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そして桜だけが残った
しおりを挟む四年ほど前の秋、三十過ぎだったわたしは、勤めていたブラック会社に嫌気が差して辞め、知人の紹介によりホームセンターで働き始めることになり、二階建ての木造モルタル造りのアパートに引っ越しました。独り身で恋人もおらず、おカネもあまりありませんでした。まあそこは今も似たようなものなのですが。
そのアパートは、一階と二階にそれぞれ二世帯が入居する、いわゆるコーポというやつでした。築三年の建物はそこそこきれいで、勤務先にも近く、家賃も手頃だったので、ただ一つ空いていた一階の隅の部屋を借りることにしたのでした。間取りは1DKでした。駐車場の隅には立派な桜が一本あって、アパートの内見時に立ち会った不動産業者の男性によると、春先には毎年きいれな花を咲かせますよ、とのことでした。
住み始めてすぐに、ちょっとした異変に気づきました。夜中にアパート内で誰かが咳込んでいるようなのです。どちらかというと力無く、しかしどうしても発作を押さえられないといった感じの、つらそうな咳です。また、さらにかすかな音でしたが、ブザーが鳴っているように機械音もときどき聞こえました。
アパートの他の入居者にはもともと興味などありませんでしたから、どんな人たちなのかについて、全くといっていいほど知りませんでした。かろうじて隣の人だけは、引っ越した日にハンドタオルを持参してあいさつをした程度です。その隣人は単身赴任中だと自己紹介してくれた中年男性ですが、健康そうな人なので、咳に悩まされているようには見えません。それに、咳も、かすかなブザー音も、どうも隣室からという感じではないのです。かといって二階からでもなさそうだし、一階の他の部屋からでもない。表現が難しいのですが、物音の発生場所がぼやけている感じだったのです。
もしかして、仕事疲れのせいで幻聴のような感覚にとらわれるのではないか。私はそんな心配もしてみたのですが、夜中にいざ咳が聞こえると、いやそんなことはない、本当に聞こえているぞと思い直すのでした。咳もブザー音も、確かに耳に届いていたのです。
しかしながら、このときはちょっと奇妙だなと思うだけで、それ以上のことは特に考えませんでした。迷惑に感じるほどの騒音ではありませんでしたし、咳き込んでいる人のことを気の毒だなと思った程度でした。
そんなある日、出勤するときに隣の中年男性と玄関ドアの前で会いました。互いにあいさつしてから、中年男性は私にこう言ったのです。
「お宅、夜中に咳き込んでるみたいだけど、大丈夫?」
どうやら、その中年男性も咳が聞こえていたようです。私は、やはり幻聴などではなかったと少し安堵し、「それは私ではなく、他の住人ですよ」と答えました。すると中年男性は怪訝な顔になりました。
「いや、そんなはずないよ、薄いモルタルの壁だから。おたくの部屋からだったよ」
もちろん私は再度、自分ではないと言ったのですが、中年男性はどうも信じてくれないようでした。そして、「ちゃんと病院で診てもらった方がいいよ。放っておくと肺炎になるかもしれないし」とつけ加えたのでした。
そう言われた私は面白くありませんでしたが、その場は曖昧な態度でやり過ごしました。ただ、ここの住人の誰かが咳き込む発作の持ち主で、アパートの構造の関係で、隣の中年男性は私の部屋から聞こえているように錯覚したのだと、一応の解釈をしたのでした。
その日の深夜、消灯して布団に入ると、またもや咳き込む物音が聞こえてきました。毎度のことで既に馴れていた私は、もはや音の発生場所について推理を巡らせることもせず、その日の仕事中に商品を返品しにやって来たお客さんがレシートを持っていなかったせいで一悶着あった出来事を思い出し、もう少し柔らかい言い方を心がけるべきだったと反省しながら、眠りにつこうとしていました。
しかし、ドアを叩く音によって私は現実に引き戻されたのでした。明かりをつけ、「はい?」とドア越しに問い返すと「隣の者ですけど」との声です。
ドアを開けるとあの中年男性が「今、咳き込んでたでしょ。大丈夫?」と言いました。手には小さな箱が握られています。咳止め薬でした。
私は中年男性を部屋に入れました。いちいち説明するより実際にここで聞かせれば納得してもらえるはずだと思ったのです。
中年男性は不審げな態度で室内を見回していましたが、ほどなくして聞こえてきた咳によって、顔色を変えました。かすかにブザー音も聞こえます。
「本当だ。ここじゃない。どこなんだ?」
