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5度目の世界で
欺瞞と楽園
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学園のある日は、生徒会の仕事を処理するために早朝から屋敷を出ている私の朝は早い。
いくら内情が腐れていようとも、部外者から見れば私はユースクリフ家の令嬢であるため身形をきちんと整えて外面を完璧に仕立てなければならない。 少しでもその品位を下げることを許されないのだから、一歩私室を出ればただ廊下を歩くその振る舞いでさえも一級品の仕草を要求される。
そうして気を張りながら廊下を歩く間、特別早起きな習慣があるというわけでもないユースクリフ邸では、私と直接関係のない屋敷で働く使用人達がその勤めを果たすため働いているところにすれ違うくらいで、父と義母と義弟には顔を合わせることもない。
しかし、今朝は少々イレギュラーが発生し、向かいから義弟が歩いてくるのが見えた。
長い廊下で私と少し距離が開いた位置にいるというのに、私を見つけた時の嫌悪の表情がよく見てとれた。
あれだけ表情で分かりやすいのはユースクリフ家次期当主としてどうかと思うのだけれど……それとも外ではまた違うのだろうか?
私は気にすることも特別有りはしないので、嫌悪感丸出しで睨む義弟など構わないで先を急ぐ。 これでも忙しい身であるので、意味不明な癇癪を起こしているとしか取れない義弟など気にしていては埒があかない。
「おはよう、マルコ。 今朝は早いのね」
一応は、最低限の礼儀として朝の挨拶をしておく。
しかしその私に義弟、マルコ・ラナ・ユースクリフは余計に眉を顰めて不機嫌そうに口元をゆがめた。
「おはようございます。 ……また、こんなにも早くから生徒会に行かれるのですか。 そこまでして殿下に取り入りたいですか」
マルコは、公爵家次期当主として父の指示によってジークとの親交を深めている。 忠誠心はライアス程ではないにせよ強いらしく、ジークに擦り寄ろうとする私をよく追い返していた。
ジーク、ライアスに並ぶほどの容姿は他の令嬢らからすれば憧れの的なのだが、過去の私はそれが妬ましくて仕方がなかったのをよく覚えている。
父譲りの茶髪に義母譲りの金の瞳。 綺麗ながらもどこか剣呑な雰囲気を漂わせる父の容姿に義母の柔らかで丸い雰囲気の瞳が程よく合わさって綺麗で接しやすい雰囲気の美青年。
それがマルコであり、愛し合う父と義母の愛の結晶で、だからこそあの2人に愛されるべき家族なのだろう。
私も、マルコのように父の容姿を少しでも受け継いでいればと妬んだことは、もう昔の話だ。
「朝から穏やかではないわね。 取り入るだなんて……貴方もわかるでしょう? 私が、殿下の御心を頂けると思う? 無理でしょう。 そんなくだらない理由ではなくて、本当に仕事が山のようにあるの。 だから、いくら義弟とはいえこんなくだらない事ならば話している時間すら惜しいの………もういいわ、退いてくれる?」
「そんな言葉に、僕が騙されるわけがないでしょう。 また何か企んでいるならば今すぐにでも」
そう言ってマルコは私の腕を乱暴に掴む。 そういえば、彼は元々が荒い性格で、父の教育によってある程度は改善されたものの、やはり地の性格はそう簡単に直せるものではないらしい。
その手には一切の加減がされていないのか、鈍い痛みが走ったが、そこまで気にするものではない。
だけれど、たとえ私が気にしなくともマルコの今の振る舞いは、よろしくない。
「なあに? 婦女子に暴力を振るうだなんて、紳士として恥ずべきことよ。 貴方はこのユースクリフ公爵家の一員であり次期当主。 だったら、それ相応の振る舞いをなさい。 ……貴方は、公爵様にも貴方のお母様にも信頼されているのだから、それを裏切っては駄目よ」
一方的に言いきって、私はマルコに掴まれていた手を振り切り、そのまま逃げるように馬車に乗り込んで、御者にいつものパン屋まで向かうように指示を出す。
馬車の中では先ほどマルコに言われた言葉が延々とリフレインしていた。
ジークに取り入る、ね………
確かに、この世界の一昨日までの私ならば、そういう見方をされて然るべき行動をとっていた。 けれど、私は、あの時の私ではない。
知ったのだ、あるべき未来を。
理解したのだ、自らが愛されない現実を。
だから、マルコが言うようにジークに取り入ろうだなんて、そんな事はしない。
