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一章

生物学的な差

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 がむしゃらに走る藤ヶ谷と追いかけてくる杉野との2人分の足音が、人気のない廊下に響く。
 アルファの足に勝てるはずもなく、2人の距離はどんどん縮まる。
 しかも目の前は行き止まりで、あっけなく腕を掴まれた。

「離せ!! ……っ!?」

 ガチャン。

 振り返った瞬間、首に巻いたカラーの上から何かを着けられた。
 喉元に手を触れると、硬くひんやりとしたものが触れる。
 錠前のような形をした、小さな金属の飾りだ。
 藤ヶ谷はそれを握りしめ、杉野を睨み上げた。

「なんだこれっ」
「新商品の試作品です」

 全力で走って肩で呼吸している藤ヶ谷に対し、杉野は全く息を乱さずに答えてくる。

「知ってるよ!」

 藤ヶ谷の首に装着されているのは、杉野とともに企画したカラーの試作品だ。
 首元を強調する深紅の革と金の錠前が特徴的な、まさしく首輪。
 アルファがオメガに贈ることを想定した商品だ。

 以前アルファが正気に返る香りがすると銘打った商品が出たので、その要素も取り入れた。
 アルファの多い重役たちに確認してもらったが、皆が納得のいく香りらしい。

 しかし今はそんなことはどうでもいい。
 藤ヶ谷は杉野の胸元を掴んだ。

「はずせよ!鍵は……」

 杉野の手元に目をやるが、他に何か持っている様子はない。
 そうなると、先ほどまでいた部屋に袋ごと置いてきたのだろうか。

 目線をうろうろと動かしていると、杉野はズボンのポケットに手をツッコんだ。
 そして、小さな鍵を指でつかんで頭上に掲げて見せてくる。

「これですか?」
「それ!」

 手を伸ばしてなんとか奪おうとしたその瞬間。
 パキリ、と無慈悲な音がした。

「嘘だろ」

 唖然とする藤ヶ谷に、杉野は何でもないような涼しい顔で薄く微笑む。

「すみません。力が入り過ぎてしまいました」

 へしゃげた小さな金属を差し出されて、藤ヶ谷は背筋が凍る。
 目の前にいる男と自分の生物学的な差を、まざまざと見せつけられたのだ。

 それでも怯んだのは一瞬だった。
 藤ヶ谷はシャツを掴んだ指に力を籠める。

「っお前は! 好きな人がいないからこんな酷いことが出来るんだ!」
「好きな人ならいます!」

 壁を強く叩く音と杉野の声が廊下に反響した。
 追い詰められ壁を背にしていた藤ヶ谷は、胸元から手を離す。
 体を守るように小さくして、今度こそ目が恐怖の色に染まった。

「すみません、でも……」

 藤ヶ谷の様子に気付いた杉野は眉を下げる。
 そっと大きく温かい手が頬に触れてきた。

「俺なら、好きな人に、そんなしんどいことさせない」

 熱い瞳から切実な思いが伝わってくる。
 頬の手から滲む温もりが、杉野の優しさを教えてくれるようだった。
 その証拠に、つい先ほど高圧的に抑え込まれて恐怖したはずなのに。
 もう嫌悪感が全くない。

 藤ヶ谷は顔を泣きそうに歪める。

「……どいてくれ」

 掠れた声を出しながら、手のひらで胸を押す。
 杉野は微動だにしなかった。

「行かないっていうまで退きません」
「今日は大人しく帰るから」
「絶対ですよ」
「ん」

 蓮池と過ごした至福の時を信じたい気持ちはまだ強い。
 だが杉野と八重樫の言うことも最もだと、頭では分かってしまう。

 頬に触れる杉野の手に、観念した藤ヶ谷は手を重ねた。

 今日はいつも以上に抑制剤に嫌われているらしい。
 杉野の香りがいつもより濃く匂ってきて、腹の奥が疼くのを感じた。
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