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第二章 殺人

第十四話 二種類の女

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「元気を出してくださいね。これからは大手を振ってミミ役に専念してください」
「ええ、頑張るわ。琴美のためにも」

 赤ワインのグラスを手に、私たちはささやかな乾杯をした。テーブル上にはパスタやサラダとともに、イカメンチやほたての貝焼き味噌といった青森の郷土料理が並んでいる。
 私は貝焼き味噌が一口で気に入った。大きなホタテの貝殻を鍋代わりに使い、中にホタテや鶏卵、長ネギなどを入れて味噌で味付けしたものだ。

「なにこれ、すごくおいしい」初めての食感に思わずうなった。
「でしょう」琴美が嬉しそうに目を細める。「私も大好き。週に一度は作って食べてます」

 他の品々も手の込んだ、いずれも愛情のこもったものばかりだ。彼女のこまやかな心遣いが伝わってくる。

「大変だったでしょう、こんなに用意するの」
「いいえ、料理は好きですから」
「ありがとう」
「こちらこそ、いつも歌を教えていただいて感謝しています」

 なんて素直ないい子だろう。その優しさが嬉しかった。特に昨夜のような恥辱を受けた後は、人の好意がことさら身に沁みる。

 私たちはこの日、よく食べ、よく飲み、そしてよく語らった。友情に支えられた美しい時間が、貝原との悪夢を洗い流してくれるようだった。
 食事があらかた終わった頃、

「実は……」

 琴美が突然居住まいを正し、おずおずとした様子で切り出した。

「今日、百合亜さんをお招きしたのは、もう一つ理由があるんです」

 私は口元まで運んでいたワイングラスを静止させ、

「なに」

 と笑顔で問いかけた。

「ええ……」
 琴美は言い澱むようにして俯き、そのまま沈黙する。

「何よ。言いなさいよ」
 白い歯を見せ、安心させるように言った。 

「昨日……滝沢先生と一緒だったって言ったじゃないですか」
「ええ」

 私はワインを一口飲んでテーブルに戻した。

「敦子さんのことで警察から連絡があった時、同席していたんでしょう」
「はい」

 琴美は頷き、真剣な表情を作ると、

「その時に、先生からあるお話をいただいたんです」
「どんな?」
「とても言いにくいんですけど」再び俯き、もじもじしている。
「構わないわ。言いなさい」と先を急かす。
「ミミ役の、アンダースタディに入るように言われたんです」

 私は無言でワイングラスを手に取り、口元に持っていった。

「先生は、桜井さんから私がミザンス稽古で代役を務めていたことをお聞きになって、百合亜さんが不在の間使ってくださっていたんですけど、昨日突然呼ばれて、『今、アンダーが誰もいないから、入るように』って。『本来ならもっと格上の女優を使うべきだけど、時間がない』と」
「……そう」

 少しだけ酔いが醒めるような気持ちになった。

「私にはとても無理ですってお断りしたんですけど、これは命令だって仰って。だから私、百合亜さんに了解をいただかないと受けられません、ってお答えしました」
「なぜ?」

 あえて聞いてみた。

「なぜって……」琴美はしおらしい声で続けた。「だって、百合亜さんの付き人で稽古に入っているのに……その私がアンダーだなんて」
「私にキャスティング権はないわ。演出家がそうしろと言うなら、そうするしかないでしょう」

 険のある声にならないように気をつけて言った。

「……そうですけど」
「良かったじゃない。おめでとう」

 心を込めて言おうとしたが、言葉とは裏腹に声に棘が混じってしまった。別に怒っているわけではない。滝沢の指示は当然のことだ。アンダースタディは絶対に必要であり、現時点で台詞もミザンスも完璧に入っているのは琴美しかいない。他の見知らぬ女優にやらせるくらいなら、琴美がやってくれた方が私としてもうれしい。
 それでもつっけんどんな物言いになったのは、いわば女優としてのさがだ。女優という生き物は、自分の後を追ってくる若手に本能的に牙を剥く習性がある。単なる条件反射に過ぎない。

「やっぱり私、お断りします。明日、滝沢先生にそう言います」
「待ってよ。そんなことしたら、私がやめさせたみたいじゃない」
「でも……」
「私は気にしてないわ。受けなさい」