やがて王都に入ると、朝からマルコにあれだけ言われて曇っていた気分も、パン屋に並ぶ焼きたてのパンの香りとともにいつの間にか忘れていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
朝の生徒会室での一時は、数少ない私の安らぎの時間となっていた。
しかし同時に、あと少しで始業を告げる鐘の音が響く時の憂鬱がいつまでも拭えない。 ようは、1人でいる時間が好きなのと同時に人と交流することが嫌なのだ。
公爵令嬢としては、本来ならクラスメイトになる他家の令息令嬢らとの繋がりも作っておくべきで、それを上手く家のために利用すべきものだろう。
けれど、今の私には難しい話だ。
常に私を取り巻いていた令嬢らには縁を切られ、令息らとの繋がりはそもそも薄く、極めつけには私自身が人と関わり合いたくない。
それに最近では、私の様子がおかしいのはジークに振られたせいで落ち込んでいるから、などと憶測としてわからなくもないが到底有り得ない噂話が流れている。
そもそもジークは王太子で、その交友関係には慎重にならなければならない。 とりわけ、私のような公爵令嬢、そしてそのバックに居る公爵家との関係などは後ろ盾として至極重要であり、その関係を断ち切ってしまう恐れのある行動など易々ととることなど、少なくともジークが陛下の後を継いで国王となるまでは有り得ないだろう。
それに、ジークを避けているのは私の方なのだ。 振る振らない以前に、そもそも話が振られたなんていうところまで進んでいない。
とはいえ、噂を信じて遠巻きに面白いものを見ているような気分なのであろう者らが、決して自分から私に近付かずにいるのはとてもありがたい。
放課後の茶会も、行きたくもないショッピングに誘われるのも、どうでもいい噂話に花を咲かせて嘘笑いをするのも、もう疲れた。
朝早く、そして授業の小休止と昼休みに生徒会の仕事をこなし、できた分をジークの机に放り出して、私は放課後の空いた時間にはあの教会に通っていた。
学園は朝早くでもなければどこへ行っても人がいるし、家に帰れば居場所は自室のみで、そこも安心しきれる場所ではない。
教会ならば静かだし、人が居たとしても老人か信心深いのかずっとお祈りしている人くらいのものだから、落ち着いて読書をしたり、ただぼーっとしているだけでも誰かに文句を言われたりもしない。
「おやラナさん、いらっしゃい」
この教会にもすっかりと常連になり、今では神父様とは顔馴染だ。
一応、身分などがバレてはいけないという自衛のためにミドルネームの『ラナ』を名乗っているが、それでも神様の御膝元たる教会ではきちんと名乗るべきだっただろうかと今更ながらに思う。
「はい、神父様。 ……あの。 私、度々ここに来てしまって御迷惑ではありませんか?」
「いえいえ、そんなことはありませんよラナさん。 ここは迷える子羊達の家であり、我等が神の見守る憩いの庭です。 それに、ラナさんのように信仰深くなくとも日々ここまで通い、自らの罪を懺悔して清らかたろうとするその敬虔さを、尊敬し、歓迎こそすれ許否するような真似をしよう筈がありませんよ」
「はい……ありがとう、ございます」
教会という公共の場。 そこに勤める神父様ならば、訪れる者に対して出入りの拒否なんて言える筈もない。
それでも、私は安らぎを与えてくれるこの場所に居てもいいと言ってもらえたことが、受け入れてもらえたことが嬉しかった。
ーーーああ、そうだとも。
私は、わかっている上で問うたのだ。
迷惑ではないか、と。
自らが、他者からすれば敬虔で模範的な信徒のようであるということもわかっている。 だって、そのように見えるよう振舞っているのだから。
神様に懺悔する事柄に一切の嘘偽りは無い。
けれど、その悪辣さを知る者は神様と私だけで、神父様でさえこの身の罪業の何一つも知らない。
エリーナ・ラナ・ユースクリフという悪女の罪業は人知れず、ただ私を満たし、そうして人々を欺くための仮面の材料となった。
敬虔で模範的な信徒の乙女を模った仮面は、それはもう多くの人々を騙した。
例えば、神父様。
足繁く教会に通い、熱心に懺悔し、休日の殆どを教会内で過ごすことを退屈と言わず心が安らぐと言えば感心される。
例えば、熱心な信徒の方。
ただ祈りを捧げるだけの自分と違い、その身の罪を全て吐き出して信徒として相応しい姿となろうとするその清らかさと、その身の穢れを認めて受け入れ、全てを曝け出して穢れ無き魂で在ろうとするその姿勢こそ、我々が見習うべき信徒の姿だと褒められた。
例えば、週に一度だけ祈りに来るご老人方。
