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第三章 指につばを吐いて描く
第九話 あの時の女
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その日の深夜、私は貝原に抱かれた。
滝沢と話した直後に、すでに気持ちは固まっていた。
彼は言った。
「君に心から期待している。もう一度百合亜が劇場で歌う姿を見てみたい――」
その言葉だけで充分だった。舞台でミミを演じるためなら、いかなる苦痛も受忍できる。どんな絶望も乗り越えてみせる。
不思議なもので、気持ちが切り替わると、あれほど無理だ、限界だと感じていた貝原の体臭やしつこい愛撫にも耐えることができた。
心の中で、「これは演技なのだ」と自分に言い聞かせる。
ロドルフォと別れ、愛してもいない中年の貴族の男に囲われている。そう。私はミミなのだ。
ミミの絶望と苦悩を舞台上で体現するためなら、この程度の恥辱が何だというのだ。ミミは不治の病に冒され死出の旅に発つが、私は命まで取られるわけじゃない。
気付くと私は、あえぎ声を立て、自ら腰を動かすことさえしていた。
役作りというより、貝原を懐柔するためだ。
貝原はこちらが拒絶すると途端に凶暴になるが、おとなしく受け入れている限りは優しく接してくれる。その性癖を利用して優位に立つことを目論んだ。油断させ、骨抜きにし、支配する。私は彼に犯されているのではなく、逆に利用しているのだ。そう思うことが自分の心を守る最後のプライドでもあった。
そして時が来れば――はっきりと決着をつけてやる。
彼の束縛から永遠に逃れ、なおかつキャリアを失わずに済む方法で。
そう。
――完全犯罪で殺すのだ。
米田やあずさの時のように衝動的に行動するのではなく、じっくりと計画を練り込んで遂行する。
そのためにも、今は貝原を手なずけておく必要があった。
「西條敦子の勘は正しいよ。俺も琴美が座長の新しい女だと睨んでる」
情事の後、ベッドで煙草をふかしながら貝原が言った。
私が敦子の話を伝え、感想を求めたことに対する回答だ。貝原は日頃から滝沢と身近で接しているため、内情を知っているのではないかと思い訊ねてみたのだ。
「証拠はあるの?」
「ここ一ヶ月ほど、二人が一緒のところをよく見かけたよ。稽古場の個室でも見たし、車で一緒に出ていくところも目撃している。以前はそれが片桐あずさだったのに、いつの間にか琴美に変わっていた」
「でも、それだけで……」
男女関係と断定することはできないのではないか。
「最初は単なる偶然と思ったさ。でも、座長がすでにあずさと別れたと聞いて、ピンときたんだ」
そう言うと、貝原はぐっと顔を接近させてきた。
「実は俺、見ちゃったんだよね」
「何を?」
「事件のあった日、つまりあずさが殺された日だけど、階段下で百合亜と会っただろ」
「ええ」
「その少し前に、あずさの楽屋から罵り合う声が聞こえてきたんだ。何かと思って見ていたら、中から琴美が飛び出してきた。物凄い形相だったよ」
「本当なの?」
琴美からは聞いていない話だった。
「喧嘩の内容までは聞こえなかったけど、滝沢を巡って言い争っていたのかもしれない」
貝原は突然閃いたように、「まてよ」と宙を睨んだ。
「なに?」
「ひょっとすると、あずさを殺害したのは琴美かもしれないぞ」
「え?」
私は驚いて目を見開いた。いったい何を言っているのだ、この男は。
「ちょっと待ってよ。あなたが殺したんじゃないの」
「あ」
しまった、という顔で貝原が顔をしかめた。悪戯がばれた子供のようなバツの悪い表情をしている。
「どういうことよ」
「いや、つまり……」
「あなたはやってないってこと?」
「ていうか……」
しどろもどろになる彼を見て、
「やってないのね」
確信して言った。
貝原は開き直ったような苦笑を浮かべ、
「そもそも百合亜が誤解して勝手に決め付けてきたんだろ。あなたがやったのね、って。だから俺はそうだって答えただけだ」
――なんということだ。
「じゃあ私たちは、どちらも無実ってことじゃない」
「百合亜は無実じゃないさ。あずさを実際に殴ってるんだから、傷害罪だ」
「でも殺してはいない」
「警察は信じない。俺が証言すりゃ一発で終わりさ」
なんという男だろう。私を性的に隷属させるために、あずさを殺したと嘘を言い、ずっと騙し続けてきたのだ。その常軌を逸した卑劣さに虫唾が走る。
「俺から逃れようったって絶対に無理だからな」
「そんなこと、考えてもいないわよ」
