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第一章 ミュージカル界へ
第十八話 突然の通し
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翌日の稽古は、開始前から大騒ぎとなった。
朝のダンスレッスンを終え、昼食を済ませて稽古場に入ると、俳優たちが落ち着かない様子で口々に歌や台詞を復誦しており、見知らぬスタッフが音響機材を操作している。
突然、スピーカーから西條敦子の「チェック、チェック」という声が流れ出した。その後、短い台詞をいくつか喋っている。
「徳大寺さん」
音響機材の横に立つ桜井が私を呼んだ。
「すぐにマイクをつけてください。十分後に通しを開始します」
「え?」
と立ち尽くす私に、「急ぎましょう」と琴美が後ろから背中を押した。
私は音響スタッフからピンマイクをつけてもらいながら、
「どういうことですか?」
と桜井に訊いた。
「急に滝沢先生が入られることになったんです。ミザンスが出来上がっているなら見たいとおっしゃって」
滝沢が入るのは来週だと思っていたので少し焦った。だが私以上に慌てているのは桜井だろう。こわばった顔で、声がいつもより上擦っている。
「徳大寺さんは、ピンマイクを使用したことがありますか?」
「いいえ、ありません」
オーディションは生声による審査だったし、稽古もずっとマイクなしで行われていた。
「じゃあ、マイクテストの時間を長めに取りましょう。スピーカーからの返しの声をよく聞いてください。最初はちょっと戸惑うかもしれません」
滝沢が入ってきたのはきっかり十分後だった。
全員、滝沢の前に体育座りで整列し、咳払い一つ立てる者はいない。
滝沢はおもむろに専用のリクライニングチェアに腰をおろすと、手にしたキャスト表に視線を落とした。彼のめくる紙の擦れ合う音だけが静寂の中に響いている。
「今日は、B班からいこうか」
思いついたように言うと、顔を上げて一同を見渡す。
「はい」と全員が頷き、瞬時に二手に分かれた。
私は観覧席に向かいながら少しほっとした心持ちになっていた。
滝沢の前で演じるのは常に緊張を強いられる。劇団員たちの恐怖にこわばった顔つきが、こちらにまで伝播してくるのだ。
滝沢のお眼鏡にかなわない演技でもしようものなら、その場でクビを宣告される場合もあると琴美からは聞かされている。それだけに彼が入った稽古場は、一種異様な緊迫感を帯びる。
前回はそれもあってピッチや音色に僅かな狂いが生じてしまった。今回はそんなぶざまな醜態は晒せない。完璧な歌唱を披露して彼の度肝を抜いてみせる。
そのためには、片桐あずさの後に歌う方が格段に有利だ。圧倒的な力の差を、誰の目にも明らかな形で提示することができる。
「それでは、B班の通しを開始します。途中で止めませんので、ミスがあってもカバーし合って最後まで演じ切ってください」
桜井の声はここ十日あまりとは打って変わって、穏やかな丸みを帯びていた。
滝沢を前にした途端、忠実なしもべに逆戻りした感じだ。ここの劇団員たちの反応は実に分かりやすい。
桜井の合図で開幕の音楽が流れ、芝居がスタートした。
片桐あずさは登場時から自信に溢れていた。台詞は相変わらず流暢で、細やかな感情表現も決して人まねではない独自の斬新な抑揚が際立っていた。
手の動き一つで内面の葛藤を露わにするような肉体的表現にも目をみはるものがある。演技に関しては、確かに非の打ちどころがなかった。
だが、問題は歌である。
歌が始まれば必ず馬脚をあらわす。この作品がミュージカルである以上、その真価は歌によってこそ問われるのだ。
最初のソロナンバー「私はミミ」の前奏に差し掛かった時、私は目を閉じ、聴覚だけに意識を集中した。
〈私は貧しいお針子です〉
あずさの第一声が流れてきた瞬間、思わず閉じていた目をカッと見開いた。
その声が、まっすぐこちらに向かってグンと伸びてきたからだ。
振り絞られた弓から放たれた矢のように、私の胸に突き刺さった。