 すると琴美はもじもじと身体をくねらせ、

「本当にいいんですか?」

 真意を探るような眼差しで見てきた。

「いいも悪いもないわ。劇団は滝沢さんのものなんだもの。私にとやかく言う権利はない。でも言っておくけど、あなたの今の実力ではミミをこなすのは到底無理よ」
「分かってます。自分にできるなんて思っていません。滝沢先生も、今は他にいないから仕方なく私を指名してくださっただけです。別の女優さんがこれから稽古に入ると思いますし、その方が仕上がったら私はお払い箱ですよ」
「分かっていればよろしい」

 私は笑った。琴美もにっこりと顔をほころばせる。

「デザート切りますね」

 嬉しそうに言うと、テレビにちらりと視線をやった後、台所へ立った。

 私はワインに口をつけ、残りの食事に箸を伸ばした。
 ふと、テレビを見る。BS放送で、先程まではテレビショッピングを放映していたが、いつの間にか古い二時間ドラマに変わっている。サスペンスだ。高校の体育教師が学内で殺され、その一人娘が父の遺体と対面するシーンだった。何気なく見ていたが、

 ――あれ?

 思わず箸を止めて画面に釘付けになった。娘役の女優が泣きながら父親の遺体にすがりついている。見事な演技だ。だが釘付けになったのは演技に引き込まれたからではない。その女優に見覚えがあるのだ。今より数年若いと思われるが、くりっとした瞳と、鼻筋の通った高い鼻梁は変わっていない。

「これって……もしかして」

 台所に向かって声を発した。すると、

「ふふふ」

 笑いながら琴美が姿を現した。

「分かります?」
「そりゃ、分かるわよ」

 琴美と画面の女優を思わず見比べる。

「おととしまで芸能事務所に所属して活動していたんです」
「へえぇ」と画面に見入り、「琴美は映像向きの顔立ちだもんね」
「そうですかねえ」笑いながらキッチンへ戻っていく。
「それぞれのパーツが完璧に整っているもの。舞台女優って、どこか崩れた感じの顔が多いじゃない。きれいなんだけど、完璧ではないっていうか。アップに耐えられないっていうか」

 琴美は返事をしなかった。やがて切り分けられたメロンを手に台所から現れる。

「どうぞ」
「何でやめちゃったの、映像の仕事」
「何でって……」

 琴美はフォークを私に手渡しながら、

「私には合わないかなって思って」
「どうしてよ。すごくいいじゃない」

 テレビ画面に視線を移して言った。

「そんなことないですよ」
「これって、結構重要な役でしょう?」
「ちょい役です」
「続けていれば、スターになれたかもしれない」
「無理、無理」

 琴美は笑ってメロンを頬張った。

「百合亜さんも食べてください」

 私はフォークをメロンに突き立てた。

「やっぱり芝居の方がやりがいある?」
「そりゃ、もちろん。映像の演技って、しょせん切り貼りですから」
「まあね」とメロンを口に入れる。
「それに……」

 琴美がふと視線を遠くへ投げるようにして言った。

「芸能界って、一見華やかに見えるけど、裏では汚いことが多くて。それに嫌気が差したっていうのもありますね」
「どういうこと?」

 私は気になって訊いた。

「聞いても気が滅入るだけですよ」
「聞きたい」
「ふふ」

 琴美はメロンを口に運ぼうとするが、思いなおしたのか皿に戻し、ふと暗い目で呟いた。

「事務所に所属してすぐに売れる子はいいですよ。でも一年、二年と売れない日々が続くと、事務所としても厄介者扱いし始める。私もそんな一人でした。ある日、社長から呼ばれて一対一の面談を受けたんです」

 私はフォークを皿の上に戻した。

「社長は言いました。正攻法でやっていても仕事はもらえないぞって。私が、どういう意味ですか、って訊くと、じっと私の目を見つめながら、お前には武器があるだろう、って」
「武器?」
「その武器を使って営業活動しろって。本当に仕事が欲しいなら――」

 私は一瞬、考えてから、

「それって……まさか」

 琴美はこくりと頷いた。

「プロデューサーやスポンサー、それに局の幹部たちに、身体の接待をしろということです」
「嘘」

 私は思わず声を発した。

「本当にそんなことがあるんだ?」
「少なくとも、うちの事務所はやっていました」

 以前、韓国の有名な女優が事務所から「性接待」を強制され、それを苦に自殺するという事件があった。テレビのワイドショーで取り上げているのを見たことがあるが、芸能コメンテイターたちは口を揃えて「これは韓国特有の現象であって、今の日本には存在しない」と語っていた。
 それを言うと琴美はぷっと噴き出し、