顔の前で手を振り、媚を売るように白い歯を見せてほほ笑んだ。
ふざけるな。
本当はそう怒鳴りつけてやりたい心境だった。
「嘘つけ」
貝原が見透かしたように怒声を発する。
「本当よ。今はラ・ボエームを成功させることで頭が一杯。あなたから逃げるエネルギーなんかないわ」
半分は本音だ。
「ま、確かに今日はいつになく従順だったな。あえぎ声まで立てて、愛すら感じたよ」
「いやだ、恥ずかしい」
私は艶めかしく身体をくねらせると、娼婦のように彼にしなだれかかった。
「最初は嫌で仕方なかったけど、身体が慣らされたみたい。いつの間にか情が移ってしまったのかもしれない」
自分でも吐き気がするような台詞をよどみなくすらすらと言った。計画は狡猾に進めなければならない。決して衝動的になってはいけないのだ。
「ずいぶん可愛いこと言ってくれるじゃないか」
右手を伸ばし、私の胸をまさぐった。
「もう一戦交えるかい?」
「そんなことより」
彼の手を掴んで胸から離すと、
「あなたが犯人じゃないとすると、一体誰があずさを殺したのかしら」
そのことに最大の関心があった。
貝原は、ふん、と鼻を鳴らし、考えるように右斜め上に視線を固定する。
「あの時、俺は倒れているあずさを見て、てっきり死んだものと考えたんだ。犯人は百合亜に違いないと思った。だから、ドアノブの指紋を拭き、凶器の置物を持って急いで楽屋を出た」
「その後に何者かが侵入して彼女を殺したってことね」
「そうなるな」
「一体、誰が」
「さあな」
貝原は口から煙草の煙を吐き出した。
「西條敦子か、滝沢か、それとも……」
「水原琴美」
言ってから、ぶるっと身体が震えた。
「その可能性が一番高い。西條敦子には完璧なアリバイがあるし、滝沢にしたって殺しまではしないだろう。何のメリットもないんだから」
「琴美にはあるってわけね」
「そりゃ、あるさ」
貝原は意味ありげな微笑を浮かべる。
「琴美はあずさが死んだためにアンダースタディーの座が転がり込んできた。ずっとあの役を一人で練習してたっていうのも考えてみればおかしな話だ。まるであずさが死ぬのをあらかじめ知っていたみたいじゃないか」
貝原は敦子と同じ推理をした。
「琴美は、ただ歌の勉強がしたかっただけよ」
「それで台詞やミザンスまで全部覚えるかい?」
「彼女の生真面目な性格を考えれば、そこまでやっても不思議はないわ」
それを聞いて貝原が噴き出した。
「なに?」
「どうしてそんなに琴美を庇うんだい」
「庇ってるわけじゃないわ。ただ、琴美が犯人だなんて信じられないだけ」
「本当は疑ってるんだろ、百合亜だって」
内心を見透かしたように言われ、一瞬、言葉に詰まった。
「疑いそうになる自分が嫌になるの。だって、本当に献身的に尽くしてくれたのよ。これ以上ないってくらい」
「それが君のためじゃなく、彼女自身のためだったとしたら?」
「つまり?」
「全ては芝居だったのさ。ミミ役を奪うための」
貝原は煙草を揉み消すと、上体を起こした。
「実はね、ちょっと思い出したことがあるんだよ」
胡坐をかき、記憶をまさぐるように腕組みをしてから言葉を続ける。
「あの時の女は、やはり琴美だったんじゃないかって」
「あの時の女?」
私は首をかしげた。
「ほら、百合亜が鮫島と焼肉デートをした夜があったろ。帰りに薄暗い公園脇の道を通っていて……」
「あっ」
不意に記憶が蘇った。暗がりで何者かに後をつけられ、脇道から飛び出してきた別の人物に道路へ突き飛ばされた。
「あの時のストーカーは、やっぱりあなただったのね」
疑問が一つ氷解した思いだった。
「人聞きの悪いこと言うなよ。心配して見守っててやっただけだろ。だいたい人の誘いを断っておいて、鮫島と二人で食事に出かけるなんて馬鹿にしてるぜ」
「そんなことより」
彼の発言を遮って続ける。
「あの時の女って……」
「ほら、脇道から飛び出してきて百合亜を道路に突き飛ばした女だよ」
「まさか、それが琴美だっていうの?」
全身に衝撃が走っていた。
「あの時ははっきり分からなかったが、今思い返すと背格好がそっくりだった。横顔のシルエットも、西洋人のように髙い鼻が特徴的だった。いずれも琴美と符合する。それに体操選手かと思うくらい身のこなしも俊敏だったよ。突き飛ばした後、すぐに身を翻して姿を消したからね。うちの劇団員は毎日ダンスレッスンをしてるから、身体能力は運動選手並みだ」
「確かなの? 本当に琴美だったの?」
声が裏返りそうなくらい高くなった。
「まず間違いない」
それでも私には信じられなかった。
琴美が私の命を狙った?
