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マリオネットの女
しおりを挟むシティホテル最上階のレストランからは、湾内を行き交う大型船船が眺望できた。
窓際のテーブルで鴨肉料理と思われる昼食を終えた沢田ユウコは、紙ナプキンで口を拭い、アイスハーブティーのストローに口をつけた。彼女はもう還暦をとっくに過ぎているのに、無表情で色白の顔にはもシワらしきものが見当たらない。
離れた席でコーヒーを飲みながらその様子を窺っていた記者の四宮淳也は頃合いだと判断して席を立ち、ショルダーバッグを肩にかけ直して沢田ユウコに近づいた。
感情のこもらない顔で見返され、四宮は早くも少し気圧されたが、気持ちを持ち直して作り笑顔で「沢田ユウコさんですよね、催眠術師の」と声をかけた。
「催眠術師ではありません」沢田ユウコは切れ長の目で四宮を見返し、「私はメンタルトレーナーです」と訂正した。
「失礼しました」四宮は頭を下げて、名刺を差し出した。「週刊スリルという媒体で記事を書いている四宮淳也と申します。突然お声がけした無礼をどうかお許し下さい」
「私はそれほど気を遣われる身分の人間じゃありません。でも暇なわけでもないので、用件を簡潔におっしゃっていただけますか」
「ありがとうございます」四宮は、座っていいですかという言葉を省略し、沢田ユウコの斜め向かいの席に腰を下ろして、ショルダーバッグからタブレットPCを出した。
沢田ユウコが困惑の表情になったのを確かめつつ、四宮は「ちょっとご覧いただきたい動画がありまして」と、それを再生させた。
ちょうど一年前に、盛山義郎総理が先進国首脳会議のときに、各国首脳たちと壇上に並んだ直後、急に顔をゆがめて片手を後ろに回し、身体をそらせるようにしてつま先立ちの変な歩き方をし始めた、あの動画だった。盛山総理は何かをこらえるよえな表情で、隣にいたアメリカ大統領から何か話しかけられても返事ができず、今度は両手で腹を抱えて身体をくの字に折り曲げた。
何人かのSPと思われる男たちが盛山総理に駆け寄り、数人で抱えて退場するまで、ほんの十数秒の出来事だった。残された各国首脳は困惑した様子だったが、盛山総理の近くにいたアメリカ大統領、フランス大統領、イギリス首相などは、困惑というよりも苦虫をかみつぶしたような表情で何かを言い合っていた。
「何度か報道番組でやっていたのでこの動画は知っています」と沢田ユウコは言ってから、「でも、私に見せる意図は何ですか」と四宮を見返した。
「政府の発表によると、盛山総理は突然の腹痛に見舞われて退場したものの、すぐに回復したということでした。しかしマスコミは面白がって動画を分析し、盛山首相があの場でお漏らしをしたのではないかとの疑惑を抱きました。実際、盛山首相が担がれて運び出されるときに、スラックスの尻から腿の後ろにかけて、シミらしきものが見える。読唇術を使って近くにいたアメリカ大統領らの会話を調べた番組もあるんですよ。アメリカ大統領が、えらいことをやったくれたな、と言い、イギリス首相は、ひでえ匂いだなと応じてます。もちろん外交儀礼として、いずれの国もそのやり取りを式には認めてませんが」
「ですから、私になぜその動画を――」
「単刀直入にお伺いします」四宮は遮るようにして尋ねた。「沢田さん、あなたはその前日に、盛山総理に面会されてますね。保守系雑誌のミニ対談という名目で」
「ええ。先進国首脳会議に臨むに当たっての意気込みやお考えを伺いました」
「そのときに、催眠術をかけたのではありませんか?」
「さきほども言いましたが、私は催眠術師ではありません」
「失礼、メンタルトレーナーでしたね。でもあなたは催眠術の達人でもある。何しろ、あなたが暗示をかけた結果、多くの人々が高所恐怖症や閉所恐怖症、赤面症や神経性の腹痛などをあっさり克服してしまったんですからね。ある筋から得た情報ですが、あなたは他人に暗示をかける際、自白剤に類する特殊なガスを用いているのではないかという噂もあるようですね。催眠術にそういった薬物が加われば、鬼に金棒だ」
「…………」
「首脳会議のあの映像の直前に、ちょっとした出来事がありました。これです」
四宮はそう言って、さきほど見せた映像よりも十数秒遡ったところから始まるものを再生させた。笑みを浮かべながら並んでいる各国首脳と、少し距離を置いて向き合っているプレス記者たち。そして、記者たちの右後ろにいた、ホテルスタッフの制服を着た人物が、ジャンプして頭上で手を叩いた。途端になぜか盛山総理はうつろな目つきになったかと思うと、今度は顔をゆがめて苦しそうになったのである。
「後ろ姿なのでこのホテルスタッフの顔も確認できませんし、性別さえもはっきりしていない。しかも、ホテルに取材しても、これが誰なのかを確認する必要性を認めない、との返答でした。あの場面でジャンプして頭上で手を叩くという、奇妙な行動を取った人物がいるというのにですよ」
「盛山総理はたまたま急に腹痛に見舞われただけだと政府は発表してますよ。このスタッフの行動は何の関係もないでしょう」
