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5度目の世界で
幸福の定義
しおりを挟む「ふぁ……」
夜が更け、既に時計の針も日を跨いだ頃。
私は小さなあくびを漏らしながら自室で机に向かって教本の写しをしていた。
何も、学園で試験が近いから徹夜で勉強をしているなどということではない。 普段から真面目に勉強をしているからこそ学園内上位の学力を維持しているのであって、何も試験の直前に知識を詰め込む必要などないのだ。
それに、写しをしている教本も学園における学力水準のものではなく、平民の学園、それも初等部で用いられるような文字の読み書きを教えるためのものだ。
1週間寝る間を惜しんで漸く終わりの見えた写しは、ユースクリフ領の教会が運営する孤児院の子供たちのために作っている。
というのも、先週視察でエルマと本を読んでいた時のことーー
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「………」
「エルマちゃん……? すごく眉間に皺が寄っているけど、どうかしたの?」
私の隣に座って開いているページに目をやった途端険しい表情で文字を凝視したまま固まってしまった。
一体どうしたのか。 ひょっとして、内容が気に入らなかったとか?
「……わからない」
「………え?」
「ラナさん、これ、なんてかいてあるの? わたし、じがよめないからわからない」
少しブー垂れて言うエルマは見たまま不貞腐れていた。 頰をぷくりと膨らませ、あまり怖くない睨みを利かせている。
「あら……そうだったのね、じゃあ私が読んで聞かせてあげるわ」
「うん」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
というような事があった。
このアリステル王国は、他の国に比べて識字率も高く、平民向けの学園施設にも力を入れている方ではあるが、それでも王都から離れた辺境などになると施政が及んでいないところも多く、そこに住む人々は幼少期に学ぶ機会が与えられないまま歳を重ねる事となる。
アリステル王国は、権力よりも本人の実力を重要視する傾向が強く、平民から王宮の高官になるという事もあり得るのだ。 王宮勤めでなくとも、能力があれば就職も楽で、どこでだって好待遇で受け入れてくれる。
だからこそ貴賎問わずに幼少期から学問を修めるために皆、学園に通うのだ。
学ぶ権利は平等にあり、しかし学ぶ機会を得られるかは生まれや生活環境に左右される。
それは運否天賦の領域であり、別に不公平どうこうと言っても仕方がない。
かと言って、世の理不尽に対して何か活動を起こすわけでもない。
私にできるとしたら、自らの学んだ事を伝え教える程度のものだ。
エルマ達に学問を学ぶ機会が無いならば、私がその機会となろうと思ったのだ。
小さな世界で、早くに全てを失いながらも寄り添い合いながら懸命に生きるあの子達を哀れまなかったと言えば嘘になる。
でも、憐憫だけが動機ではない。
孤児院の皆に学問を教えようと考えたのは、あの日、エルマが読み聞かせられる頁の一行一行を指で追って、理解しようとしていたからだ。 本当は自分で読みたいのだろうから、教えてあげたいのだ。
そして、本を読めば知識が増え、わからない事が増えていくのだろうから、私の知ってる事を教えてあげたいのだ。
学ぶ機会を与えられない不幸な子供達に学問を施す。 その行為に贖いや慚愧の念などの打算的なものがある事は否定しない。
でも、構わないではないか。
不幸な子供達が救われるなら、それで……。
そこで私は、ふと思った。
私は、生まれながらに恵まれた環境で育ち、誰に愛される事なくとも、清濁共にその全てを当然の如く享受してきた。
対してエルマ達は、両親もおらず、孤児として辺境の小さな孤児院で貧しく、そして学ぶ機会すらも与えられず、しかし親代わりのピューラや仲間達と本物の家族のように暮らしている。
では、幸福なのはどちらで、不幸なのはどちらであろうか。
片や富を持ちながら愛を持たず、片や愛に育まれながら富を持たず。 背反するような在り方をした私と彼女らは、どちらが幸福であると言えるのか。
私は、ピューラやエルマ達が羨ましく思う。
愛を乞い、与えられてこなかった。 誰もこの手をとってはくれず、伸ばした手は虚空を彷徨い続けた。
この手に求めた人の温もりも、心安らぐ安寧も、求めようとも得られなかった。
彼女らは、貧しくとも手を取り合い、孤独に苛まれることは無いだろう。 だって、彼女らはそうして生きてきたのだろうから。
そんな彼女らでも富は欲しいだろう。
贅を尽くした美味しい料理に、暖かくてフカフカの布団。 飢えることなど無く、満たされて生きていくための富なんて、誰だって欲しがるものだと思う。
私はそれを持ちながらに満たされることは無かった。
私の欲しいものは、いくら富を投げうち、いくら贅を尽くしても得られることは無い。
愛は、買えないのだ。
私は富が有りながらも愛されず、彼女らは貧しくとも愛が有る。
富か、愛か。
どちらを持っている事が幸福であるのか。
私は幸福なのか? エルマ達は幸福なのか?