あの琴美が――。
まさか。
今までのけなげで献身的な姿が思い出される。どんな時も私を励まし、劇団内で唯一の味方であり続けてくれた。まるで実の妹のように思い、全てをさらけ出して接してきた。琴美だって、他人には決して話せないような暗い過去の秘密まで打ち明けてくれたじゃない。あれらは全て演技だったというの。
「でも、そう考えると全ての謎が解けると思わないか」
貝原はベッド上にあぐら座りをしたまま続ける。
「あいつのそもそもの狙いは、最初からミミを演じることだったんだよ。そのために百合亜の付き人に志願し、密かにミミの練習をして、頃合いを見てあずさも百合亜も亡き者にする。そうすれば自分に役が転がりこんでくるからね」
「でも、そんなことを……」
実際にするものだろうか。安手の推理小説じゃあるまいし、あの琴美がそんな大胆不敵な計画を立てるとはどうしても思えない。
「気をつけた方がいいぞ」
貝原が忠告するように言った。
「琴美が本気でミミを狙っているとしたら、次の標的は百合亜、君だよ。百合亜が存在する限り、彼女はミミを演じることはできない。必ず消しにかかるはずだ」
「消すって……」
「色んな方法があるさ。滝沢に擦り寄って君を降板させるとか、あずさ殺害の罪を被せるとか――。でもいずれの方法も成功しなければ、その時は最後の手段を講じてくるかもしれない」
「……つまり?」
ごくりと生唾を飲み込んだ。
「あずさに続いて百合亜までこの世を去れば、アンダースタディの琴美に当然容疑がかかる。しかし、そんなことは構わずやってくるかもしれない。すでに一人殺しているんだ。用心するに越したことはない」
滝沢と話した直後に、すでに気持ちは固まっていた。
彼は言った。
「君に心から期待している。もう一度百合亜が劇場で歌う姿を見てみたい――」
その言葉だけで充分だった。舞台でミミを演じるためなら、いかなる苦痛も受忍できる。どんな絶望も乗り越えてみせる。
不思議なもので、気持ちが切り替わると、あれほど無理だ、限界だと感じていた貝原の体臭やしつこい愛撫にも耐えることができた。
心の中で、「これは演技なのだ」と自分に言い聞かせる。
ロドルフォと別れ、愛してもいない中年の貴族の男に囲われている。そう。私はミミなのだ。
ミミの絶望と苦悩を舞台上で体現するためなら、この程度の恥辱が何だというのだ。ミミは不治の病に冒され死出の旅に発つが、私は命まで取られるわけじゃない。
気付くと私は、あえぎ声を立て、自ら腰を動かすことさえしていた。
役作りというより、貝原を懐柔するためだ。
貝原はこちらが拒絶すると途端に凶暴になるが、おとなしく受け入れている限りは優しく接してくれる。その性癖を利用して優位に立つことを目論んだ。油断させ、骨抜きにし、支配する。私は彼に犯されているのではなく、逆に利用しているのだ。そう思うことが自分の心を守る最後のプライドでもあった。
そして時が来れば――はっきりと決着をつけてやる。
彼の束縛から永遠に逃れ、なおかつキャリアを失わずに済む方法で。
そう。
――完全犯罪で殺すのだ。
米田やあずさの時のように衝動的に行動するのではなく、じっくりと計画を練り込んで遂行する。
そのためにも、今は貝原を手なずけておく必要があった。
「西條敦子の勘は正しいよ。俺も琴美が座長の新しい女だと睨んでる」
情事の後、ベッドで煙草をふかしながら貝原が言った。
私が敦子の話を伝え、感想を求めたことに対する回答だ。貝原は日頃から滝沢と身近で接しているため、内情を知っているのではないかと思い訊ねてみたのだ。
「証拠はあるの?」
「ここ一ヶ月ほど、二人が一緒のところをよく見かけたよ。稽古場の個室でも見たし、車で一緒に出ていくところも目撃している。以前はそれが片桐あずさだったのに、いつの間にか琴美に変わっていた」
「でも、それだけで……」
男女関係と断定することはできないのではないか。
「最初は単なる偶然と思ったさ。でも、座長がすでにあずさと別れたと聞いて、ピンときたんだ」
そう言うと、貝原はぐっと顔を接近させてきた。