若いのに熱心で素晴らしい。 うちの孫娘にも貴女ほどではなくともほんの少しでもこの婆と祈りに来てくれたらねぇ、と感心の言葉をかけられた。
一月に一度行われるという教会内の大掃除やバザーでの奉仕活動にも精を出した。
手伝いに参加する事を褒められては、まるで心の隙間を埋めるように、また貪欲に奉仕を繰り返した。
今まで空っぽだった心が埋まっていくのを感じていた。 皆が私のことをまるで聖女のように尊敬し、温かい言葉を送ってくれることに充足感があった。
でも、それと同時に罪悪感もまた心の底に沈殿していった。
本当の私は皆が思うような人間じゃない。
聖女なんかでは、断じてない。
もっと穢れていて、罪深くて、そしてとても打算的で欲に満ちている。
心の隙間を埋めたいから、安心できる居場所が欲しいから、皆に褒めてほしいから、だからそうしてもらえる私を演じて、そうして罪悪感を募らせて、私はまた神様に懺悔する。
その懺悔の姿は敬虔で模範的な乙女を皆に見せ、聖女だと崇めさせ、そしてまた私は罪悪感を募らせる。
悪循環だ。
けれど、私はその沼から抜け出せない。
だって、だってそれほどにここが ーーー
「ラナちゃん。 どうしたの? ずいぶん顔色がよくないわよ」
その声にハッとして、意識が現実へと戻る。
罪悪感から深く考え込んでいた私の顔を、お祈りのついでにいつもお話をしに来てくれるご老人、ケリーさんが心配そうに覗き込んでいる。
「いつもどこか辛そうな顔をしているのに、今日は一段と辛そうよ。 ……ラナちゃん、どうか神様だけでなくて、この婆にもその悩みを話してみない? きっと、心が軽くなるわ」
「い、いいえ! 大丈夫です、私。 今日はちょっと疲れちゃって、ボーッとしちゃって。 心配をかけてしまってごめんなさい」
「そう? ラナちゃんったら、無理しちゃダメよ。 ……それにしても、ラナちゃんは笑わないわね。 笑ったらきっと、すごく可愛いと思うのに」
「あっ……えと。 ごめんなさいケリーさん。私、笑顔が苦手で………不愉快な思いをさせてしまっていたのなら、ごめんなさい」
「あら違うわ。 ラナちゃんったらいつもムスッとしてて、でも怒ってたり機嫌が悪いわけじゃないってわかっているわ。だけど、笑わないのは損よ。 幸せが逃げてしまうもの。 ほら、笑っているのが一番よ」
「笑ってるのが、一番………笑顔、笑顔………こう、こうかしら……? どうかしら、ケリーさん。 私、上手く笑顔になれている?」
口角を上げて、記憶にある通りの笑顔を作ってみる。 社交の場で作り笑顔を浮かべる事には慣れているはずなのに、ここでは何故だか上手くできなかった。
鏡がないとどんな顔をしているか分からないけど、多分、今の私はすごく歪な笑顔っぽい表情を浮かべていることだろう。
事実ケリーさんも少し反応に困ったようにしているし。 どうしたものか。
そう考え込んでいると、ケリーさんは私のほっぺを摘んで、むにむにと揉んできた。
「う~ん、もう少し口元を柔らかに、自然にこう」
ケリーさんは私のほっぺをそのまま上にグイと引き上げる。 それが痛くて、私はやめてくださいとジェスチャーする。
ケリーさんもそれがわかってくれたようで、すぐに手を離してくれた。
「いひゃい………ケリーさん、急にほっぺを引っ張らないでください」
今回は自覚的にムスッとした表情で不満を訴えた。
するとケリーさんは「そうやって気持ちが顔に出せるくらいがちょうどいい」と笑った。
ーーーああ、やっぱり居心地がいい。
たとえ罪深いこの身が、さらに罪に塗れることになっても、私はこの沼から抜け出せはしないだろう。
だってここは、とても居心地のいい、私の楽園なのだから。
いくら内情が腐れていようとも、部外者から見れば私はユースクリフ家の令嬢であるため身形をきちんと整えて外面を完璧に仕立てなければならない。 少しでもその品位を下げることを許されないのだから、一歩私室を出ればただ廊下を歩くその振る舞いでさえも一級品の仕草を要求される。
そうして気を張りながら廊下を歩く間、特別早起きな習慣があるというわけでもないユースクリフ邸では、私と直接関係のない屋敷で働く使用人達がその勤めを果たすため働いているところにすれ違うくらいで、父と義母と義弟には顔を合わせることもない。
しかし、今朝は少々イレギュラーが発生し、向かいから義弟が歩いてくるのが見えた。
長い廊下で私と少し距離が開いた位置にいるというのに、私を見つけた時の嫌悪の表情がよく見てとれた。
あれだけ表情で分かりやすいのはユースクリフ家次期当主としてどうかと思うのだけれど……それとも外ではまた違うのだろうか?