その疑問の答えは、どんな本にも載ってはいない。 考えようとも無価値であり、ただこの手に有るものが全てだ。
富と愛は二律背反。 どちらも幸福の定義を導く過程に有り、しかしその解へと至る結論では無い。
そもそも、富は有れども愛は無い私が言ったところで、所詮はただの無い物ねだり。
愛など求めぬと誓ったではないか。
だから、この話はここで終わり。
空想の一幕を終え、現実に向き合った私は、残り数行となった頁の写しを再開するのだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
夜中に睡眠時間を削って教本の写しを敢行した代償は、日中の強烈な眠気だった。
気を抜けば授業中であれ意識が飛んでいきそうではあるが、公爵令嬢たる私がそのように間抜けな姿を晒すわけにはいかない。
高位の貴族である以上、公爵家の面目を保つ事以上に、自らを律して他の者達の模範的な存在であらねばならない。
それは貴族社会の秩序と矜持の維持のため。
そして同時に、民の安寧のためにも。
いつ何時も優雅たれ。
その自身に満ちた貴族達の姿は、国を守護する一柱として民に安寧を与える象徴なのだから。
「ーーーー嬢。 エリーナ嬢、聞いてるか?」
「っ! ……は、はい、何でしょうか会長」
いけない、今は生徒会活動中だというのに少し呆けてしまっていた。
手元の書類を確認していたというのに、文を読んでいる間に意識が眠気に引かれていたようだ。
ジークは訝しげに私を見るが、まさか話を寝ていて聞いていなかったと悟らせまいように少し笑みを向けて誤魔化す。
「いや何、君がこの前懸念していた男爵令嬢についての話だ。 ここ数日行動を共にしていたが、市井で平民として暮らしていたからか少し謙虚過ぎるくらいのもので、問題行動を起こすでもなく真面目な子だよ………それにしてもあの子に何か気になる事でもあるのか? 以前から気にしているようだが」
「いえ、特には。 どうしてでしょうか?」
「いや……こう言っては失礼だが、以前までの君なら他の生徒の事など気にも留めなかっただろう? 確かに目立つ点の多い転入生だが、それでもそこまで気にしているのは珍しい気がしてね」
確かに、ジークの事を中心に物事を考えていた1番最初ならばそうだっただろう。
けれど、今に至っては私にとって重要な情報だ。 私の生殺与奪がかかっていると言っても過言ではない。
もっとも、それをジークに話すわけにはいかないので前々から用意していた理由を話す。
「かの令嬢は、先程会長も仰ったように最近まで市井で平民として暮らしていたと私も聞いております。 そのような者がこの格式高いエイリーン学園に通うことになるのであればいらぬ反発も生まれましょう。 私は、学園の風紀の不協和と成り得るかと気にしているだけです」
プライドの高い一部の貴族至上主義の貴族令息令嬢らからすれば、自らの領域に元平民の、それも男爵とメイドとの間に生まれたという不義の子が入ってくるのだ。 そんなものと同列に扱われたくないと反発も生まれるだろう。
いくら実力主義のエイリーン学園であろうとも、そうした者達によって賤しい存在だと社交界で磨かれた陰湿な攻撃の的になりかねない。
「それは、彼女が元平民だからと差別しての事か? エリーナ嬢は、そのように思っていると?」