前回聴いた時とはまるで異なる印象だった。
――嘘。
正直、私はうろたえた。衝撃を受けていた。
――でも高音域はうまく出ないはず。
必死に自分に言い聞かせる。
〈それはつまり、詩という名で呼ばれているものです〉
前回は伴奏にかき消されてまったく聞こえなかった箇所だ。
しかし今回は、はっきりと、その情感まで含めて歌詞の内容が伝わってきた。
マイクの力だった。
蚊の鳴くようなか細い声が、マイクの力で何倍にも増強されたのだ。
私とあずさの間に存在していた圧倒的な声量差が、いとも簡単に埋められてしまった瞬間だった。
――卑怯よ。
思わず心の中で叫んだ。
心臓の鼓動が大きくなる。
しかし、それはほんの一瞬のことで、芝居が進むほどに私は徐々に落ち着きを取り戻していった。声量差を埋められたことに焦り、突然あずさが巨大な存在に映ったけれど、冷静になって聴くと、やはり私の敵ではない。ピッチも音程もまだまだ甘く、音色も単調で、なにより声に透明感がない。
あずさの歌はあくまで演歌であり、猫が絞め殺される時の声なのだ。
B班の通しが終わった時、私は完全に自信を取り戻していた。
「それじゃあ、A班と交代してください」
今度こそ完璧に演じ切ってやる。私は勇んで前に出た。琴美の指導で台詞に磨きがかかり、歌は音程も感情表現も全て仕上げてある。ミスさえ犯さなければ、あずさごときに負けるはずがない。
そして実際、私は完璧だった。
台詞は前回と比べものにならないほど滑らかになり、かつ役の気持ちを的確に表現し、課題だった相手役との交流も自在に出来たと思う。
歌では一つのミスもなく、透明で甘やかな美声が第一稽古場の空気をびんびんと震わせた。スピーカーから返ってくる自分の声に思わずうっとりするほどだった。
歌いながら自身の声に酔いしれていた。それはまさにミューズに選ばれた者のみが持つ天使の歌声といえた。
通しが終わった瞬間、私は得も言われぬ充足感に包まれた。
それは実に六年ぶりの感覚だった。
だからこそ、稽古後のダメ出しで、滝沢が発した言葉には耳を疑った。信じられない思いだった。
朝のダンスレッスンを終え、昼食を済ませて稽古場に入ると、俳優たちが落ち着かない様子で口々に歌や台詞を復誦しており、見知らぬスタッフが音響機材を操作している。
突然、スピーカーから西條敦子の「チェック、チェック」という声が流れ出した。その後、短い台詞をいくつか喋っている。
「徳大寺さん」
音響機材の横に立つ桜井が私を呼んだ。
「すぐにマイクをつけてください。十分後に通しを開始します」
「え?」
と立ち尽くす私に、「急ぎましょう」と琴美が後ろから背中を押した。
私は音響スタッフからピンマイクをつけてもらいながら、
「どういうことですか?」
と桜井に訊いた。
「急に滝沢先生が入られることになったんです。ミザンスが出来上がっているなら見たいとおっしゃって」
滝沢が入るのは来週だと思っていたので少し焦った。だが私以上に慌てているのは桜井だろう。こわばった顔で、声がいつもより上擦っている。
「徳大寺さんは、ピンマイクを使用したことがありますか?」
「いいえ、ありません」
オーディションは生声による審査だったし、稽古もずっとマイクなしで行われていた。
「じゃあ、マイクテストの時間を長めに取りましょう。スピーカーからの返しの声をよく聞いてください。最初はちょっと戸惑うかもしれません」
滝沢が入ってきたのはきっかり十分後だった。
全員、滝沢の前に体育座りで整列し、咳払い一つ立てる者はいない。
滝沢はおもむろに専用のリクライニングチェアに腰をおろすと、手にしたキャスト表に視線を落とした。彼のめくる紙の擦れ合う音だけが静寂の中に響いている。
「今日は、B班からいこうか」
思いついたように言うと、顔を上げて一同を見渡す。
「はい」と全員が頷き、瞬時に二手に分かれた。
私は観覧席に向かいながら少しほっとした心持ちになっていた。
滝沢の前で演じるのは常に緊張を強いられる。劇団員たちの恐怖にこわばった顔つきが、こちらにまで伝播してくるのだ。
