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一章

仕事にならない

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 口元を引き攣らせる藤ヶ谷に、杉野はここぞとばかりに語調を強めてくる。

「言ってるでしょ。狼だって。先輩が夢中のおじさんだって」
「蓮池さんを一緒にするな」
「んぐ……っ」

 黙らせるために、一口残ったおにぎりを杉野の口に突っ込んだ。
 思惑通り固まった杉野が、一瞬躊躇した後で咀嚼し始める。
 藤ヶ谷が唇を引き結んでその様子を睨んでいると、杉野は諦めたように目を逸らした。

「……。害獣はアルファだけでもないですから気をつけてください」
「はいはい」
「分かってます?」

 過保護に思えるほど、杉野はいつも念を押してくる。
 藤ヶ谷がいつもおおらかな態度でいるせいなのだが、自分の立場はアルファである杉野よりも知っているつもりだった。

「あのな、俺だってオメガだぞ。ちゃんとそういう教育受けてるっての。何のためにオメガばっかの学校で青春を過ごしてたと思ってんだ」

 オメガは第二の性の判明後、ヒートが安定する年齢までオメガ学校で教育を受けることになっているのだ。
 当然藤ヶ谷も、そこで体の勉強はしている。

 しかしその分、実際のアルファに会う機会が少ないのは確かだった。
 杉野はそれも踏まえて忠告している。

 だが藤ヶ谷の声が自信に満ち溢れているからか、もう何も言わなかった。

「だと良いんですけど。じゃあそろそろ行きましょうか。ところで」

 テーブルに置かれた本を手に取り、杉野は立ち上がる。
 ガサガサとビニール袋にゴミを入れる藤ヶ谷を見下ろしてきた。

「さっきから思ってたんですが、他に本題があるんじゃないですか?」

 ズバリ言い当てられた藤ヶ谷は錆びたロボットのような動きになる。
 本題というほどではないが、先ほど思い出した心の引っ掛かりが気になってはいたのだ。

「お前、ほとんどエスパーじゃねぇか」
「エスパーじゃないから分からなくて聞いてるんですよ。ほら、さっさと言ってください」

 どんな表情をすればいいのかわからず俯いていると、テーブルに手をついた杉野がずいっと彫りの深い顔を近づけてくる。
 鼻が触れ合いそうなほど近くで見ると、迫力があってたじろいでしまう。

「う、その……俺と仕事してて、やりにくくないか?」
「おじさんにすぐ浮かれるからですか?」
「そうじゃなくて……」

 藤ヶ谷は、どうしたら自分が聞きたいことが杉野に上手く伝わるかを考える。

(ハイアルファかどうかなんて、流石に聞いたらダメだよなぁ)

 隠すことでもないと思うが、杉野が言及したことが無いということは触れられたくないことなのかもしれない。

 そもそも藤ヶ谷の悩みは、杉野が普通のアルファだろうとハイアルファだろうと変わらない。
 ぐしゃぐしゃと髪を乱しながら、藤ヶ谷は言葉を探す。

「ほら。こう……能力に差があるっていうか。俺、ヒートで迷惑かけたりもするし。1人の方が仕事しやすいとか、ないのか?」
「そんなこと1回も思ったことないです」
「あ、そう?」

 拍子抜けするほどあっさりと、即座に否定されて間抜けな声が出た。
 長いまつげで風を煽ぐように瞬く藤ヶ谷に対し、杉野は訝し気に眉を顰める。

「誰に吹き込まれたんですか。今更そんなことを気にするなんて」
「えーと……俺が勝手に思ったっていうか……」

 考える切っ掛けになったのは蓮池の言葉だが、別に誰かに言われたわけではない。
 ただ事実を伝えただけだが、杉野は納得しなかったようだ。

「誰でも良いですけど」

 黒く強い瞳が、真っ直ぐ射抜くように藤ヶ谷を見た。
 大きな手が、ガラス細工を扱うかのようにそっと髪に触れてくる。

「次に言われたら胸張って言い返してください。『杉野は俺がいないと仕事にならない』って」
「へ」

 ばらけて目にかかってしまっている藤ヶ谷の前髪を整えながら紡がれた言葉に、ふざけた響きは全くなかった。
 それでも、藤ヶ谷は肩の力を抜いて噴き出した。

「なんだそれ!」

 そんなわけないだろうと、けらけらと楽し気に笑い声を上げる。
 目を細めた杉野は髪から手を離すと、カサリとテーブルのビニール袋を持ち上げた。

「ほら、分かったら行きますよ」

 生意気な後輩は、いつになく優しく、ふわりと微笑んだ。
 藤ヶ谷の腹は重いものがなくなり、胸は心地よい安心感で満たされる。

(こんないいやつの足手纏いになんかなってたまるか)

 藤ヶ谷は心の中で、強く決意したのだった。
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