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第一章 ミュージカル界へ
第十七話 疑惑
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「ごめんね、こんな夜遅くに」
そう言って、片方ヒールのとれた靴を脱ぎ、六畳一間とダイニングのこじんまりしたアパートに上がり込む。
「大丈夫ですか」
水原琴美が心配そうに訊いてきた。
靴下についた汚れを払っていると、
「そんなのいいですから、すぐにシャワーを浴びてください」
私はその言葉に甘え、破れた服を脱いでシャワーを借りた。
あの時――、
乗用車は急ブレーキと急ハンドルで、間一髪、私の鼻先をかすめるように停車した。
「危ないじゃないか!」
運転手が激昂した様子で車内から飛び出してきた。
「すいません。突き飛ばされたんです」
だが運転手は同情する素振りも見せず、
「突き飛ばされたぁ?」
と呆れたように口を開いた。「冗談言うな。あんたが勝手に飛び出してきたんだろ」
「違います。今……」
と歩道の方を指差したが、そこには誰もいない。
「俺はちゃんと見てたんだ。あんたが自分で車に向かって突っ込んできたんだよ」
「違います。誰かに追いかけられて、そしたらその角から人が飛び出してきて……」
「けっ。頭がいかれてるのか、あんた」
「本当です」
「自殺がしたいなら、よそでやってくれ。冗談じゃねえぜ、まったく」
捨て台詞を吐いて、運転手は車で走り去っていった。
私は破れた服や折れたハイヒールのままでは自宅に戻れないと、琴美に電話をして事情を説明した。彼女が劇団近くのアパートに住んでいることは知っていた。
「今、コーヒー淹れますから、座っててください」
ダイニングから琴美の声がした。
琴美から借りたスウェットの上下に着替え、六畳間に腰を降ろす。
ベッドとテレビとガラステーブルがあるだけの殺風景な室内。彩りとなっているのは、壁に貼られたたくさんの写真だ。舞台写真がほとんどだが、中に同じ中年女性と映ったものが数枚ある。背景は海岸だったり、田園風景だったり、古い木造家屋の前だったりして、いずれも田舎町を想起させる。
「これ、お母様?」
「え?」
ダイニングから声が返ってきた。
「壁の写真」
「ああ、そうです。田舎で撮ったやつです」
「どちらなの、田舎は」
「青森です。深浦っていうところ」
「へえ」
と写真に目をこらす。
「なんにもないところですよ。自慢できるのは、海に沈む夕陽くらいかな。本当にきれいなんです。別名、『夕陽が近い町』っていうくらいですから。少し足を延ばすと、白神山地とかもあるんですけど」
琴美がコーヒーを手に現れた。
「どうぞ」
「ありがとう」
琴美はテーブルを挟んだ向かいに腰を降ろすと、コーヒーに口をつけ、それから真顔になって私を見た。
「さっきの話ですけど、百合亜さんの仰ることが本当なら、殺人未遂ってことになりますね」
「そうよ。殺されかけたのよ、私は。でもあの運転手が私の話を信用せずに行ってしまったから、警察に届け出ることもできない」
「突き飛ばした人は、本当に片桐あずさだったんですか?」
「決まってるじゃない。他に誰がいるっていうの?」
「顔を見たんですか?」
一瞬、言葉につまったが、
「もちろん、見たわよ」と答えた。
「でも薄暗くて、突然横から飛び出してきたって仰ったじゃないですか。次の瞬間には道路に投げ出されていたって――。顔を見る余裕なんてなかったんじゃありませんか。本当に見たんですか?」
琴美の眼は細められ、疑心を帯びていた。
「分かったわ。認めるわよ」私は正直に言った。「顔までは見てない」
だがすぐに付け加える。
「でも他に考えられる? 私を殺したいほど憎んでいる人が、片桐あずさの他にいる? スニーカーをずたずたにしたい人なら他にもいるかもしれないけど、今回は殺人よ。片桐あずさ以外に誰が考えられるっていうのよ」
琴美は考え込むように目を伏せた。しばらくして、
「かりに突き飛ばしたのが片桐あずさだとして、後ろからつけてきた人物は誰なんでしょう」
私は琴美に、最初は何者かに後をつけられ、逃げようとしたところを別の誰かに殺されかけたと説明していた。
「貝原よ、舞台監督の貝原誠」
「二人が結託して百合亜さんを殺そうとしたということですか?」
「そうに違いないわ」
「ちょっと考えられませんね」
琴美は納得しかねるように言った。
それから少し考え込み、
「でも、後ろからつけてきたのは貝原さんかもしれません。前科がありますから」