私が「どこなのかは判りません」と肩をすくめると、中年男性は、「今度は私の部屋から聞いてみてよ」と言い出しました。ついでだと思い、私は中年男性について行きました。
耳に神経を集中させてしばらく待つうちに聞こえてきた咳は、確かに私の部屋からのようだったので、さすがに背筋に冷たいものが走りました。中年男性は「まだ十一時だ。この際、上の階の人にも聞いてみよう」と提案し、一緒に階段を上りました。私一人だけならそんなことをする気になりませんが、中年男性の積極性に引っ張られる感じでついて行ったのでした。
私の部屋の真上に住んでいたのは、二十代ぐらいの若い女性でした。突然やって来た二人の男にかなり警戒している様子で、ドアにチェーンをかけたままの応対でしたが、咳の話になると息を飲んだような顔になりました。
「私の真下の部屋からいつも聞こえてくるんですけど……違うんですか」
私たちは半ばやけくそ気味に、残る一つの部屋のチャイムも鳴らしました。こんな時間にすみませんと詫びた上で事情を話すと、住んでいた初老の女性も咳やブザー音が聞こえていて、やはり私の部屋の方から聞こえていたというのです。
どの住人は咳などしていないことが判り、隣の中年男性は私に「不動産屋に言ってみた方がいいよ」と言いました。
翌日、このアパートを仲介した不動産業者に電話をしてみました。契約や家賃の引き落としなどの手続きはすべて不動産業者がしており、家主とは一面識もなかったので相談するのならこの業者以外にありません。
はあ? という反応を予想していましたが、意外なことに小さな声で「ちょっとお会いできませんか」と言われ、その日の夕方、指定された喫茶店で、営業課長補佐だという同年代の男性と面会しました。内見や解約のときにも対応した人です。
他言しないという約束で「実はですね――」とその課長補佐が切り出しました。
今のアパートが建つ前、その場所にはかなり年季の入った木造の借家が一軒あり、老女と息子夫婦が住んでいたといいます。老女は寝たきりで、肺炎をわずらっており、咳き込む発作を繰り返していました。そのたびに老女は枕元にあったブザーを鳴らして息子の妻、すなわち嫁を呼んで、薬を飲ませてもらっていたそうです。
そんな老女のささやかな楽しみが、春先になると庭にあった桜がきれいな花を咲かせてくれることでした。その時期になると毎日のように、嫁にささえてもらって庭に出て、パイプ椅子に腰掛けて何時間でも花見をしていたそうです。そして不思議なことに、桜の開花時期には咳がほとんど出なくなり、体調がよくなっていたといいます。
老女はその年の花見も心から楽しみにしていましたが、三月に入って急に体調が悪化し、桜の開花に間に合わず亡くなりました。病床で老女は苦しそうに咳き込みながら、花見をしたいと繰り返し口にいていた、とのことでした。
話はそれだけで終わりではありませんでした。その年の桜が散った頃に、以前から精神状態を病んでいた嫁が借家に放火し、全焼させてしまったのです。火災から免れたのは、庭にあった桜だけでした。
警察は一時期、放火容疑の他に殺人や保護責任者遺棄致死罪の疑いでも嫁を取り調べたそうです。警察が疑ったのは、老女の介護を疎ましく思うようになった嫁がブザーの電池がなくなりかけて音が小さくなったのをいいことに老女の発作をわざと無視し、放置して死なせたのではないかということだったようです。しかし結局は証拠がなく、放火容疑も心神喪失状態にあったとの精神鑑定結果が出て、嫁は入院しただけだったそうです。嫁は病院内でしばしば、「またお義母さんが発作を起こしているわ」と笑っていたといいます。
そして老女が寝起きしていた部屋は、私の部屋の辺りだったらしいことを、不動産会社の男性から知らされました。
不動産会社の男性は、決してよそでは言わないでくださいよと何度も念押しした上で、無料で別のアパートを仲介してくれました。ただその際私は、「他の住人はもう咳のこと、気づいてますよ」と言っておきました。
その後、桜の開花時期になると、誰かのスマホが振動音を出すたびに私は驚いてびくっとなり、どっと冷や汗が吹き出るようになりました。今もそれは続いています。年々、少しずつ症状は軽くなってくれているようではありますが。
つい最近、たまたまあの場所を通りがかりました。コーポはなくなっていて、駐車場になっていました。やはりあの咳のせいで、他の住人たちも次々と出て行き、入居者がいなくなってしまったのでしょう。
駐車場の隅では、あの桜がきれいな花を咲かせていました。ちょうど満開の時期でした。
誰からも愛でられることなく、ただただひっそりと咲いていました。
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