「実は俺、見ちゃったんだよね」
「何を?」
「事件のあった日、つまりあずさが殺された日だけど、階段下で百合亜と会っただろ」
「ええ」
「その少し前に、あずさの楽屋から罵り合う声が聞こえてきたんだ。何かと思って見ていたら、中から琴美が飛び出してきた。物凄い形相だったよ」
「本当なの?」
琴美からは聞いていない話だった。
「喧嘩の内容までは聞こえなかったけど、滝沢を巡って言い争っていたのかもしれない」
貝原は突然閃いたように、「まてよ」と宙を睨んだ。
「なに?」
「ひょっとすると、あずさを殺害したのは琴美かもしれないぞ」
「え?」
私は驚いて目を見開いた。いったい何を言っているのだ、この男は。
「ちょっと待ってよ。あなたが殺したんじゃないの」
「あ」
しまった、という顔で貝原が顔をしかめた。悪戯がばれた子供のようなバツの悪い表情をしている。
「どういうことよ」
「いや、つまり……」
「あなたはやってないってこと?」
「ていうか……」
しどろもどろになる彼を見て、
「やってないのね」
確信して言った。
貝原は開き直ったような苦笑を浮かべ、
「そもそも百合亜が誤解して勝手に決め付けてきたんだろ。あなたがやったのね、って。だから俺はそうだって答えただけだ」
――なんということだ。
「じゃあ私たちは、どちらも無実ってことじゃない」
「百合亜は無実じゃないさ。あずさを実際に殴ってるんだから、傷害罪だ」
「でも殺してはいない」
「警察は信じない。俺が証言すりゃ一発で終わりさ」
なんという男だろう。私を性的に隷属させるために、あずさを殺したと嘘を言い、ずっと騙し続けてきたのだ。その常軌を逸した卑劣さに虫唾が走る。
「俺から逃れようったって絶対に無理だからな」
「そんなこと、考えてもいないわよ」
顔の前で手を振り、媚を売るように白い歯を見せてほほ笑んだ。
ふざけるな。
本当はそう怒鳴りつけてやりたい心境だった。
「嘘つけ」
貝原が見透かしたように怒声を発する。
「本当よ。今はラ・ボエームを成功させることで頭が一杯。あなたから逃げるエネルギーなんかないわ」
半分は本音だ。
「ま、確かに今日はいつになく従順だったな。あえぎ声まで立てて、愛すら感じたよ」
「いやだ、恥ずかしい」
私は艶めかしく身体をくねらせると、娼婦のように彼にしなだれかかった。
「最初は嫌で仕方なかったけど、身体が慣らされたみたい。いつの間にか情が移ってしまったのかもしれない」
自分でも吐き気がするような台詞をよどみなくすらすらと言った。計画は狡猾に進めなければならない。決して衝動的になってはいけないのだ。
「ずいぶん可愛いこと言ってくれるじゃないか」
右手を伸ばし、私の胸をまさぐった。
「もう一戦交えるかい?」
「そんなことより」
彼の手を掴んで胸から離すと、
「あなたが犯人じゃないとすると、一体誰があずさを殺したのかしら」
そのことに最大の関心があった。
貝原は、ふん、と鼻を鳴らし、考えるように右斜め上に視線を固定する。
「あの時、俺は倒れているあずさを見て、てっきり死んだものと考えたんだ。犯人は百合亜に違いないと思った。だから、ドアノブの指紋を拭き、凶器の置物を持って急いで楽屋を出た」
「その後に何者かが侵入して彼女を殺したってことね」
「そうなるな」
「一体、誰が」
「さあな」
貝原は口から煙草の煙を吐き出した。
「西條敦子か、滝沢か、それとも……」
「水原琴美」
言ってから、ぶるっと身体が震えた。
「その可能性が一番高い。西條敦子には完璧なアリバイがあるし、滝沢にしたって殺しまではしないだろう。何のメリットもないんだから」
「琴美にはあるってわけね」
「そりゃ、あるさ」
貝原は意味ありげな微笑を浮かべる。
「琴美はあずさが死んだためにアンダースタディーの座が転がり込んできた。ずっとあの役を一人で練習してたっていうのも考えてみればおかしな話だ。まるであずさが死ぬのをあらかじめ知っていたみたいじゃないか」
貝原は敦子と同じ推理をした。
「琴美は、ただ歌の勉強がしたかっただけよ」
「それで台詞やミザンスまで全部覚えるかい?」