「総理はその二ヶ月後、皇族を招いての植樹祭でも奇行を見せました。いよいよ式典が始まるというときに、再び顔をしかめて苦しそうになった後、よろよろと歩いて近くの池に飛び込んでしまった。関係者一同、唖然ですよ。盛山総理本人は、急にめまいがしてよろけて池に落ちてしまったと釈明しましたが、本当はこのときも腹痛と下痢に見舞われて、お漏らしをごまかすために自ら池に飛び込んだと私は見ています」
四宮はそう言って、その動画を再生させた。
「ほら、ここ。盛山総理が池に飛び込む直前に、参加者の後方にいた何者かがジャンプして頭上で手を叩きました。先進国首脳会議のときと同じです」
沢田ユウコは「面白い推論だけど、私には関係のないことです」と無表情に言った。
「盛山総理はこの一週間後、体調不良を理由に次期総裁選への不出馬を表明しました。おそらく、重要な局面で再び醜態をさらすことが怖くなったのでしょう」
「気の毒な話ね」
「盛山総理は女性蔑視発言や特定のオリンピック代表選手を小馬鹿にした発言などで、国内にとどまらず国際世論からも批判を浴びていました。日本は神の国だから財政破綻なんかしない、などという意味不明な発言をしたこともある。彼に引導を渡したい勢力はすくなからずある。ただし、できれば正面から争うのではなく、盛山総理本人さえも理解できないままにその目的を達したい。そして、それを実行できる人物が世界に一人だけいる。どれほどの金額かは想像もできないけれど、多額の報酬を払いさえすればね」
「奇妙な話はそろそろ終わりにしていただけます? この後、行くところがあるので」
「沢田さん、あなたなら催眠術を使って他人を腹痛や下痢の症状にさせることが可能ですよね。付け焼き刃の知識で恐縮ですが、腸という器官には、脳に次いでたくさんの神経が集まってるそうじゃないですか。つまり腸の具合というのは暗示の影響を受けやすい」
「面白い推論ですね。でも私にその話をなさるのはやはり筋違いですよ」沢田ユウコはハーブティーをストローで少し口に含んでから、「では私はこれで」と席を立とうとした。
「あ、なら最後に一つだけ。これを」
四宮はタブレットPCを操作して、別の映像を見せた。二年前の国際映画祭の授賞式で、人気司会者のフリッツ・ロッツォが、主演男優賞を獲得したフィル・シュミットと談笑していたところ、突然フィル・シュミットの表情が変わってフリッツ・ロッツォの顔に平手打ちを見舞ったという有名な場面だが、その直前、何者かが会場の前の方で席を立って頭上で手を叩いている。明らかに、催眠術が発動されるスイッチである。
「俳優のフィル・シュミットは最近、大物プロデューサーとの確執が取り沙汰されていました。詳細は判りませんが、大金が絡む深刻な対立があったようで」
それまで不愉快そうな態度を垣間見せていた沢田ユウコだったが、なぜか「面白い話をありがとう」と笑って握手を求めてきた。柔らかな手の感触。そして彼女に何かをささやかれたような気がした。だが、その奇妙な違和感は、ほんの一瞬の出来事だった。
我に返ったとき、彼女は「あなた、記事にするつもり?」と言った。
「ええ、さらに取材を重ねて、何とかしたいと思います。沢田ユウコさんから、そのことについてコメントをいただけるとありがたいのですが」
すると沢田ユウコは怪しげな微笑みを見せ、四宮の手を両手で包み込むようにして顔を近づけ、耳元に口を寄せて「あなたがもし、腹痛や下痢に見舞われたときは、こう唱えるといいわよ。ごめんなさい、すべて忘れます」とささやいた。
彼女の言ったことの意味が判ったのは、その十数分後、駅のホームに立って列車を待っていたときだった。近くで笑いながら話をしていた女子高生のグループの中から「ウケるー」という声と共に手を叩く音が聞こえた途端、四宮淳也は腹に異変を感じた。たちまちキュルルルと腸がねじれるような感覚に陥り、腹痛と下痢の症状に見舞われて、「ううっ……」とうめいて身体を折り曲げた。額に脂汗がにじみ、目がかすんだ。
これは警告、なのか……。そうだ、そうに違いない。
さきほどの会話中にいつの間にか、沢田ユウコから催眠術をかけられたのだ。誰かが手を叩くことをスイッチとして腹痛と下痢に見舞われるという催眠術を。
近くにいた女子高生たちが「そこの人、何か苦しそうじゃない?」「あのー、大丈夫ですか」「かかわらない方がよくね?」「でも、やばそうだよ」などと言い始めた。
そういえば、沢田ユウコは何か言っていなかったか? 何かを唱えればいいと。
記憶をたぐり、四宮はうめくように「ごめんなさい、すべて忘れます」と口にした。
すーっと腹痛が遠のいてゆく。四宮は大きく息を吐いて、身体を起こした。
世の中には、恐ろしい人間がいるものだ。四宮は、沢田ユウコという人間のことを知った興奮よりも、彼女に顔と名前を覚えられてしまったことの恐怖に震えながら、肩からずり落ちたショルダーバッグをかけ直した。
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