妻の失踪

琉莉派

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第七章 真相

第一話 失踪の理由

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「いったい、どういうことだ」

 ありえない事態に、八王子署の捜査本部は蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。これまで積み重ねてきた捜査が根底からひっくり返る重大事案である。署内はパニックに見舞われた。

「あの遺体が友部雪乃でないなどということは断じてありえない」

 斎藤管理官は顔を赤紫色に染め、頭から湯気を発して榊原に詰め寄った。

「いったい、どんな照合をしたんだ」
「は、はい……そ、それが……」

 榊原はおろおろした様子で言葉を継ぐ。

「磯部裕也には……雅美まさみという名の妹がおりまして……そのぉ……雪乃にとっては叔母にあたる女性です。ずっと行方が分からなかったのですが、遠縁の者から室蘭にいるらしいとの情報を得て北海道へ飛び、道警の協力を得て居場所を突き止めることができました。面会を申し込み、話を聞かせてもらって、磯部裕也の妹に間違いないとの確信を得ました」
「それで?」
「彼女に事情を説明し、検体を採取させてもらったうえで、それを直接、科捜研に持ち込み鑑定にかけました。ですから、万に一つも間違いはありません。例の屍蝋化した女性の遺体は、磯部裕也とは血縁関係がありません」
「ううむ」

 斎藤管理官は絶句した。
 科捜研による鑑定結果が出た以上、これを事実として受け止めるほかはない。

「これは大変なことになったぞ」

 慌てうろたえる斎藤を尻目に、鎧塚はこの事態を比較的冷静に受け止めていた。
 今回の鑑定は、必ずしも遺体が雪乃本人でないことを示すものではない。判明したのは、磯部裕也との血縁関係の否定であって、母親の陽子が不倫をして生まれた子だと考えれば、遺体が雪乃であることと矛盾を生じない。であるならば、これまで通り粛々と捜査を進めてゆけばよい。

 しかし、仮に遺体が雪乃でなかった場合は、もちろん大問題に発展する。世間からの猛バッシングは避けられないだろう。斎藤管理官の責任問題に発展するのは必定ひつじょうで、彼が狼狽するのは無理からぬことだった。

「管理官、まだ遺体が雪乃ではないと決まったわけではありません。むしろ陽子が不義の子を産んだと考えるほうが合理的だと思います」

 鎧塚は励ますようにいったのだが、

「いや、磯部陽子の不倫は考えにくい。磯部裕也は元極道で大金持ちの権力者だぞ。そんなこわもての夫の目を盗んで浮気など出来るものか」

 斎藤は悪い方へ悪い方へと想像を膨らませる。挙句、鎧塚に八つ当たりをぶつけてきた。

「だから、俺があれほど科学鑑定を急ぐように言ったんだ。あんな蝋人形のような顔で正確な本人確認ができるわけがない。もし遺体が別人だった場合、すべてはお前の責任だぞ。分かっているな、鎧塚!」

 憎悪をむきだしにして吠えたてた。

「遺体の身元を大至急、特定しろ。お前の責任でやるんだ、鎧塚」
「分かりました」

 鎧塚は一礼し、捜査本部をあとにする。激高する斎藤と同じ空間にいることに耐えられなかった。

 八王子署の玄関を出たところで立ち止まる。
 溜息をつき、さて、どうしたものかと思案に暮れていると、

「警部」

 うしろから声がかかった。
 振りかえると、徳大寺が立っている。
 心配して後を追ってきたのだろう。斎藤管理官から怒られている時、彼は部屋の隅からこちらの様子をチラチラうかがっていた。

「管理官、かなりカリカリしていましたな」笑いながらいった。
「当然だろう。下手をすると詰め腹を切らされるんだ。そうなった場合は僕の責任だよ」

 最悪のケースを考え、鎧塚は気が重くなった。

「何をおっしゃいます。あの時点で科学鑑定を行なう方法はありませんでした。仮に遺体が雪乃でなかったとしても、警部のせいではありません」
「そんな理屈は世間やマスコミには通用しない。遺体を取り違えたまぬけな警視庁と揶揄され、槍玉にあげられるのがオチだ。そうなった時は、管理官と一緒に詰め腹を切るつもりだよ」

