事を思いつかないと仰るなら、サリーの好きなものを片っ端から紹介するだけです。 それでお姉様が好きになりそうなものが見つかるかもしれませんし、見つからなくてもそれはそれできっと楽しいですよ!」
確かに、サリーの話は魅力的に思える。
初めてジークに連れられた時、初めて歩いた王都の街は、道行く人々の営みと色んな未知に溢れていた。 屋台で買った串焼も、本当に美味しかったし。
あんなものに溢れた市井を自由に歩き、そして其処に在る全てに触れられたのなら、それはさぞ楽しい事だろう。
「でも、そういうものなの? 趣味ってそんな風に適当な感じでいいのかしら。 だって、私が元から好きな読書は知見を広げる意味では役に立つし、別に好きではなかったけれど貴族令嬢の間でポピュラーな趣味だった刺繍は教養として必要な事だったから」
「別にいいんですよ、そんなの気にしなくても適当で。 だって趣味なんですよ、楽しければそれで構いません! 趣味とか道楽なんて、結局はそんなものです。 貴族が頭固すぎるだけで、本来の趣味っていうのは日常の中で色んな体験をして『これだ』っていう風に直感的に見つかるものなんですから。 だからほら、まずはサリーのオススメをどうぞどうぞ!」
そう言って、サリーはズイズイと開いたメモ帳を私に押し付けてくる。
そのメモには見開きだけでもびっしりと文字が羅列されていて、文言はサリーの個人的感想を混じえた製菓店や惣菜屋に食堂などの評文で構成されていた。
それも、どの店も王都に在籍しているものばかりで、今の私にだって手に届く範囲のものばかりだ。
「自分が貴族になって思いましたけど、誰もかれも、何もかも不自由過ぎるんですよ、貴族っていうのは。 その点、お姉様はもう自由の身です。 これからは好きな事をしていいし、法と一般常識以外にお姉様を縛り付けるものなんて無いのです。 だから、今は難しいかもしれませんが、サリーはお姉様が本当の意味で自由を謳歌出来るようにと、応援をしたいのです」
「サリー……。 じゃあ、この『串あげ』っていう料理について教えて。 串焼きも素晴らしかったのだもの、串あげも良いものなのでしょう?」
「ジーク様から話には聞いていましたが、お姉様ったらすっかりカロリー増し増しのジャンクなものをお好みになって。 ですが、おっまかせください! 串揚げならば美味しい店を知ってますから!」
「えっ。 今、なんて? カロリーが、まし、まし……? ……ねぇ待って今の無し、ちょっと話聞いて!」
その後は、一心不乱にメモ帳のページを捲って「来週、一緒に行きましょう! 引っ越し祝いの串揚げパーティーです!」などとはしゃぐサリーを「大騒ぎ禁止!」と止めながら、なんとか串あげ(ハイカロリー)パーティー開催などと恐ろしい事を言うサリーを説き伏せて、なんとか別の話題にシフトして事無きを得る事に成功した。
それでもやっぱり謎テンションだけは継続しているサリーの暴走をあまり話に入ってこなかったジークと一緒に止めたり、やっぱり引っ越しパーティーはしたいと言って聞かないサリーに根負けして予定を組んだりと騒ぎは起こるのだけれど、それは、わざわざ語るような特別な事もない普通のお話。
そう。 実に普通な、日常のエピソード。
ささやかなお礼にとジークとサリーを招いたこのお茶会の一時は、そんな、騒がしいながらも穏やかな一幕であった。
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「……それで、よろしいので? 今日の様子を見てる限り、お姉様から一線引いてるように伺えましたけど。 お姉様の事は諦められたのですか、ジーク様?」
エリーナが「お花を摘みに」と席を立った時を見計らって、サリーは先のような甘く優しい声とは違う『素の声』でジークに尋ねた。
エリーナが相手であれば「きゅるんきゅるん」と効果音でも付いていそうな普段と違ったその声に困惑もしたであろうが、むしろエリーナのいない所では平然と演じる事をやめるサリーのその声こそが普段のものであるため、ジークとしては特に驚くような事は無い。
「何の事だ……なんて、エリーナ嬢に関する事でキリエル嬢に惚けたって聞かないよなぁ。 でも、縁を切る事は無い。 エリーナ嬢はアリステルにとって、貴重な存在だ。 既に終わった事でも、その事実は変わらない。 これからも定期的に様子を見に来るし、密かに王城の近衛から護衛も付けられる事になっている。 だからそういう意味では、俺はエリーナ嬢と今後も付き合い続ける事になるだろう」
ジークの回答は、王族としての役目の話。
けれどサリーが訪ねているのは、別に口数が少ないわけでも寡黙というわけでもなく、まして相手がエリーナであれば平素よりリラックスした優しい声音が出るような「分かり易い」男であるジークが、まるでエリーナとサリーの会話にも入ってこず、ましてエリーナとの会話も少ないのはどういう意図があっての事か、という話である。