「彼女の生真面目な性格を考えれば、そこまでやっても不思議はないわ」
それを聞いて貝原が噴き出した。
「なに?」
「どうしてそんなに琴美を庇うんだい」
「庇ってるわけじゃないわ。ただ、琴美が犯人だなんて信じられないだけ」
「本当は疑ってるんだろ、百合亜だって」
内心を見透かしたように言われ、一瞬、言葉に詰まった。
「疑いそうになる自分が嫌になるの。だって、本当に献身的に尽くしてくれたのよ。これ以上ないってくらい」
「それが君のためじゃなく、彼女自身のためだったとしたら?」
「つまり?」
「全ては芝居だったのさ。ミミ役を奪うための」
貝原は煙草を揉み消すと、上体を起こした。
「実はね、ちょっと思い出したことがあるんだよ」
胡坐をかき、記憶をまさぐるように腕組みをしてから言葉を続ける。
「あの時の女は、やはり琴美だったんじゃないかって」
「あの時の女?」
私は首をかしげた。
「ほら、百合亜が鮫島と焼肉デートをした夜があったろ。帰りに薄暗い公園脇の道を通っていて……」
「あっ」
不意に記憶が蘇った。暗がりで何者かに後をつけられ、脇道から飛び出してきた別の人物に道路へ突き飛ばされた。
「あの時のストーカーは、やっぱりあなただったのね」
疑問が一つ氷解した思いだった。
「人聞きの悪いこと言うなよ。心配して見守っててやっただけだろ。だいたい人の誘いを断っておいて、鮫島と二人で食事に出かけるなんて馬鹿にしてるぜ」
「そんなことより」
彼の発言を遮って続ける。
「あの時の女って……」
「ほら、脇道から飛び出してきて百合亜を道路に突き飛ばした女だよ」
「まさか、それが琴美だっていうの?」
全身に衝撃が走っていた。
「あの時ははっきり分からなかったが、今思い返すと背格好がそっくりだった。横顔のシルエットも、西洋人のように髙い鼻が特徴的だった。いずれも琴美と符合する。それに体操選手かと思うくらい身のこなしも俊敏だったよ。突き飛ばした後、すぐに身を翻して姿を消したからね。うちの劇団員は毎日ダンスレッスンをしてるから、身体能力は運動選手並みだ」
「確かなの? 本当に琴美だったの?」
声が裏返りそうなくらい高くなった。
「まず間違いない」
それでも私には信じられなかった。
琴美が私の命を狙った?
あの琴美が――。
まさか。
今までのけなげで献身的な姿が思い出される。どんな時も私を励まし、劇団内で唯一の味方であり続けてくれた。まるで実の妹のように思い、全てをさらけ出して接してきた。琴美だって、他人には決して話せないような暗い過去の秘密まで打ち明けてくれたじゃない。あれらは全て演技だったというの。
「でも、そう考えると全ての謎が解けると思わないか」
貝原はベッド上にあぐら座りをしたまま続ける。
「あいつのそもそもの狙いは、最初からミミを演じることだったんだよ。そのために百合亜の付き人に志願し、密かにミミの練習をして、頃合いを見てあずさも百合亜も亡き者にする。そうすれば自分に役が転がりこんでくるからね」
「でも、そんなことを……」
実際にするものだろうか。安手の推理小説じゃあるまいし、あの琴美がそんな大胆不敵な計画を立てるとはどうしても思えない。
「気をつけた方がいいぞ」
貝原が忠告するように言った。
「琴美が本気でミミを狙っているとしたら、次の標的は百合亜、君だよ。百合亜が存在する限り、彼女はミミを演じることはできない。必ず消しにかかるはずだ」
「消すって……」
「色んな方法があるさ。滝沢に擦り寄って君を降板させるとか、あずさ殺害の罪を被せるとか――。でもいずれの方法も成功しなければ、その時は最後の手段を講じてくるかもしれない」
「……つまり?」
ごくりと生唾を飲み込んだ。
「あずさに続いて百合亜までこの世を去れば、アンダースタディの琴美に当然容疑がかかる。しかし、そんなことは構わずやってくるかもしれない。すでに一人殺しているんだ。用心するに越したことはない」
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