私は気にすることも特別有りはしないので、嫌悪感丸出しで睨む義弟など構わないで先を急ぐ。 これでも忙しい身であるので、意味不明な癇癪を起こしているとしか取れない義弟など気にしていては埒があかない。
「おはよう、マルコ。 今朝は早いのね」
一応は、最低限の礼儀として朝の挨拶をしておく。
しかしその私に義弟、マルコ・ラナ・ユースクリフは余計に眉を顰めて不機嫌そうに口元をゆがめた。
「おはようございます。 ……また、こんなにも早くから生徒会に行かれるのですか。 そこまでして殿下に取り入りたいですか」
マルコは、公爵家次期当主として父の指示によってジークとの親交を深めている。 忠誠心はライアス程ではないにせよ強いらしく、ジークに擦り寄ろうとする私をよく追い返していた。
ジーク、ライアスに並ぶほどの容姿は他の令嬢らからすれば憧れの的なのだが、過去の私はそれが妬ましくて仕方がなかったのをよく覚えている。
父譲りの茶髪に義母譲りの金の瞳。 綺麗ながらもどこか剣呑な雰囲気を漂わせる父の容姿に義母の柔らかで丸い雰囲気の瞳が程よく合わさって綺麗で接しやすい雰囲気の美青年。
それがマルコであり、愛し合う父と義母の愛の結晶で、だからこそあの2人に愛されるべき家族なのだろう。
私も、マルコのように父の容姿を少しでも受け継いでいればと妬んだことは、もう昔の話だ。
「朝から穏やかではないわね。 取り入るだなんて……貴方もわかるでしょう? 私が、殿下の御心を頂けると思う? 無理でしょう。 そんなくだらない理由ではなくて、本当に仕事が山のようにあるの。 だから、いくら義弟とはいえこんなくだらない事ならば話している時間すら惜しいの………もういいわ、退いてくれる?」
「そんな言葉に、僕が騙されるわけがないでしょう。 また何か企んでいるならば今すぐにでも」
そう言ってマルコは私の腕を乱暴に掴む。 そういえば、彼は元々が荒い性格で、父の教育によってある程度は改善されたものの、やはり地の性格はそう簡単に直せるものではないらしい。
その手には一切の加減がされていないのか、鈍い痛みが走ったが、そこまで気にするものではない。
だけれど、たとえ私が気にしなくともマルコの今の振る舞いは、よろしくない。
「なあに? 婦女子に暴力を振るうだなんて、紳士として恥ずべきことよ。 貴方はこのユースクリフ公爵家の一員であり次期当主。 だったら、それ相応の振る舞いをなさい。 ……貴方は、公爵様にも貴方のお母様にも信頼されているのだから、それを裏切っては駄目よ」
一方的に言いきって、私はマルコに掴まれていた手を振り切り、そのまま逃げるように馬車に乗り込んで、御者にいつものパン屋まで向かうように指示を出す。
馬車の中では先ほどマルコに言われた言葉が延々とリフレインしていた。
ジークに取り入る、ね………
確かに、この世界の一昨日までの私ならば、そういう見方をされて然るべき行動をとっていた。 けれど、私は、あの時の私ではない。
知ったのだ、あるべき未来を。
理解したのだ、自らが愛されない現実を。
だから、マルコが言うようにジークに取り入ろうだなんて、そんな事はしない。
やがて王都に入ると、朝からマルコにあれだけ言われて曇っていた気分も、パン屋に並ぶ焼きたてのパンの香りとともにいつの間にか忘れていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
朝の生徒会室での一時は、数少ない私の安らぎの時間となっていた。
しかし同時に、あと少しで始業を告げる鐘の音が響く時の憂鬱がいつまでも拭えない。 ようは、1人でいる時間が好きなのと同時に人と交流することが嫌なのだ。
公爵令嬢としては、本来ならクラスメイトになる他家の令息令嬢らとの繋がりも作っておくべきで、それを上手く家のために利用すべきものだろう。
けれど、今の私には難しい話だ。