 そうは言いつつも、この段階での鎧塚は、まさか遺体が別人だとは思ってもいなかった。常識的に考えれば、雪乃は、陽子と不倫相手の間の子という推定が成り立つ。 

「徳さんはどう思う?」

 自分より経験豊富なベテラン刑事の見解を聞いてみたかった。

「何がです?」
「あの遺体は、友部雪乃とは別人だと思うかい? それとも、磯部裕也と血のつながりがないだけで、雪乃本人だろうか?」 
「そうですねえ……」

 徳大寺は思案顔で首をひねったあと、質問に直接答えることなく、慎重な口ぶりでこう返した。

「実をいいますと、私は以前から雪乃失踪の経緯がどうにも不可解だと感じていたんです。あまりに不自然だとは思いませんか?」
「というと?」
「失踪当日、彼女は未明に自宅近くの空き地まで友部凌馬の車で送ってもらいながら、家の中に入ることなく、煙のように忽然と消えてしまいました」
「確かに不可解ではある」
「何者かが雪乃を拉致したとすると、その人物は一体どうやって、彼女があの時間帯に自宅近くをひとりで歩いていることを知ったのでしょう? 彼女が真夜中に出かけたのは、突発的なアクシデントだったんです」
「それに関しては、奥平龍平がタカだと考えれば疑問は解けるよ。雪乃はいったん自宅に戻り、奥平と口論になって、彼によって殺されたんだ」
「そうですね。そう考えれば確かに謎は解消します。しかし私は、奥平が彼女を殺したとはどうしても思えないんです」
「なぜだい?」
「彼がタカだった場合、一つ屋根の下にずっと暮らしていたわけですから、雪乃を殺す機会はいくらでもあったはずです。なぜわざわざあんなアクシデントの日を選んで決行したのでしょう? 私なら綿密に計画を立てたうえで、万全の準備をととのえて完全犯罪を実行します。あの日に殺すのは危険すぎませんか」
「あの日に雪乃は奥平がタカだと知ったんだよ。だからあの日に殺したんだ」
「それは変ですよ。彼女は奥平と書斎で話していた時、海斗に呼ばれて中座し、そのまま凌馬とともに埼玉まで出かけています。その時点で奥平がタカだと分かっていたなら、外出などしている場合ではないでしょう。命にかかわる問題ですよ」
「外出先で、奥平がタカだと知ったのさ」
「外出先? 外出先のどこで知ったというんです? 彼女はあの日、凌馬のアパートへ行き、息を吹き返した桜織を見て、そのまま凌馬の車で帰宅しています。どこに奥平がタカだと気付く瞬間があったのですか?」
「それは……」
 
 鎧塚は言葉に詰まった。たしかに徳大寺のいう通り、あの日に奥平が雪乃を殺す必然性は皆無だ。たとえ奥平がタカだったとしても、殺害には別日を選ぶだろう。

「奥平が犯人でないとした場合、雪乃の自宅前での消失には合理的な説明がつかなくなります。違いますか?」
「……たしかに」

 その点は認めざるをえない。

「友部凌馬が嘘をついている場合は別ですが、彼が真実を語っていた場合、雪乃が自らの意思で失踪したと考える以外に、彼女の消失を合理的に説明する方法はないのです」

 徳大寺の確信に満ちた物言いに、

「つまり……」

 鎧塚はゆっくりと言葉を発する。

「徳さんは……あの遺体は雪乃ではないと言いたいんだな」
「私は、雪乃が海斗に三億円もの保険金を残したことがずっと引っかかっていました。本契約が成立したのは、失踪のわずか八日前ですよ。彼女はその時点で、自分の身に危険が迫っていることを察知していたはずです。だからこそ、万一の場合を考えて愛する夫にまとまった金を残し、自らは失踪という形で姿を消したのではないでしょうか。そう考えれば、全ての謎がすとんと腑に落ちる気がするのです」
「すべては、雪乃が計算づくでしたことだと……?」
「それ以外に、考えようがないと思うのです」
「しかし……」

 鎧塚は納得できなかった。

「だったら、あの遺体は誰なんだ。雪乃が替え玉を用意したとでもいうのかい」
「いいえ。たまたま同時期に別の殺人事件で殺された女性が、八王子山中に埋められていたのでしょう」
「それはおかしいよ、徳さん」

 鎧塚はむきになった。

「遺体が身に着けていた服装と装飾品は、雪乃が失踪した時と同じものだと、奥平龍平と友部海斗がそろって証言しているんだよ。別件で殺された女性が、たまたま雪乃と同じ服装とアクセサリーを身に着けていたというのかい。そんな偶然はありえない」
「同じものを身に着けていたとは限りません。同年代の女性なら、似たような流行りの服装をすることはあるでしょう。男性は女性のファッションにうといものです。奥平と友部は、愛する者の死という大きなショックの中で、似たような服装を同じと誤認したことは充分に考えられます」
「しかし……雪乃はなぜ失踪しなければならなかったんだ」

 問題はそこである。

「それは分かりません」
「理由がないじゃないか」
「そうですね。でも……」

 徳大寺は言いかけて言葉を呑み込んだ。

「でも……何だい?」

 鎧塚が訊く。

「自分の存在を消し去ったうえで、どうしてもやらなければならないことが、彼女にはあったのではないでしょうか」
「というと?」
「たとえば、両親の仇を討とうとしたとは考えられませんか?」
「おいおい」

 鎧塚は上体をのけぞらせた。
 徳大寺のアクロバティックなスジ読みには慣れっこのつもりだが、さすがに驚きを禁じ得ない。

「雪乃は犯人の正体に気付いたんですよ。両親を殺した憎っくき仇を突き止めた。しかし、なにぶん二十二年前のことで証拠は何ひとつない。警察に通報したところで、起訴に持ち込める可能性はゼロに等しい。二十二年前もそれで犯人は自由の身となっています。ならば、自らの手で、犯人たちに制裁をくだそうと考えたとしても不思議はない気がするのです」
「それで失踪したと?」
「長期間姿をくらますことで、彼女は事故か事件に巻き込まれ、亡くなったものと人々に誤認させる。その上で油断している七尾康之を殺害し、今はどこかに身をひそめて、タカの命を奪う機会を虎視眈々と狙っているのではないでしょうか」
「徳さん。それは、いくらなんでも……」

 荒唐無稽が過ぎるというものだ。

「ドラマや小説じゃないんだよ。両親が殺された時、雪乃はいくつだ? たったの三歳だよ。物心もついていない頃の恨みを、大人になってから殺人という形で晴らそうとするものだろうか」
「でも、絶対にないとは言い切れないでしょう?」
「僕はないと思うね」
「雪乃は三歳の身でありながら、中溝潤と瓜二つの似顔絵を描かせるほど聡明な子供でした。ただの三歳児とは違います。両親が目の前で殺された時の記憶も鮮明に残っていたはずです。そんな彼女が犯人への復讐を企てたとしても、私は何ら不思議はないと思うのです」
「……ううむ」

 鎧塚は腕組みをして目を閉じ、思索を巡らすように考え込んだ。

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