「前科?」
「ええ。以前劇団の女の子にストーカー行為を繰り返して、その子がやめちゃったことがあるんです」
「まあ」
と私は声を上げた。
「どうして貝原はクビにならなかったの?」
劇団明星ほどの優良企業ならば、セクハラやパワハラに関する服務規程が当然定められているはずだ。
「滝沢先生に気に入られているんです。イエスマンで、汚れ仕事も厭わない。上の人の言うことは何でもきくから重宝がられて――。その代わり、自分より下の者にはすぐ居丈高になるんです。典型的な、虎の威を借る狐ですよ。俳優はみんな嫌ってます、あの人のこと」
私はふと考え、
「だったら決まりよ。貝原がそんな薄汚い奴だとしたらよ。私に冷たくされて頭にきて、片桐あずさに殺害計画をもちかけたのよ。あずさはそれに乗った」
「ありえませんね」
琴美はけんもほろろに否定した。
「貝原っていうのは信用のおけない人間です。頭のいいあずさがあんな奴を共犯者に選ぶはずがありません」
「じゃあ、どう考えたらいいの」
「私は、突き飛ばした犯人はあずさではないと思います」
「他に私を殺したい人間がいる?」
「いませんね」
「だったら……」
琴美は一瞬、躊躇した後、
「思い違いということはありませんか」
と控えめに訊いてきた。
「なんですって」
「つまり……百合亜さんが勘違いをしたというか……」
「どういう意味よ」
思わず睨みつけた。
「あなたまで私の頭がおかしいというの。自分で車道に飛び出しておいて、誰かに突き飛ばされたと言い張っていると」
「いえ、そうじゃありません」
琴美は慌ててかぶりを振った。
「そうじゃなくて、たとえばたまたま知らない人が飛び出してきたという可能性もあるじゃないですか。百合亜さんは全速力で走っていたんですよね。向こうも同じように走ってきて、出会いがしらにぶつかってしまった。まったくの偶然だったんです。そう考えるのが一番合理的だと思いますが」
私は琴美に不審の目を向けた。
「あなた、なんでそう片桐あずさの肩を持つの?」
「肩なんて持ってませんよ」
「この間のスニーカー事件の時も、あずさの仕業ではないと言ったわよね。西條敦子じゃないかって」
「ただそう思っただけです」
「なぜ?」
「あずさには、百合亜さんを襲う理由がないからです」
「そんなことないでしょう。今二人はミミ役を争っているのよ。ファーストキャストに選ばれた方に、スターの座が約束される」
「そうですけど……」
「私だって、あずささえいなくなればと思ったことは何度もあるわ」
「片桐あずさは、そう思っていないんです」
「なぜよ」
「絶対に自分が選ばれると確信しているからです」
「なんですって」
私は思わず眉根を寄せた。聞き捨てならない言葉だった。
「少なくとも彼女はそう信じています」
「どうして?」
「それは……」
琴美は顔を歪め、逡巡するように視線を泳がせた。「申し上げないほうがいいと思います」
私はカチンときた。
「そこまで言って黙るのは卑怯でしょう。言いなさい。なぜあずさがそう思っているか。あなたは私の付き人のはずよ!」
押し黙る琴美に執拗に迫った。
彼女は観念したように重い口を開く。
「これは絶対、私から聞いたと言わないでいただきたいんですが」
「口外しない。約束するわ」
「実は――、座内オーディション組と外部オーディション組を競わせ、ヒロインを決定するというやり方は、今回が初めてじゃないんです。十年前にも同じ手法が使われました」
「十年前?」
「ええ。西條敦子さんがスターダムにのし上がった『クレバー・ガール』という作品です」
「西條……」
西條敦子の冷たく険のある顔が脳裏に浮かんだ。その居丈高な物言いも。
「ブロードウェイで大ヒットしていたクレバー・ガールを上演するにあたって、大々的なヒロインオーディションを行ったんです。最終候補の二人に選ばれたのが、当時まったくの無名だった西條敦子さんと、テレビや映画で新進女優として売り出し中だった八千草香織さんでした。八千草さんはアイドル的人気を誇っていたこともあり、マスコミは二人の競争をこぞって取り上げました。そして最終的にファーストキャストに選抜されたのは……」
「西條敦子」
「はい」
琴美はこっくり頷いた。
「無名だった敦子さんは、一躍全国に名前を知られる存在になりました。それも宣伝費を一切使うことなくです。滝沢先生はその時、急逝した先代から劇団を引き継いだばかりだったのですが、『うまいことやったな』『芸術性じゃ劣るが、商売のやり方は先代より上だ』と各方面から揶揄されたものです。特に八千草香織のファンからは、ネット上でさんざん誹謗中傷されました」