常に私を取り巻いていた令嬢らには縁を切られ、令息らとの繋がりはそもそも薄く、極めつけには私自身が人と関わり合いたくない。
それに最近では、私の様子がおかしいのはジークに振られたせいで落ち込んでいるから、などと憶測としてわからなくもないが到底有り得ない噂話が流れている。
そもそもジークは王太子で、その交友関係には慎重にならなければならない。 とりわけ、私のような公爵令嬢、そしてそのバックに居る公爵家との関係などは後ろ盾として至極重要であり、その関係を断ち切ってしまう恐れのある行動など易々ととることなど、少なくともジークが陛下の後を継いで国王となるまでは有り得ないだろう。
それに、ジークを避けているのは私の方なのだ。 振る振らない以前に、そもそも話が振られたなんていうところまで進んでいない。
とはいえ、噂を信じて遠巻きに面白いものを見ているような気分なのであろう者らが、決して自分から私に近付かずにいるのはとてもありがたい。
放課後の茶会も、行きたくもないショッピングに誘われるのも、どうでもいい噂話に花を咲かせて嘘笑いをするのも、もう疲れた。
朝早く、そして授業の小休止と昼休みに生徒会の仕事をこなし、できた分をジークの机に放り出して、私は放課後の空いた時間にはあの教会に通っていた。
学園は朝早くでもなければどこへ行っても人がいるし、家に帰れば居場所は自室のみで、そこも安心しきれる場所ではない。
教会ならば静かだし、人が居たとしても老人か信心深いのかずっとお祈りしている人くらいのものだから、落ち着いて読書をしたり、ただぼーっとしているだけでも誰かに文句を言われたりもしない。
「おやラナさん、いらっしゃい」
この教会にもすっかりと常連になり、今では神父様とは顔馴染だ。
一応、身分などがバレてはいけないという自衛のためにミドルネームの『ラナ』を名乗っているが、それでも神様の御膝元たる教会ではきちんと名乗るべきだっただろうかと今更ながらに思う。
「はい、神父様。 ……あの。 私、度々ここに来てしまって御迷惑ではありませんか?」
「いえいえ、そんなことはありませんよラナさん。 ここは迷える子羊達の家であり、我等が神の見守る憩いの庭です。 それに、ラナさんのように信仰深くなくとも日々ここまで通い、自らの罪を懺悔して清らかたろうとするその敬虔さを、尊敬し、歓迎こそすれ許否するような真似をしよう筈がありませんよ」
「はい……ありがとう、ございます」
教会という公共の場。 そこに勤める神父様ならば、訪れる者に対して出入りの拒否なんて言える筈もない。
それでも、私は安らぎを与えてくれるこの場所に居てもいいと言ってもらえたことが、受け入れてもらえたことが嬉しかった。
ーーーああ、そうだとも。
私は、わかっている上で問うたのだ。
迷惑ではないか、と。
自らが、他者からすれば敬虔で模範的な信徒のようであるということもわかっている。 だって、そのように見えるよう振舞っているのだから。
神様に懺悔する事柄に一切の嘘偽りは無い。
けれど、その悪辣さを知る者は神様と私だけで、神父様でさえこの身の罪業の何一つも知らない。
エリーナ・ラナ・ユースクリフという悪女の罪業は人知れず、ただ私を満たし、そうして人々を欺くための仮面の材料となった。
敬虔で模範的な信徒の乙女を模った仮面は、それはもう多くの人々を騙した。
例えば、神父様。
足繁く教会に通い、熱心に懺悔し、休日の殆どを教会内で過ごすことを退屈と言わず心が安らぐと言えば感心される。
例えば、熱心な信徒の方。
ただ祈りを捧げるだけの自分と違い、その身の罪を全て吐き出して信徒として相応しい姿となろうとするその清らかさと、その身の穢れを認めて受け入れ、全てを曝け出して穢れ無き魂で在ろうとするその姿勢こそ、我々が見習うべき信徒の姿だと褒められた。
例えば、週に一度だけ祈りに来るご老人方。
