妻の失踪

琉莉派

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第四章 二十二年前の事故

第三話 田中幸代の証言

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 翌日、鎧塚は市長の弟の元妻に会うため、榊原とともに吉祥寺へ向かった。

 彼女は現在の名を田中幸代たなかさちよという。警察からの電話に最初、戸惑いを覚えている様子だったが、事情をくわしく説明して聴取の要請をすると、

「明日なら時間を作れます」

 と快諾してくれ、今日の約束となった。

「家ではなんですから」

 ということで、吉祥寺駅近くの喫茶店を指定された。再婚し、高校生の娘がひとりいるという。

 サンロードと呼ばれる全蓋式アーケード商店街の中に、目指す喫茶店はあった。
 待ち合わせの十分前に着くと、田中幸代はすでに窓際の席に座って待っていた。四十代後半と思われる風貌で、皮膚は黒ずみ、髪はぱさついて、生活の疲れが首から上に如実に現われている。

「すみません。娘が帰ってくるとまずいと思って……。前の夫のことは、娘にはまったく話していないものですから」

 聴取場所に喫茶店を指定したことに、申し訳なさそうに何度もお辞儀をする。

「とんでもない。お時間を作っていただき感謝しています」

 鎧塚は丁寧に頭をさげた。

「さっそくですが、お電話でもお話ししたように、中溝孝明市長が所有しておられる『放課後の孤愁』についてお伺いしたいのです」

 挨拶もそこそこに本題を切り出した。

「丸刈りの男の子が、学校の教室の隅で泣いている絵ですよね」
「そうです。中溝市長によると、弟さんの形見分けとのことですが、間違いありませんか?」
「はい、孝明さんのおっしゃる通りです。潤の死後に……あっ……ジュンというのは前の旦那の名前ですけど……何枚かの絵画や骨董品が金庫の中から出てきたんです。それを兄弟や親戚の方々に形見分けという形で差し上げたのですが、孝明さんはあの一枚を選ばれたのです」

 彼女の話は、市長の説明と齟齬そごはなかった。

「前のご主人は、あの絵をどうやって手に入れたか、生前、おっしゃっていませんでしたか?」
「いいえ、何も聞いておりません。そもそも、あんな絵が家にあることすら、私は彼が死ぬまでまったく知らなかったんです」
「金庫の中には、あの絵以外にどんなものがありました?」
「たしか、風景画が数点と……他に大皿と抹茶茶碗が入っていたと思います。親戚の方に聞いていただければ分かるかと」
「前のご主人は、絵画や骨董に興味があったのですか?」
「さあ。私はまったく知りませんでした」

 田中幸代はいって、咳払いをひとつした。

「前のご主人の潤さんは、二十年前にお亡くなりになったと聞きましたが」
「二〇〇二年のことですから、正確には二十二年前になります。まだ三十一歳の若さでした」
「二〇〇二年……」

 鎧塚はその言葉に反応を示した。磯部裕也邸に三人組の強盗が押し入った年である。

「ご病気か何かで?」
「いいえ」
「事故ですか?」
「違います」

 と、首を振ったあと、怪訝そうに鎧塚を見た。

「孝明さんから、何もお聞きになっていないんですか?」
「死因については伺っていません」
「そうですか」

 田中幸代は少し意外そうな顔で首をかたむけたあと、一拍間を置いて口を開く。

「潤は、殺されたんです」
「……殺された?」

 鎧塚は思わずおうむ返しした。

「誰に殺されたんです?」
「分かりません」
「分からないって……事件は未解決ということですか?」
「そうです」

 鎧塚は榊原と顔を見合わせる。再び彼女に視線を向けた。

「差し支えなければ、その時の状況をくわしく話していただけませんか」

 田中幸代は小さくうなずいた。

「二〇〇二年の十二月七日のことです。私たちは当時、隅田区の本所に住んでいました。潤が夜の九時頃、『ちょっと出かけてくる』と言って外出したまま、零時近くになっても戻りませんでした。でも、そうしたことはしょっちゅうでしたから、またどこかのバーかスナックで深酒でもしているのだろうと考え、私は先に就寝しました。
 そうしたら、深夜一時すぎだったと思いますが、隅田警察署から電話がかかってきて、潤が江東橋公園で、全身をめった刺しにされて病院に担ぎ込まれたというではありませんか。私はびっくりして、すぐに病院へ駆けつけました。まだ息があるとのことでしたが、私が着いた時にはすでに意識がなく、数時間後に死亡が確認されました」

 田中幸代の言葉をメモ帳に書き留めながら、鎧塚は手が震えてくるのを覚えた。
 二〇〇二年十二月七日といえば、磯部陽子と海斗の両親が、埼玉県佐伯市の路上で交通事故死した日の前後にあたる。磯部陽子は十二月五日、海斗の両親は十二月十二日に亡くなっている。そのちょうど狭間に殺されたことになる。
 ただの偶然とは思えない。

「昨年のことですが、友部雪乃という若い女性が田中さんを訪ねてきませんでしたか?」
「ええ、いらっしゃいました。刑事さんと同じく、形見分けの絵のことをいろいろ聞かれました」
「彼女にも今と同じ話を――つまり、前のご主人が二〇〇二年十二月七日に殺された件を話しましたか?」
「はい、話しました」
「彼女は何かいっていましたか?」
「潤の写真があったら見せてほしいとおっしゃいました」
「写真を? ……で、見せたんですね」
「いいえ。潤の写真は、一枚も残っていないものですから……」
「まったくないんですか?」
「はい。全て処分致しました。正直、私たち、あまりうまくいっていなかったんです。結婚当初はまじめに働いてくれていたんですけど、悪い仲間と知り合って、楽をしてお金を稼ぐことばかり考えるようになってしまって……。孝明さんもほとほと困り果てていました。当時、孝明さんは八王子の市議会議員で、次の市長選での出馬を目指していらしたんですけど、政治家として上を目指すためには、ヤクザな弟の存在が足枷になっていました。それで事件当時、警察は孝明さんが潤を殺したのではないかと疑っていたくらいです」
「ちょっと待ってください」

 鎧塚は鋭い声を発した。

「警察は……中溝市長を容疑者とみていたんですか?」
「はい。孝明さんは何度も警察の事情聴取を受けて、精神的に相当まいっていらっしゃいました。妙な噂でも立ったら、選挙に響きますものね」
「で、最終的に容疑は晴れたんですね」

 確認するように訊いた。

「ええ。ただ……容疑が晴れたというよりも、証拠不十分で送検できなかったというのが本当のようです。捜査の縮小が決まるぎりぎりまで、警察は私のところに何度も来ては、孝明さんと潤の関係を根掘り葉掘り訊いていましたから」

 鎧塚は田中幸代の話に耳を傾けながら、脳裏で激しく思考を巡らせていた。
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