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三章

61話 弁当

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 ゆったりとした動きばかりするこのペンギンにあるまじき素早さで、リョウイチの手元から弁当箱が消えた。
 しかもペンギンはペタペタと歩き始めた。

 その場の空気が止まる。

「ま、待って返して!」
「わぁああお前何やってるんだー!」

 正気を取り戻したリョウイチは慌てて手を伸ばし、ピングは大慌てで「返せ」と命令する。
 ペンギンはピタリと止まり、口に入れたままペタペタとリョウイチの方に戻りだす。

 そして、べちんっと転けた。
 弁当箱を口に入れたまま、転倒したのだ。

「……中身、無事か?」

 ことの成り行きを何も言わずに見守っていたティーグレがボソリと呟く。

 転けた拍子にペンギンの口から吐き出された弁当箱を、リョウイチは拾い上げた。
 使い魔の口内だ。汚れている様子はないが、転がったことに変わりはない。

「大事なのは味だから、ね」

 笑顔を保ったまま、リョウイチは弁当箱を開ける。
 中身を見たピングは全身から血の気が引いていく。

 美しい三角形だったおにぎりは崩れて、きちんと渦巻いている卵に覆い被さっている。配置が完璧だった唐揚げも、弁当箱の端と端にあった。

 一言で言うと、ぐちゃぐちゃだ。

 嫌な汗が全身から吹き出したピングは、何の感情も見せずに弁当箱を見下ろすアトヴァルを見る。

「あ、アトヴァル……す、すまない本当に……! あの、アトヴァルの弁当は本当に本当に綺麗で」
「うん、うん、分かるよ。でもお弁当って結構すぐこうなっちゃ……」

 アトヴァルの代わりにピングをフォローしようとしたリョウイチが言葉を止めた。ピングも心臓が止まりそうになる。

 アトヴァルの頬に、涙が一筋流れ落ちていた。

「あ、アトヴァル……! 本当に申し訳な」

 謝罪の言葉は、アトヴァルの手のひらに飲み込まれた。サラサラと金の髪を揺らし、アトヴァルは首を左右に振った。

「皇太子殿下のせいではありません。私こそ申し訳ございませんお見苦しい……っ」

 聞いたことのない鼻声で、指先でアトヴァルは涙を拭う。感情を表に出さないようにしているいつも通りの顔が、今は痛々しい。

 ピングが何も出来ないでいると、リョウイチは躊躇なく唐揚げを口に放り込んだ。
 その場の全員、元凶のペンギンまでもが静かにリョウイチの反応を待つ。
 黒い瞳がキラリと光って、嘘のない笑顔をアトヴァルに向けた。

「美味しいよ、ありがとう!」
「リョウイチ、私は」
「分かってるよ。頑張った成果が見れなくて残念だ」

 開けた瞬間から喜んでもらおうと、料理の詰め方にも頭を悩ませていたアトヴァルだ。完璧な状態でリョウイチに見て欲しかった気持ちがあまりにも強い。
 表情の晴れないアトヴァルの濡れた頬に、リョウイチは片手を添える。

「だからさ、今度、作り合いっこしよう」

 アトヴァルの目から、再び大粒の涙がこぼれ始めた。

「また見せて」

 額に口付けてアトヴァルを片腕で抱き締めるリョウイチを、ピングはただ立ち尽くして見ていることしかできないでいると。

「ピング殿下、謝るのは後にして退散しましょう」

 真面目な声のティーグレに耳打ちされた。

「……でも」
「いいから。リョウイチに任せるのが一番です」

 無責任に立ち去ることを躊躇するピングだったが、ティーグレとリョウイチが目線で合図を送り合っているのを見て折れた。
 ティーグレに抱えられたペンギンと共に、ホワイトタイガーに乗って空へと舞い上がる。

「そんな泣きそうな顔して」
「私は、なんてことを……」

 後ろから覗き込んでくるティーグレから逃れるように俯く。
 泣きそう、ではなく、もう青空色の瞳を水の膜が覆ってしまっていた。鼻がツンと痛い。

「気が済むまで落ち込んでもいいんですけどね。ピング殿下のせいじゃないですから」

 柔らかい声と共にいつも通り頭を撫でられて、一粒の雫が白い毛皮に落ちていく。自分は泣く権利はないと思うのに止まらない。

「つーか、ピング殿下のミスじゃねぇのが問題ですよ」

 背後の声のトーンが落ちる。
 ピングはきちんと聞かねばならぬ話だと思い、鼻を啜りながらも背筋を伸ばした。

 ティーグレは指先をペンギンに向け、小さな頭をツンツンとつつく。

「最近また言うこと聞きませんね」
「そ、そうなんだ。やっと上手く制御できるようになってきたのに」

 気づいていてくれたのだと思うと、安心してピングの口が動き出す。せっかく練習を重ねてペンギンに命令できるようになっていたのに、少しずつ崩れ始めている。
 慣れてきたから気が緩んでいるのだと、ピングは自分を叱咤していた。

 だがティーグレは、全然違う心配をしているようだ。
 ピングの体はティーグレの方に向けられ、上から下まで紫の瞳が観察してくる。

「……体調に変化は?」
「と、特にない」
「大きな失敗はさっきのだけですか」
「う、うん」
「『何があっても自分は悪くない』くらいの図太い心持ちでいてください。命に関わります」

 重々しい口調と恐ろしいほど鋭い目付きがピングを射抜く。

 これまでの人生で自信を育てることができなかったピングにとっては難しいことだ。だがそんなことはティーグレはよく分かっている。
 充分理解した上で、約束してくれと静かに訴えてくるのだ。

「特にペンギンのやることは、今に限り本当にピング殿下の責任じゃないです」

 念を押してから、ティーグレはペンギンに向けて呪文を唱えた。青い魔法陣が光を発し、ペンギンを包み込む。

「何してるんだ?」
「気休めですが鎮静の魔術です。ピング殿下にもしときますね」

 大きな手がピングの黒いローブに隠れている首飾りの指輪に手を掛けた。意図は不明だったが身を任せていると、ティーグレの魔力が指輪についた白い魔石に宿っていく。紫色に変色した石が青空色の大きな瞳に映る。

 ローボに渡された時のように、何か魔術が掛けられているのだろう。おそらく、防御の魔術だ。
 ティーグレはピングのローブに首飾りを戻して微笑む。

「肌身離さず持っててくださいよ」
「ありがとう」

 ピングは布の上から指輪を握りしめ、これが用を為さないことを祈った。
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