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第五章 第三の男
第一話 夢
しおりを挟む夢を見ていた。
三歳の時の夢だ。
その頃、僕はだんだん速く走れるようになってきて、それが自慢だった。
両親とおでかけする時は、ふたりに走る姿を見せたくて、母の手を振りほどいては、逃げるように駆け出したものだ。そのたびに叱られた。
「あぶないわよ、海斗。走ったり、しないの」
その日も、いつもの週末と同じように、両親と近くの公園へでかけた。毎週日曜に家族三人でおでかけするのが、我が家の慣習だ。
たいていは近所の公園へ行く。この日も、自宅から徒歩十分ほどの緑溢れる児童公園へ向かっていた。
公園が近づいてきた。
僕は隙をみて母の手をふりほどき、猛然と駆け出した。
すぐに加速がついた。
はたから見れば、よたよたした危なっかしい足どりだったかもしれない。
でも、僕としては風になった気分だった。地面を蹴って、飛ぶように駈ける。
「海斗。あぶないわよ。走っちゃ駄目」
母の叱る声が後方から聞こえてきたが、かまわず走り続けた。
今日は公園までひとりで走り切ってやる。母に捕まることなく、逃げ切ってみせる。
だって、もう三歳だもん。
必死に腕を振り、足を前へ運んだ。
「危ない!」
突然、背後から男性の大声がとどろいた。
父の声ではない。
鋭く尖った、悲鳴のような怒号だった。
あまりの剣幕に、僕はギクリとして立ち止まった。
次の瞬間――、
キーーッと尾を引くような車のブレーキ音につづいて、ドンという鈍く激しい音がした。
あわてて振り返ると、青い乗用車が一台、道に停まっている。父と母の姿はなかった。
――あれ?
周囲の人々が、停まっている車に次々と近寄っていく。
車の中から若いお兄さんやお姉さんが降りてきて、真っ蒼な顔で右往左往している。
人々が車の下をのぞきこんで、何かを引っ張り出そうとしていた。
僕は思わず駆けていった。
心臓がバクバクしていた。
道路に血が飛び散っている。
車の下から引きずり出されたのは、血まみれになったお父さんとお母さんだった。
「ママ!」
僕はお母さんにしがみつこうとして、周囲の大人たちに止められた。
「ママ! ママ!」
お母さんは、微かに身体を動かし、僕のほうを見た。
「海斗……ちゃん」
「救急車だ。救急車を呼べ」
誰かが叫んでいる。
「ママ! ママ!」
「海斗さん……海斗さん」
ふいに耳元で中年の女性の声が聞こえてきた。
僕はかまわず、「ママ。ママ」と叫んだ。
母はにっこりとほほ笑んだ。
次の瞬間、がくんと首が落ちて、そのまま動かなくなった。
とたんに、テレビの電源が落ちたようにあたりは真っ暗になる。
「海斗さん……海斗さん」
またしても耳元で女性の声がする。
「ママ! ママ!」
母の声だろうか?
「海斗さん」
「ママ……ママぁぁ!」
僕は大声で身体をよじり泣き叫んだ。
ふいに暗闇が破れ、まぶしい光で視界が覆われた。
――え?
ここはどこだろう。
右手に窓が見える。
窓から濃密な午後の陽射しが斜めに降り注いでいる。
周囲を見回す。
視界がゆっくりと開けていく。
その時初めて、自分が病室のベッドのうえに横たわっていることに気が付いた。
――夢か……。
ぐっしょりと汗にまみれた身体で、友部海斗は力なく独りごちた。
「大丈夫? 怖い夢を見ていたみたいね」
やさしい女性の声がする。海斗さん、海斗さん、と呼びかけていた声だ。
見ると、佳代子がベッド脇に立ち、手に黒い漆塗りの弁当箱を持ってほほ笑んでいる。
海斗は、一気に現実へと意識を引き戻された。
――そうか。
自分は交通事故に遭い、病院へ搬送されたのだ。
一命はとりとめたものの、全身打撲と両足の複雑骨折で身動きがとれない。ベッドに寝かされたまま、回復を待っている状態だ。
海斗には、事故当時の記憶がまったくなかった。中溝孝明市長の邸宅を出たところまでは覚えているが、次に気づいた時は病院のベッドの上だった。
その際、ベッド脇に奥平龍平と佳代子が立っていた。なぜか小松原という八王子署の若い刑事も一緒だった。
以来、佳代子は毎日正午に、手製の弁当をもって海斗の見舞いに訪れる。
「病院食じゃ味気ないでしょう」
と、担当医の許可を勝手に取り付けている。
いったい、どういうつもりなのだろう。海斗は彼女の行動をいぶかしんだ。
おいしい食事と親切心で海斗の心を掴み、篭絡して味方に引き入れようとの魂胆だろうか。
しかし今の彼女にはそんなことをするメリットはない。すでに奥平の籍に入り、龍平の遺産をひとり占めする権利を有している。むしろ海斗のほうが、奥平家の財産から切り離された存在だ。
とすると、純粋に親切心で毎日見舞いに来てくれていると考えるしかないではないか。
しかし、そんなことがあるだろうか。あるはずがない。
佳代子の狙いはいったい何だろう。
なぜ毎日、海斗に弁当を届けに来るのだろうか。
ドアの外では、小松原刑事が聞き耳を立てて、中の様子を窺っているはずだ。彼は、上司から海斗の様子を監視して逐一報告するよう命じられているようなのだ。別の刑事と交替で病室に張り付いている。
「ベッドを起こしますよ」
佳代子が慣れた手つきでリモコンを操作すると、海斗の上半身が徐々に起き上がっていく。彼女はテーブルをセットし、その上に弁当を置いた。
「さあ、召し上がれ。今日のおかずはネギとツナの卵焼きよ」
そういって、急須のお茶を湯飲みに注ぐ。
「毎日すいません」海斗は小さく頭をさげた。
「そんな他人行儀なこと、言わないの」まるで身内のような気安さで返す。
なぜ、これほど親切にしてくれるのだろう。正直、気味が悪い。
「今日は警察の事情聴取を受けるんでしょう。精をつけておかないと」
佳代子の言葉に、ああ、そうだった――と思い出した。
昨日、徳大寺刑事から電話があり、事情聴取の要請を受けたのだ。担当医と相談した結果、十五分間だけなら、という条件つきで応じることにした。何者かに命を狙われるという体験をしたことで、これ以上自分ひとりの力で事件の真相に迫るのは不可能だと感じていた。警察に自らが掴んだ情報を開示し、協力を仰ぐべきだろう。こうして病院のベッドで寝ている間にも、犯人はふたたび海斗の命を狙ってくるかもしれないのだ――。
しかし、そのためには、凌馬が桜織を殺したと勘違いして深夜にやってきたことや、桜織の死体を隠そうと雪乃とともに画策した事実など、こちらに不都合な真実も洗いざらい明かさなければならないだろう。その経緯を語らずして、事件の全体像はつかめない。
徳大寺刑事は果たしてどんな反応を示すだろうか。
市議会議員としての立場上、死体遺棄に加担しようとした事実が明るみに出れば、ただでは済むまい。警察が見逃してくれなければ、職を辞さねばならなくなるかもしれない。
それでも海斗は、警察にすべての情報を開示し、事件の真相を解き明かしてもらいたいと思っていた。そうでなければ、雪乃の魂が浮かばれない。
彼女を殺害した犯人をなんとしても割り出し、裁きにかけてほしかった。
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