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新人に求められること
しおりを挟むテレビ局に就職して二週間が経過し、犬井タダシはいよいよ現場研修に臨むことになった。この研修は、本人が希望した部局の現場に派遣され、雰囲気を肌で感じ、テレビ局の社員として必要な資質を磨くことが目的である。研修担当の部長代理は研修生たちを各現場に送り出す際、「現場はどこも君たちにとっては驚きの連続だろうが、大切なのは慣れることだ。一日も早く新しい環境に、いい意味で染まってもらいたい」と訓示した。
犬井タダシが希望したのは報道部だった。取材の第一線に立って、スクープをものにすることこそがテレビの存在意義だと彼は考えており、研修とはいえいよいよその現場に立てることに興奮を抑えられなかった。
報道部の研修担当課長から彼が命じられたのは、カメラマンの助手だった。必要な機材を担いでさまざまな事件現場に急行し、野次馬を整理し、カメラマンのために脚立を用意するなど撮影をサポートする体力仕事である。学生時代はハンドボール部で心身を鍛えてきたという自負があった犬井タダシは、望むところだと意気込んでいだ。
最初に向かったのは、いきなり殺人事件の現場だった。閑静な住宅街で起きた、主婦が刺殺されたという事件である。取材チームが現場に到着したときは、まだ鑑識班などが作業をしていた。現場となった民家の前には立ち入り禁止を示す黄色いテープが張られ、覗き見ができないようにブルーシートであちこちが覆われていた。そんな中、局の記者が顔なじみの刑事から得た情報によると、主婦の悲鳴の後、現場から走り去った中年男が目撃されており、警察はその男を重要参考人として追っているところだという。
犬井タダシは、カメラマンからの指示で、集まってきた野次馬に、この民家の人を知っていますか、と聞いて回った。十数人に声をかけても有用な情報を得ることは何もできなかったが、こういう地道な取材の積み重ねがあるからこそスクープは生まれるものだ。この程度で徒労感を覚えることはなかった。
その後、犬井タダシは、一か所に集め置いたテレビ局の機材を見張りつつ、指示待ちの待機を命じられた。カメラマンが「もうすぐ被害者の遺体が運び出されるはずだ。その様子を撮るときに、他の局の連中らも集まって来るから、強引に押して来るやつがいたらお前は押し返して俺を援護してくれ」と言ってきたので、犬井タダシは「任せてください」と胸を叩いた。ハンドボールの練習や試合で、ぶつかり合いには慣れている。
やがて事件現場である民家の玄関口から、青い服を着た鑑識の係員たちが担架を運び出して来た。担架は白い布で
覆われている。
報道関係者たちのカメラがいっせいに接近して撮影を始めた。犬井タダシはカメラマンの横について周囲に目を配り、他局の記者やカメラマンに「押さないで」と声をかけながら押し返した。中には「押してるのはそっちだろう」と文句を言って来る相手もいたが、幸いケンカになるほどのトラブルにはならなかった。
担架が目の前を通り過ぎたとき、犬井タダシが「あれが被害者ですか」と小声で言うと、カメラマンが「ああ、そういうことだ」と答えた。
そうだ、ではなく、そういうことだ、という返答に、少し引っかかりを感じた。
その担架が警察の大型ワンボックスカーに運び込まれようとしたとき、係員の一人が手を滑らせてしまい、担架が大きく傾いた。そのとき、白い布がずれて、中からマットを丸めたようなものがちらりと見えた。
「あれ? 担架に乗ってるの、人じゃなかったみたいですよ」
犬井タダシがそう言うと、カメラマンは舌打ちして「何をやってんだよ、あいつは」と吐き捨てた。
近くにいた別の報道関係者が「今の、野次馬に見られなかったかな」と誰にともなく聞いた。すると、近くから「大丈夫、前列は報道関係で固めてたから見えなかったはずだ」という小声の返事があった。
は? どういうこと?