「つまり……」
私は一拍置いてから口を開いた。
「オーディションは最初から出来レースだったってわけ? 西條敦子を売り出すための」
「劇団内にはそう思っている人が少なからずいます。片桐あずさもその一人です」
「そして今回も同じことが起こると?」
「誤解しないでください。これは噂に過ぎません。あずさはそれを信じているけど、私は違います。滝沢先生がそんなことをするはずがありません。第一、理由がないじゃありませんか」
「そうかしら」
私は冷ややかな声で言った。
「片桐あずさが自分の女なら、それぐらいするんじゃない?」
「え?」
「この前あなた言ったわよね。滝沢は西條敦子から片桐あずさに乗り換えた節があるって」
「ええ」
「それが事実なら、あずさをスターにするために多少のインチキくらいするでしょう」
「でも……」
「男って……そういう生き物よ」
琴美は沈黙した。
「そう考えたら、私は格好の当て馬かもしれないわね」
オーディションの時から現在に至るまでの経緯を、頭の中で冷静に振り返っていた。
「どういう意味です?」
「だってそうでしょう。今回は人気タレントを使うわけにいかない。プロダクション側も警戒するでしょうし、何よりファンが黙っていないわ、もし八千草香織の時のように利用されたと知ったら――。その点、私はファンもいなければ、プロダクションの後ろ盾もない。そのくせ六年前の事件のせいで知名度だけは抜群に高い。実際、いくつもの週刊誌や夕刊紙が面白おかしく今回のオーディションの件を書き立てているわ。宣伝効果はばっちりじゃない」
「考えすぎですよ」
琴美が笑った。
「あなたが言い出したのよ!」
思わず激昂した。身体がカッと熱くなる。
「私はただ、片桐あずさが百合亜さんを殺そうとする理由がないと、そのことを説明したまでです。滝沢先生は立派な方です。常に観客のことを第一に考えておられる。十年前も今回も、不正などないと信じたいです」
「……」
「その証拠に、今回はマスコミ向けのプレビューが設けられているじゃありませんか。ヒロインを決定する前に外部に公開されるんですよ。出来レースだったら、そんなことするはずありません。プレビューであずさを圧倒すればいいんです。完璧な歌唱力であずさを打ちのめすんです。そうなれば滝沢先生もあずさを選ぶわけにはいきませんよ。勝ってください、百合亜さん。そのためだったらどんなお手伝いでもします。私は心から百合亜さんにミミ役をゲットしてほしいんです。そのために付き人を買って出たのですから。本当です。二人三脚で、この戦いに勝利しましょう」
琴美の目には、うっすらと涙が滲んでいた。
その涙の意味するところは、はっきりとは分からない。けれど彼女が片桐あずさに敵意を抱き、同期としてこれ以上格差を広げられたくないと、嫉妬の炎を燃え上がらせているのは容易に想像がつく。
「あなたに言われなくても、あずさを完膚なきまでに叩きのめしてやるわ」
このオーディションが情実に左右されかねないことを知らされた今、私の中に憤怒の炎が燃え盛っていた。
そう言って、片方ヒールのとれた靴を脱ぎ、六畳一間とダイニングのこじんまりしたアパートに上がり込む。
「大丈夫ですか」
水原琴美が心配そうに訊いてきた。
靴下についた汚れを払っていると、
「そんなのいいですから、すぐにシャワーを浴びてください」
私はその言葉に甘え、破れた服を脱いでシャワーを借りた。
あの時――、
乗用車は急ブレーキと急ハンドルで、間一髪、私の鼻先をかすめるように停車した。
「危ないじゃないか!」
運転手が激昂した様子で車内から飛び出してきた。
「すいません。突き飛ばされたんです」
だが運転手は同情する素振りも見せず、
「突き飛ばされたぁ?」
と呆れたように口を開いた。「冗談言うな。あんたが勝手に飛び出してきたんだろ」
「違います。今……」
と歩道の方を指差したが、そこには誰もいない。
「俺はちゃんと見てたんだ。あんたが自分で車に向かって突っ込んできたんだよ」
「違います。誰かに追いかけられて、そしたらその角から人が飛び出してきて……」
「けっ。頭がいかれてるのか、あんた」
「本当です」
「自殺がしたいなら、よそでやってくれ。冗談じゃねえぜ、まったく」
捨て台詞を吐いて、運転手は車で走り去っていった。
私は破れた服や折れたハイヒールのままでは自宅に戻れないと、琴美に電話をして事情を説明した。彼女が劇団近くのアパートに住んでいることは知っていた。
「今、コーヒー淹れますから、座っててください」
