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不機嫌なカノン
しおりを挟む昼食後に紅茶を飲みながら報道番組を見ていたカミラは、「なんてことを……」と漏らしてティーカップを乱暴に皿に戻した。
番組で報じられた内容によると、六十代の女がこぶし大の石を振り上げて、見知らぬ五歳男児の頭を殴ろうとしたという。それに気づいた母親が大声で助けを求め、近くを歩いていた別の男性たちともみ合いになった結果、近くでスケボーに乗っていた男児が巻き添えで突き飛ばされて路上を転がり、通りがかったスクーターに運悪く轢かれて大怪我を負った、とのことである。女は駆けつけた警官たちによって逮捕された。
その女は元小学校教師で、最後は校長も務めた地元のちょっとした名士だった。犯行について認否は明らかにされておらず、警察は動機などを調べている。
カミラは舌打ちをして、「教育者の恥だわ、こんな女は」と吐き捨てた。
カミラ自身も元小学校の教師で、最後には校長を務めている。逮捕された女とは年齢も近い。それだけに、自分自身の人生までもが否定されたような気分にかられ、なんてことをしてくれたのだと、頭に血が昇った。
この女はきっと、サイコパスなのだ。職業柄、児童心理学を学んだ過程でパーソナリティー障害についてははそれなりに勉強してきたので、カミラには判る。
パーソナリティー障害にはさまざまな分類があるのだが、中でも反社会性パーソナリティーと称されるグループがサイコパスである。特徴としては、自己中心的だったり虚言癖があったり他人を操ろうとしたりといった項目が挙げられるが、最も典型的なのは、良心の欠如である。サイコパスは他人の心の痛みを想像できず、平気で残酷な発言や行動を取ることができるのである。
もっとも、サイコパスだというだけで危険人物だと決めつけることはできない。ドラマや映画などでは〔サイコパス=猟奇殺人者〕的な偏見がまかり通っているが、実際には数十人に一人ぐらいの割合でサイコパスは存在しているし、程度の差もあり、ほとんどのサイコパスは犯罪者ではない。むしろサイコパスは知能指数が高いケースが多く、学者、医者、会社経営者、弁護士、教育者などにもたくさんいるとされている。彼らは良心が欠如し、他人の心の痛みが判らないことは確かだが、地頭はいいので、他人を殺したり傷つけたりしたら逮捕されて刑務所に入ることになる、という社会のルールは明確に理解しているので、かえって犯罪とは遠いところにいるともいえるのだ。
この六十代の女もきっと頭はいいんだわ、校長にもなったぐらいだから――カミラはそう思った。しかし、なまじ頭がいいだけに、学術的な興味がいったん湧いたら、好奇心を止めることが難しくなることがある。
足もとに手頃な大きさの石が落ちていた。つかんでみると扱いやすい重さと感触。そのタイミングですぐ近くに無防備で生意気な男児が現れた。その男児が、彼女に非礼な言動を取ったとしたら……。
この石で、自分の力で、男児の頭を一撃して仕留めることはできるだろうか――彼女はその好奇心と衝動が抑えられなくなったのではないか。医学者や薬学者がモルモットを使って実験をするときに、いちいち心を痛めたりはしない。むしろ興味の方が上回っている。それと同じことが起きたのではないか。
カミラは、二十代のときに同じ職場の男性教師と結婚し息子と娘を一人ずつもうけたが、性格の不一致により数年で離婚し、その後はシングルマザーとして子どもたちを育て、教師としても真面目に働いてきた。夫婦関係が上手くいかなかった分、子どもたちを立派な大人に育てなければと思い、曲がりなりにもそれは達成できたという自負がある。
だからこそ、元教育者で同年代の女が、こんな怖ろしい事件を起こしたということが許せなかった。
だが、こんな事件に怒りを覚えたところで世界が変わることはない。怖ろしい犯罪をやらかした女がたまたま自分と同年代で、経歴が似ていたというだけのことだ。
カミラは気を取り直して、自転車に乗って買い物に出かけることにした。嫌な気分を拭い去るために、今夜は好物のローストビーフでも作るとしよう。
公園の前を通りがかったとき、五歳ぐらいの男の子がしゃがみ込んで、両手で持った石で地面を叩いていた。
何をしているのかと思い、カミラはブレーキをかけて停まった。
男の子は、その石の下にいたと思われる、ダンゴムシやハサミムシを潰していた。笑みまで浮かべて。身体の半分を潰されたハサミムシは苦しそうにのたくっていた。