「そんなの嘘っぱちですよ」

 とかぶりを振った。

「韓国で起こることは、日本でも起こるし、アメリカでも、ヨーロッパでも、中国でも起こる。アフリカにだってあるでしょう。当たり前のことです」

 私は黙って琴美を見つめた。

「華やかな世界というのは、欲望が渦巻く世界でもあるんです。使う側と使われる側の力の差は歴然です。そこでは、私たち若い女性タレントは欲望の対象と見なされます」

 琴美は唇を噛んだ。怒りが込み上げてくるのを必死に押さえつけているような顔だ。

「それで……」

 私は迷いながらも問いかけた。「あなたは、その社長の提案を受け入れたの?」 

 琴美はそれに答えず、代わりに壁に貼られた写真を見つめた。

「仕送りをしなきゃならなかったんですよ」
 
 私は振り返り、琴美と母親のツーショット写真を眺める。

「母は女手一つで私を育ててくれたんです。無理がたたったのか、身体を壊してしまって……。親戚の方がずっと援助してくださっていたんですけど、いつまでもそれに甘えているわけにもいかなくて」

 私は全てを理解した。

「でも、社長の言うとおりにしても仕事は思うように増えませんでした。一回の営業でもらえる仕事は一つだけ。次に繋がらないんです。次の仕事を得るためには、また営業しなくちゃならない。その繰り返しです。それが嫌で、お偉いさんの愛人になる子もいました。その方が手っ取り早いんです。でも私は、そういう気になれなくて……。一回きりの関係なら割り切れるけど、愛人になれば感情がからんでくるでしょう。でも一回きりの関係も度重なるとだんだん耐えられなくなってきて……。それで、実力だけで勝負できる演劇の世界へ行こうって決めたんです。親戚に、劇団明星の関係者がいたものですから」
「そうだったの」

 琴美は自嘲するように笑った。

「軽蔑しました? 私のこと」
「いいえ」かぶりを振る。
「売春婦のような真似をしていたんですよ」
「やむをえない時もあるわ」

 昨夜の貝原との交わりが脳裏でフラッシュした。

「百合亜さんには想像もつかない世界ですよね」
「……」
「才能と実力だけでこの世界を生き抜いてきたんですもの。うらやましいです。私もそんな風に生きたかった」
「まだ、これからじゃない。チャンスだってもらったんだし」
「でも、汚れてしまった自分は変えようがありません。もう元の私には戻れない」
「そんな風に考えちゃ駄目」

 琴美をまっすぐに見て叱りつけるように続ける。

「私たちは女優よ。舞台こそが全てなの。舞台で輝くためだったら、どんなことでも耐えられる」

 自分に言い聞かせるように言っていた。

「私だって、琴美の立場なら同じことをしたかもしれない」

 琴美は驚いたように私を見た。だが、すぐに白い歯を見せ、

「あり得ませんよ」
「え」
「そんな生き方、百合亜さんには絶対無理です」
「そんなことないわ。舞台のためだったら……」

 と言いかけて、昨夜の貝原の激しい息遣いを思い出し、思わず口を噤んだ。
 そんな私の様子を見て、

「女には、二種類あるんですよ」
 
 と琴美は言った。

「お金や仕事のためなら、好きでもない男と平気で肌を合わせられる女と、死んでも嫌だという女」

 私は琴美の目を見つめた。

「百合亜さんは――完全に後者です」
「そうね」

 素直に認めた。紛れもない事実だ。

「でも、こうも思うの」と、私は続ける。「いざとなれば、女は誰だって売春婦に身をやつすことができるのよ。その状況に追い込まれれば」

 琴美は考え込むように視線を落としたあと、

「そうかもしれませんね」

 と頷いた。

「でも、百合亜さんのような人は、間違いなく壊れてしまいますよ。私でさえ危なかったですから。やっている間は無我夢中ですけど、後からボディブローのように効いてきます。感覚が麻痺して何も感じなくなる人はいいけど、そうでない人は、次第に精神が蝕まれていく。あの韓国の女優さんも、きっとそうだったんでしょう。私は地獄から抜け出せて、心からほっとしています」

 冗談めかして笑おうとしたが、頬が引きつるのが自分でも分かった。


  
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