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一章

惚気

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 週明けの昼休み、休憩室に藤ヶ谷の弾んだ声が響く。
 蓮池との夜のことを、隣に座る杉野に語っているのだ。
 いつにも増して無表情の杉野はとっくに食べ終わっているというのに、藤ヶ谷は片手に持ったコンビニのおにぎりが全く進まない。

 そのくらい、あの時間は心躍るものだった。

「でな、最後にしようって言った後に偶然俺が勝てたんだけど。その時に『気持ちよく終わらせてあげられなくてごめんね。もうひと勝負だけしよう』って。意外と負けず嫌いみたいでかわい……、なぁ聞いてるか?」

 ずっと口が止まらなかったが、藤ヶ谷は一息ついた。

 普段はなんだかんだで付き合ってくれる杉野が、珍しく相槌すら打ってくれない。
 整った横顔は藤ヶ谷を見ずに、静かに本の文字を追っているようだった。
 だが肩を指で突くと、目線だけはこちらに向けられる。

「聞いてます聞いてます。ビリヤード、楽しくて良かったですね」
「ダーツだよ! もーお前、人と話してるのに本を読むな本を!」

 あまりにも適当過ぎる返答をされ、黒いブックカバーの本を取り上げテーブルに置く。
 眉を吊り上げて顔を覗き込むと、鼻を鳴らしてくる。

「読みながらでも聞けますよ。俺は優秀なアルファなんで」
「態度の問題だよ! なんだよいつもは適当だけどちゃんと聞いてくれるだろー!」

 肩を片手で鷲掴んで揺らすと、ガタガタと椅子が音を立てた。
 自分でも意味が分からないほどに大袈裟な声を出してしまう。

 優秀なアルファ、という言葉が頭をこだまして、不安が胸に広がっていく。
 楽しい記憶で掻き消されていた、自分は杉野の足手纏いなのではないかという気持ちが再び呼び起こされた。

 されるがままに揺れながら、杉野は変わらぬ調子で口を開く。

「惚気を聞くのは有料です」
「……! 惚気……へへ、惚気になるのかな?」

 杉野の言葉を聞いた藤ヶ谷は手を止め、頬を掻く。強張りかけた表情がふにゃりと緩んだ。

 その変化を横目で確認した杉野は、肩に置いた藤ヶ谷の白い手に指の長い手を重ねる。
 スルリと思わせぶりに撫でられ、擽ったくて手を離す。
 意図が分からず首を傾げると、ただ目を細めてくるだけだった。

(こいつ何考えてるか分かんねぇ時あんだよな)

 どう反応すればいいのか分からないまま、とりあえずおにぎりに齧り付くことにした。
 喋り過ぎて乾いた唇に海苔が貼り付いてしまう。
 藤ヶ谷は舌で紅い唇を濡らし、指先で海苔を剥がす。その何処か耽美な姿に、頬杖をついた杉野が熱の籠った眼差しを向けているのだが。

 藤ヶ谷は全く気が付かず、大口を開けておにぎりを頬張る。

「そういえば、もうすぐ新しいカラーの試作品が届くから試してほしいそうですよ」
「了解了解ー」
「何でも、頸部分からアルファが正気に帰る香りがするんだとか」
「正気に……」

 藤ヶ谷は今つけているカラーに手を触れる。
 出社時はベージュで目立たない仕様だが、私服の時には別のカラーをつけることが多い。

 オメガであることを隠している人はつけない場合もあるが、藤ヶ谷のようにオープンな場合はアクセサリーと一緒だ。
 デザイン性を求められると、強度が甘くなってしまう。
 どうすれば番事故を防げるのかと、開発部は思考錯誤しているのだ。

 しかし、アルファが正気に帰るとは。

「どんなだろうな」
「他のアルファの香りとか?いや、逆に嗜虐心を煽られるか」
「アルファって怖い……」

 素朴な疑問を口にすると、腕を組んだ杉野が至極真面目な声で答えてきたので背筋が寒くなる。
 アルファの、番に対する独占欲や執着は強いと言うが、藤ヶ谷には想像しか出来なかった。


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