こういう子どもがやがて危険なサイコパスに成長するのだ――カミラはそう思った。最初は小さな虫を殺し、それがもっと大きな虫やトカゲなどの小動物になり、さらには野良ネコやキジバトをボウガンで撃ったりするようになるのだ。そこまでいくと、人を殺してみたいという衝動を抑えられなくなってしまう……。
教育者として見過ごすわけにはいかなかった。社会のサイコパス化を止めなければ。
少し離れたところに母親と思われる若い女がいて、あさっての方を向いてスマホで誰かと話をしていた。カミラが「ちょっと、お母さん」と声をかけても、若い母親は相手との話に夢中で、全く耳に届いていないようだった。
仕方がない。カミラは自転車から降りてスタンドを立て、男児に歩み寄った。
「ぼく、そんなことしたら駄目でしょ。小さな虫にでも命はあるのよ。ぼくがもし虫だったら、そんなことされたら怖いし苦しいでしょう」
男児は石で虫たちを潰す手を止めないで「ぼく、虫じゃないもん」と言った。
「そういうこと言ってるんじゃないの。何も悪いことしてないのにどうして殺すの。そんなことするもんじゃないでしょう」
すると男児はいったん手を止めてカミラを見上げた。
「それって、あなたのただの感想ですよね」
カミラは一瞬、このガキめ、と手を上げたくなった。
「感想じゃないでしょ。命を粗末にしちゃダメだって言ってるの。こんなことをやってるとみんなに嫌われるわよ。友だちもいなくなるわよっ」
でも男児は手を止めなかった。それどころか、すぐ横にあった別の石もめくって、新たに見つけた虫たちを潰し始めた。
「やめなさいっって言ってるでしょ」
カミラは男児の手をつかんで止め、石を取り上げた。石の一部は、ぬるぬるとした虫の体液が付着して、奇妙な色の光り方をしていた。
石の奪い方がちょっと強かったようで、男児はそのまま尻餅をついて泣き出した。
「あなた、何してるのっ、うちの子にっ」
若い母親が血相を変えて怒鳴った。その声に反応して、辺りを歩いていた若い男性たちも立ち止まり、何ごとだ、という緊張感のある表情で迫って来た。
その男性の一人が「あっ、この女、石を持ってるぞっ」と叫んだ。
「ち、違います。この石は……」
「やめてっ、うちの子を殺さないでっ」と若い母親がわめいた。「警察、警察を呼んでっ」
男性の一人が「あんた、何てことをするんだっ、その石を捨てろっ」と怒鳴り、空手のような構えを見せてじりじりと距離を詰めて来た。
その騒ぎのせいで、さらに人々が集まってきた。まるで重犯罪者を見るかのような目、目、目。
「ち、違いますっ。私は何もしてませんっ」
カミラは石をその場に放り出して、自転車にまたがったが、複数の男たちが前を塞いで妨害した。「警察が来るまでここにいろっ」「地面に伏せろっ」などと怒号が飛んだ。
冗談じゃない。こんなところにいたら犯罪者に仕立て上げられてしまう。カミラは意を決して、自転車を押しながら目の前にいた男性二人の隙間を突破しようとした。
しかし男性たちはひるむことなく、ハンドルや荷台をつかんで止められた。まずい。
カミラは自転車を捨てて、猛然と走り出した。
次の瞬間、スケボーをに乗った男児が目の前に現れ、あっと思う間もなく衝突した。カミラはもんどり打って地面に転がり、ぶつかった男児はさらに遠くに転がった。
と、そこに通りがかったスクーターが転んだ男児に乗り上げた。男児は「ぐえっ」と踏み潰されたカエルみたいな声を発し、そのままぐったりとなった。
カミラは、自分のものとは思えない咆哮を上げて頭をかきむしりながら、路上をのたうち回った。
――数日後。紅茶を飲みながら報道番組を見ていたメラニアは、「なんてことを……」と漏らしてティーカップを乱暴に皿に戻した。
番組で報じられた内容によると、六十代の女がこぶし大の石を振り上げて、見知らぬ五歳男児の頭を殴ろうとしたという。それに気づいた母親が大声で助けを求め、近くを歩いていた別の男性たちともみ合いになった結果、近くでスケボーに乗っていた男児が巻き添えで突き飛ばされて路上を転がり、通りがかったスクーターに運悪く轢かれて大怪我を負った、とのことである。女は駆けつけた警官たちによって逮捕された。
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パーソナリティー障害にはさまざまな分類があるのだが……。
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