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二章

抑制剤なんて意味がない

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 杉野の表情は真剣そのものだ。
 そして、言っていることは間違っていない。
 杉野が飲んでいるのはあくまでフェロモンが意図せず溢れないようにするためのものだ。
 もしも本気で藤ヶ谷をヒートにしようと思えば、自分の意思でそれができる。

 言わんとすることを理解した藤ヶ谷は、口を閉ざした。
 2人の間に気まずい沈黙が流れる。

 しかし藤ヶ谷は、すぐに表情を和らげた。
 蓮池たちに襲われたホテルでの出来事を思い出したのだ。
 ヒート中のオメガのフェロモンに満ちた部屋で、何がなんでも藤ヶ谷に手を出すまいと歯を食いしばっていた杉野の姿を一生忘れない。

「ははは、冗談言うなよ! お前は絶対そんなこと……っ!」

 突如、浮遊感が襲う。
 深刻な空気を破ろうと、体を揺らして笑うとバランスを崩してしまった。

 乗っていた台がガタンッと傾き、体が宙に放り出される。
 目を瞑って背に来るはずの衝撃に備えた直後。

 力強い腕に抱き止められた。

「ビビった……」

 心臓がドッドッと嫌な音を立て、冷や汗が流れる。
 杉野の腕の中にいると気がついたが、すぐにどいてやることが出来ず温もりの中で呼吸を整えた。

「悪い、助けてくれてありが」
「絶対って、言えないから困ってるんです」

 なんとか形にした感謝の言葉は、固く苦しげな声に遮られる。
 きちんと顔を上げてみると、切なげに眉を寄せた端正な顔が至近距離にあった。
 大きく鳴る心音が、別の種類のものに塗り替えられる。

「藤ヶ谷さんと居ると、抑制剤なんて意味がない時がある」
「え?」

 守ってくれた腕に、力が籠った。
 熱い瞳に射抜かれ、縫い止められたように動けない。
 2人だけの空間で視線が交わる。

「藤ヶ谷さん、俺は」
「おーい! いるか藤ヶ谷ー!」

 杉野の言葉に覆い被さった大きな声が、空気を打ち壊した。
 ビクリと体を跳ねさせた藤ヶ谷は、杉野の肩を掴んで思わず声を張り上げる。

「あ! 部長の声だ!! なんですかー!」
「頼みたいことが……」

 藤ヶ谷の予想通り、足音を響かせ棚の間からひょっこりと顔を見せたのは八重樫だった。
 そしてまだ杉野の腕の中にいる藤ヶ谷を見て、表情を硬直させる。
 ぎこちなく顔を引っ込め、特に意味はなく声を顰めた。

「悪かった。急がないから後でも」
「部長の用事より優先することは俺にはないです!!」

 八重樫の厚意には全く気が付かずに、藤ヶ谷はあっさりと杉野の腕から抜け出す。
 憧れの人からの頼み事が、先ほどまでの胸のときめきも奪っていった。

「いきましょう!」

 元気に倉庫の出口に向かう藤ヶ谷の後ろで、八重樫は杉野に両手を合わせていた。
 なんでもないことのように手を振った杉野は、2人が出て行った後に床にしゃがみ込む。

 しばらくそこで杉野が頭を抱えていたことを知っている者は、誰も居ない。
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