「私がどうというわけではありません。 あくまで、客観的に分析してそういった反感を持つ者がいてもおかしくはないというだけの話です。民を守るべき貴族が、今は同じ貴族とはいえ守るべきであった存在に手を下すのであれば、我々貴族の矜持に関わります。 貴族が民を虐げる、そのような事象は見過ごすわけにはいきませんから。 まだ学園の中だけでの話だからこそ、風紀の乱れとして取り締まるべきだと、私は考えています」
言いながら、私はどの口が言うかと胸の内で自嘲した。
これまでジークばかりを追いかけて、得られもしない愛を求めてばかりだった。 さっきジークが言った事も、なんら間違ってなどいない。
事実として私は、他を顧みる事などしてこなかったのだから。 興味の無いものを意識から切り捨てて、見てすらいなかった。
盲目なまでの愛への妄執でもって、最後には破滅したのだ。
何度も、破滅してきたのだ。
だから、今世では何を目的として生きていくのか定められていない私だけれど、これまで踏みにじってきた貴族の矜持くらいは守りたい。 例えそれが、薄汚い私の贖罪と成り下がろうとも。
「転入生の御令嬢についてもです。 ここは多くの貴族が通う由緒ある学園であり、市井にいた頃と同じような振る舞いは控えてもらわなければなりません。 もっとも、学園に来てまだ1週間程度ですし、そちらに関してはこれからの成長に期待するほかありませんが」
もっとも、普通の令嬢が幼少期から何年もかけて学び、身に付ける淑女教育だ。 毎日多くを学び、本人の努力と基本水準程度の教育環境を整えて、学園を卒業するまでの2年間で身に付けば上等くらいのものだが。
「それはそうだな。 ……そうだ、エリーナ嬢が彼女に指導してやってくれないか?」
「……私が、ですか?」
「ああ、君なら幼い頃から公爵令嬢として高度な教育を受け、また高い教養もある。 適任だと思うが」
「それは……申し訳ございません、会長。 私は最近家の事情で忙しく、また副会長としての責務もあるため時間がとれません」
家の事情とは言わずもがな、父曰く私の『力量の見極め』として任された領地管理の仕事である。 それだけならばまだ余裕はあるが、同時にエルマ達のために教材を作らなくてはいけないのだ。
今でさえ睡眠時間を削ってまでその両方に着手して、そこに繁忙期の生徒会の仕事や学業の予習復習までこなしているのだから、令嬢1人の指導のためだけに時間など割いていられない。
罪の意識は間違いなくあるし、事ある毎に贖罪代わりに面倒ごとにも着手してきたが、別に私はワーカホリックというわけではない。 むしろ、できる事なら誰も知らない場所に逃げてしまいたいくらいだ。
それに個人的にも、あの令嬢にはなるべく関わり合いになりたくない。 自らの罪と真正面から見つめ合うどころか隣を歩いて話までしなければならないなど、ストレスで胃に穴が開いてしまう。
「そうか、それは仕方がない。 まあ、君が生徒会の仕事以外にも頑張っている事は確かなようだし、仕方がないね……ただ、少し看過できないかな」
そう言ってジークは、なぜか私を見つめて、自らの顔の目元を指差した。
「目元に隈ができている。 化粧で上手く誤魔化しているみたいだが、近くで見ればよくわかる。 最近、満足に睡眠がとれていないのではないか? 先週休暇をやったというのに、また君は無理をしているのではないか?」
半眼で睨まれて指摘され、私は曖昧に微笑んで誤魔化す事にした。 まったく、目敏い会長様である。
今日1日、誰一人としてそんな事に気付く者などいなかったというのに。
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