若いのに熱心で素晴らしい。 うちの孫娘にも貴女ほどではなくともほんの少しでもこの婆と祈りに来てくれたらねぇ、と感心の言葉をかけられた。
一月に一度行われるという教会内の大掃除やバザーでの奉仕活動にも精を出した。
手伝いに参加する事を褒められては、まるで心の隙間を埋めるように、また貪欲に奉仕を繰り返した。
今まで空っぽだった心が埋まっていくのを感じていた。 皆が私のことをまるで聖女のように尊敬し、温かい言葉を送ってくれることに充足感があった。
でも、それと同時に罪悪感もまた心の底に沈殿していった。
本当の私は皆が思うような人間じゃない。
聖女なんかでは、断じてない。
もっと穢れていて、罪深くて、そしてとても打算的で欲に満ちている。
心の隙間を埋めたいから、安心できる居場所が欲しいから、皆に褒めてほしいから、だからそうしてもらえる私を演じて、そうして罪悪感を募らせて、私はまた神様に懺悔する。
その懺悔の姿は敬虔で模範的な乙女を皆に見せ、聖女だと崇めさせ、そしてまた私は罪悪感を募らせる。
悪循環だ。
けれど、私はその沼から抜け出せない。
だって、だってそれほどにここが ーーー
「ラナちゃん。 どうしたの? ずいぶん顔色がよくないわよ」
その声にハッとして、意識が現実へと戻る。
罪悪感から深く考え込んでいた私の顔を、お祈りのついでにいつもお話をしに来てくれるご老人、ケリーさんが心配そうに覗き込んでいる。
「いつもどこか辛そうな顔をしているのに、今日は一段と辛そうよ。 ……ラナちゃん、どうか神様だけでなくて、この婆にもその悩みを話してみない? きっと、心が軽くなるわ」
「い、いいえ! 大丈夫です、私。 今日はちょっと疲れちゃって、ボーッとしちゃって。 心配をかけてしまってごめんなさい」
「そう? ラナちゃんったら、無理しちゃダメよ。 ……それにしても、ラナちゃんは笑わないわね。 笑ったらきっと、すごく可愛いと思うのに」
「あっ……えと。 ごめんなさいケリーさん。私、笑顔が苦手で………不愉快な思いをさせてしまっていたのなら、ごめんなさい」
「あら違うわ。 ラナちゃんったらいつもムスッとしてて、でも怒ってたり機嫌が悪いわけじゃないってわかっているわ。だけど、笑わないのは損よ。 幸せが逃げてしまうもの。 ほら、笑っているのが一番よ」
「笑ってるのが、一番………笑顔、笑顔………こう、こうかしら……? どうかしら、ケリーさん。 私、上手く笑顔になれている?」
口角を上げて、記憶にある通りの笑顔を作ってみる。 社交の場で作り笑顔を浮かべる事には慣れているはずなのに、ここでは何故だか上手くできなかった。
鏡がないとどんな顔をしているか分からないけど、多分、今の私はすごく歪な笑顔っぽい表情を浮かべていることだろう。
事実ケリーさんも少し反応に困ったようにしているし。 どうしたものか。
そう考え込んでいると、ケリーさんは私のほっぺを摘んで、むにむにと揉んできた。
「う~ん、もう少し口元を柔らかに、自然にこう」
ケリーさんは私のほっぺをそのまま上にグイと引き上げる。 それが痛くて、私はやめてくださいとジェスチャーする。
ケリーさんもそれがわかってくれたようで、すぐに手を離してくれた。
「いひゃい………ケリーさん、急にほっぺを引っ張らないでください」
今回は自覚的にムスッとした表情で不満を訴えた。
するとケリーさんは「そうやって気持ちが顔に出せるくらいがちょうどいい」と笑った。
ーーーああ、やっぱり居心地がいい。
たとえ罪深いこの身が、さらに罪に塗れることになっても、私はこの沼から抜け出せはしないだろう。
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gacchi
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