「あの、何なんですか、これって」
犬井タダシが聞いたが、カメラマンは「うん……」と言葉を濁した。
「何が起きてるんですか、今ここで」
すると、カメラマンの向こう隣にいた他局の記者らしき男性が「何だ、君は研修中の新入社員か」とニヤニヤしながら言ってきた。「だったら覚えとくんだな。ニュースとして報道される事件の――」
「おいっ」とカメラマンが遮った。「うちのことはうちに任せてもらいたいね」
すると声をかけてきた他局の男性は「はいはい、お任せしますよ」とちょっとおどけた様子で肩をすくめた。
警察車両が発進したところでカメラマンは撮影を止め、犬井タダシの方を向いた。
「もう少し現場を体験させてから教えるつもりだったんだが……いずれ知ることになるわけだからな。ニュースとして報道される事件の半分以上はこんな感じなんだ」
「こんな感じ……って、どういうことですか」
「どうもこうも、見てのとおりさ」カメラマンは渋い顔で、ブルーシートで覆われた民家をあごでしゃくった。「今取材してるのは本当の殺人事件じゃないってことだよ」
「えーっ、じゃあ、やらせ――」
カメラマンが即座に犬井タダシの口を塞いだ。
「大きい声を出すな、バカ」
「うんぐ、ふんぐ……」
カメラマンはゆっくりと犬井タダシの口から手を離し、「マスコミ関係の世界に入った新人が最初に学ぶのが、これなんだよ」と言った。
「じゃ、じゃあ何ですか。テレビや新聞で報道されている事件というのは――」
「半分ぐらいは作り物だよ。我々は視聴者のニーズに応えなきゃならない。常に派手な事件を報道し続けないと、番組にスポンサーがつかなくなるし、国民は退屈するからな」
「け、警察の人たちもグルなんですか」
「むしろ警察が主導してるんだ。あちらさんだって、頻繁に凶悪事件が起きてるってことにしておけば、たっぷりと予算がつくからな。それはマスコミ関係者も同じこと。持ちつ持たれつってやつさ。だから、警察と我々は報道協定を結んで、ツーカーでやってるわけさ。もう何十年も前から、こんな感じだよ」
犬井タダシは、研修担当の部長代理が言っていたことを思い出した。
――現場は驚きの連続だろうが、大切なのは馴れることだ。
そうか、こういうことだったのか。犬井タダシは、軽いめまいを感じつつも、ここからが真の報道マンのスタートなのだ、と自分に言い聞かせた。
その日の午後に出向いたのはトンネル内での交通事故現場だった。トラックと乗用車との正面衝突だが、これもやらせ案件だという。トンネルの出入り口を警察車両で塞いで部外者を近づけないようにし、さらに二台のクレーンを使って大面積のブルーシートを張り、中の様子が見えないようになっていた。カメラマンによると、内側ではディレクター的な立場の人物があれこれと指示を出して、事故現場を作っているところだという。
犬井タダシは、カメラマンから命じられて、付近に集まり始めていた野次馬の整理をすることになった。さっそく一人のおばさんから「大事故?」と声がかかったので、犬井タダシは「トラックと乗用車との正面衝突だそうですが、我々報道関係者もまだ取材に入れなくて」と説明した。
野次馬たちの上の方で、ブーンというモーター音がした。見上げると一台のドローンが上空で静止していた。
コントローラーで操縦している人物はすぐに特定できた。パーカーのフードを頭に深々とかぶった若者が少し後方にいた。
犬井タダシが「何をしてるんですか?」と声をかけてみると、若者は「ブルーシートでトンネルを隠してるけど、上の方だけちょっと隙間があるでしょ。そこから撮影しちゃおうと思ってね」と自慢げに言った。「衝撃映像をネットに流すことにできたら、バズるかもしれないんで」
トンネル前に張られたブルーシートを見ると、確かに上の方だけ少し、覆いきれていない隙間があった。
大変だ――。犬井タダシはスマホを取り出して、カメラマンにLINE送信した。緊急時にはLINEで知らせろと、あらかじめ言われている。
すると、すぐに警察官がときどき使う笛の音がして、煙がブルーシートの隙間から漏れ出してきた。ブルーシートの下部をめくって現れた制服警官が拡声器で「危険ですから下がってください。事故車両から有毒な煙が発生しましたっ」と怒鳴るように言った。
野次馬たちは「有毒ガスだってよ」「やばい、やばい」などと言いながら、ブルーシートから離れ始めた。ドローンを操縦していた若者は、「くそ、煙のせいで撮影ができなくなったじゃん」と残念そうに言った。辺りには鼻につんとくる刺激臭が漂っていた。
しばらく経って、カメラマンから〔グッジョブ!〕というLINEの返信が届いた。ドローンで撮影しようとしている者がいると知らされて、すぐに煙幕を張って阻止したわけである。
よし。犬井タダシは重要機密を守ったぞという達成感と共に小さくガッツポーズをした。
――野次馬の後方からその様子を秘かに観察していた、人事部の男性社員は、手にしていたタブレットにこう入力した。
〔犬井タダシ――いち早く新しい環境にに染まる順応性にすぐれているが、やらせ報道の話を疑うことなく信じ込み、上からの指示に従うマニュアルタイプ。真相は別のとこにあるのではないかと疑う姿勢が皆無で、報道部には不向き。〕
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