彼女が聞きたいのは、エリーナの現状から紐付けられた『王太子ジーク』としての判断ではないのだ。
故に、彼女は再度問い直す。
もちろん、ジークに対して普段から容赦の無い彼女は、挑発込みで。
「では『そういう意味』を取り払った個人的にはどうなのです? 王族でも王太子でもない、ただのジークという男としてはどうなのでしょうか? ……想いの一つも語れないような肝の小さい男はモテませんよ」
「……相変わらず、そう言う君は不遜が過ぎるよな。 一応、俺って王族で王太子なんだが」
「さっき私も言いましたよ、それ。 それに、サリーにはそんなの関係無いです。 お姉様さえ良ければそれでいいので」
そう答えながら、サリーは不遜の上塗りが如くジークの言葉を鼻で笑う。
それでも不敬と断じる気にさえなれないのは、彼女の態度があまりにも突き抜けきった思い切りの良いものが故か、それとも普通の貴族と違ってその言葉の全てが偽りの無いものであると分かっているからか。
どちらにせよ、不敬を咎めるでもないならばジークにはサリーの言葉に返せるような言葉などありはしない。
なので、ジークは先のサリーの質問に粛々と答えた。
「まあ、概ね君の言った通りだ。 俺は、エリーナ嬢に近付くべきじゃない。 彼女のこれからを考えて、そして彼女自身を想うなら、これが最善の結論だと思うからな」
「何をどう取って最善なのですか? まあ、ジーク様の事は正直どうでもいいんですけど」
「本当に君、俺の扱い雑だな」
「別にいいでしょう。 王子様って周りからチヤホヤされる立場なんですから、私1人くらい泥棒猫と思っていても。 いや、ジーク様は猫ってよりも鶏ですけど」
サリーの評にジークは、もはや苦笑いしか浮かばない。
否定の仕方が本当に容赦ない上に正鵠を射ているのだから尚の事である。 正論を気に食わないからと頭ごなしに否定する事の無いジークとしては何も言い返せもせず、別に返せるような言葉も無いのだから。
しかし、サリーは反論や幼稚な返事さえない事が気に食わないのか、眉根を寄せると大きなため息を一つ吐いた。
「お姉様が『そういう人』じゃない事は分かっているんです。 もしもそうだったら、いいえ、微かにでもその兆候があったのなら、サリーが一生を懸けて口説き落としてでも『そういう』幸せをあげますから。 たとえ、お姉様の中に貴方が残っていても、全部上書きしてサリーでいっぱいにしますから」
その言葉に巫山戯も冗句も無く、サリーはそう宣言する。
それはまるで、ナヨナヨと迷っているジークに対するかのように、ただ真っ直ぐに。
けれどそれは、おそらくは彼女の望みでありながら、同時に在り得ないと既に断じているかのような語り方でもあった。
「でも違うんですよ、お姉様は。 サリーにはお姉様を幸せにする事は出来ませんし、これからの道行きをどうしていくかまだ決められていないお姉様の隣を、生涯を掛けて共に歩き続けられもしないんです。 だから、そういう所だけは本当にジーク様が羨ましいんですよねぇ。 本当に理不尽ですよ、世の中って」
「……まあ、人は生まれを選べないし、思想と現実の在り方が乖離する事なんてよくある話だからな」
「ええ。 だから、まあ。 正直、わたしは結構ジーク様の事を信頼して、そして期待してたんですよ。 だから、2人が『そう』なるんだったらそれも仕方ないって、最近はそう思っていたんです。 それでお姉様が幸せになるんなら、それ以上に喜ばしい事はないですし」
「君は、本気だったんだな。 それほどに彼女の事を」
「お姉様はサリーの恩人ですから。 憧れるのも、幸せを願うのもーーー惚れるのも。 たとえ同性であったとしても、不思議な事なんて全然ないでしょう?」
何でもないように、サリーははっきりと己が想いを吐露した。
それは、ジークの出来なかった事。
諦めてしまった道筋であり、今まさに封じ込めようとしている想いでもあった。
「俺だって本当は、彼女が……」
けれど、その後の言葉は続かなかった。
それを言ってしまえば、一度決めた道筋の否定と、決意の揺らぎを生んでしまうから。
彼は王族であり、そして王太子であるが故に、既に下した決定を覆す事など、あってはならないのだから。
そんなジークの在り様に、サリーはもどかしく思いながら皮肉を漏らす。
「はぁ……。 さっきも言いましたけど、どうしてお貴族様っていうのはこんなにも頭が固くて、そして面倒臭い世界に生きてるんですかねぇ」
「………」
ジークは、サリーの言葉に応えない。
彼自身が、サリーの憂う世界の頂点に座す一族の一員なのだから。
その責が故に、否定は出来ない。
けれども未だ半端なその決意はジークの表層に歯噛みという形で浮き上がって、彼の視座の揺らぎを示していた。
その様を見たサリーは、再びため息を漏らすのだった。
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