滝沢のお眼鏡にかなわない演技でもしようものなら、その場でクビを宣告される場合もあると琴美からは聞かされている。それだけに彼が入った稽古場は、一種異様な緊迫感を帯びる。
前回はそれもあってピッチや音色に僅かな狂いが生じてしまった。今回はそんなぶざまな醜態は晒せない。完璧な歌唱を披露して彼の度肝を抜いてみせる。
そのためには、片桐あずさの後に歌う方が格段に有利だ。圧倒的な力の差を、誰の目にも明らかな形で提示することができる。
「それでは、B班の通しを開始します。途中で止めませんので、ミスがあってもカバーし合って最後まで演じ切ってください」
桜井の声はここ十日あまりとは打って変わって、穏やかな丸みを帯びていた。
滝沢を前にした途端、忠実なしもべに逆戻りした感じだ。ここの劇団員たちの反応は実に分かりやすい。
桜井の合図で開幕の音楽が流れ、芝居がスタートした。
片桐あずさは登場時から自信に溢れていた。台詞は相変わらず流暢で、細やかな感情表現も決して人まねではない独自の斬新な抑揚が際立っていた。
手の動き一つで内面の葛藤を露わにするような肉体的表現にも目をみはるものがある。演技に関しては、確かに非の打ちどころがなかった。
だが、問題は歌である。
歌が始まれば必ず馬脚をあらわす。この作品がミュージカルである以上、その真価は歌によってこそ問われるのだ。
最初のソロナンバー「私はミミ」の前奏に差し掛かった時、私は目を閉じ、聴覚だけに意識を集中した。
〈私は貧しいお針子です〉
あずさの第一声が流れてきた瞬間、思わず閉じていた目をカッと見開いた。
その声が、まっすぐこちらに向かってグンと伸びてきたからだ。
振り絞られた弓から放たれた矢のように、私の胸に突き刺さった。
前回聴いた時とはまるで異なる印象だった。
――嘘。
正直、私はうろたえた。衝撃を受けていた。
――でも高音域はうまく出ないはず。
必死に自分に言い聞かせる。
〈それはつまり、詩という名で呼ばれているものです〉
前回は伴奏にかき消されてまったく聞こえなかった箇所だ。
しかし今回は、はっきりと、その情感まで含めて歌詞の内容が伝わってきた。
マイクの力だった。
蚊の鳴くようなか細い声が、マイクの力で何倍にも増強されたのだ。
私とあずさの間に存在していた圧倒的な声量差が、いとも簡単に埋められてしまった瞬間だった。
――卑怯よ。
思わず心の中で叫んだ。
心臓の鼓動が大きくなる。
しかし、それはほんの一瞬のことで、芝居が進むほどに私は徐々に落ち着きを取り戻していった。声量差を埋められたことに焦り、突然あずさが巨大な存在に映ったけれど、冷静になって聴くと、やはり私の敵ではない。ピッチも音程もまだまだ甘く、音色も単調で、なにより声に透明感がない。
あずさの歌はあくまで演歌であり、猫が絞め殺される時の声なのだ。
B班の通しが終わった時、私は完全に自信を取り戻していた。
「それじゃあ、A班と交代してください」
今度こそ完璧に演じ切ってやる。私は勇んで前に出た。琴美の指導で台詞に磨きがかかり、歌は音程も感情表現も全て仕上げてある。ミスさえ犯さなければ、あずさごときに負けるはずがない。
そして実際、私は完璧だった。
台詞は前回と比べものにならないほど滑らかになり、かつ役の気持ちを的確に表現し、課題だった相手役との交流も自在に出来たと思う。
歌では一つのミスもなく、透明で甘やかな美声が第一稽古場の空気をびんびんと震わせた。スピーカーから返ってくる自分の声に思わずうっとりするほどだった。
歌いながら自身の声に酔いしれていた。それはまさにミューズに選ばれた者のみが持つ天使の歌声といえた。
通しが終わった瞬間、私は得も言われぬ充足感に包まれた。
それは実に六年ぶりの感覚だった。
だからこそ、稽古後のダメ出しで、滝沢が発した言葉には耳を疑った。信じられない思いだった。
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