ダイニングから琴美の声がした。
琴美から借りたスウェットの上下に着替え、六畳間に腰を降ろす。
ベッドとテレビとガラステーブルがあるだけの殺風景な室内。彩りとなっているのは、壁に貼られたたくさんの写真だ。舞台写真がほとんどだが、中に同じ中年女性と映ったものが数枚ある。背景は海岸だったり、田園風景だったり、古い木造家屋の前だったりして、いずれも田舎町を想起させる。
「これ、お母様?」
「え?」
ダイニングから声が返ってきた。
「壁の写真」
「ああ、そうです。田舎で撮ったやつです」
「どちらなの、田舎は」
「青森です。深浦っていうところ」
「へえ」
と写真に目をこらす。
「なんにもないところですよ。自慢できるのは、海に沈む夕陽くらいかな。本当にきれいなんです。別名、『夕陽が近い町』っていうくらいですから。少し足を延ばすと、白神山地とかもあるんですけど」
琴美がコーヒーを手に現れた。
「どうぞ」
「ありがとう」
琴美はテーブルを挟んだ向かいに腰を降ろすと、コーヒーに口をつけ、それから真顔になって私を見た。
「さっきの話ですけど、百合亜さんの仰ることが本当なら、殺人未遂ってことになりますね」
「そうよ。殺されかけたのよ、私は。でもあの運転手が私の話を信用せずに行ってしまったから、警察に届け出ることもできない」
「突き飛ばした人は、本当に片桐あずさだったんですか?」
「決まってるじゃない。他に誰がいるっていうの?」
「顔を見たんですか?」
一瞬、言葉につまったが、
「もちろん、見たわよ」と答えた。
「でも薄暗くて、突然横から飛び出してきたって仰ったじゃないですか。次の瞬間には道路に投げ出されていたって――。顔を見る余裕なんてなかったんじゃありませんか。本当に見たんですか?」
琴美の眼は細められ、疑心を帯びていた。
「分かったわ。認めるわよ」私は正直に言った。「顔までは見てない」
だがすぐに付け加える。
「でも他に考えられる? 私を殺したいほど憎んでいる人が、片桐あずさの他にいる? スニーカーをずたずたにしたい人なら他にもいるかもしれないけど、今回は殺人よ。片桐あずさ以外に誰が考えられるっていうのよ」
琴美は考え込むように目を伏せた。しばらくして、
「かりに突き飛ばしたのが片桐あずさだとして、後ろからつけてきた人物は誰なんでしょう」
私は琴美に、最初は何者かに後をつけられ、逃げようとしたところを別の誰かに殺されかけたと説明していた。
「貝原よ、舞台監督の貝原誠」
「二人が結託して百合亜さんを殺そうとしたということですか?」
「そうに違いないわ」
「ちょっと考えられませんね」
琴美は納得しかねるように言った。
それから少し考え込み、
「でも、後ろからつけてきたのは貝原さんかもしれません。前科がありますから」
「前科?」
「ええ。以前劇団の女の子にストーカー行為を繰り返して、その子がやめちゃったことがあるんです」
「まあ」
と私は声を上げた。
「どうして貝原はクビにならなかったの?」
劇団明星ほどの優良企業ならば、セクハラやパワハラに関する服務規程が当然定められているはずだ。
「滝沢先生に気に入られているんです。イエスマンで、汚れ仕事も厭わない。上の人の言うことは何でもきくから重宝がられて――。その代わり、自分より下の者にはすぐ居丈高になるんです。典型的な、虎の威を借る狐ですよ。俳優はみんな嫌ってます、あの人のこと」
私はふと考え、
「だったら決まりよ。貝原がそんな薄汚い奴だとしたらよ。私に冷たくされて頭にきて、片桐あずさに殺害計画をもちかけたのよ。あずさはそれに乗った」
「ありえませんね」
琴美はけんもほろろに否定した。
「貝原っていうのは信用のおけない人間です。頭のいいあずさがあんな奴を共犯者に選ぶはずがありません」
「じゃあ、どう考えたらいいの」
「私は、突き飛ばした犯人はあずさではないと思います」
「他に私を殺したい人間がいる?」
「いませんね」
「だったら……」
琴美は一瞬、躊躇した後、
「思い違いということはありませんか」
と控えめに訊いてきた。
「なんですって」
「つまり……百合亜さんが勘違いをしたというか……」
「どういう意味よ」
思わず睨みつけた。
「あなたまで私の頭がおかしいというの。自分で車道に飛び出しておいて、誰かに突き飛ばされたと言い張っていると」
「いえ、そうじゃありません」
琴美は慌ててかぶりを振った。
「そうじゃなくて、たとえばたまたま知らない人が飛び出してきたという可能性もあるじゃないですか。百合亜さんは全速力で走っていたんですよね。向こうも同じように走ってきて、出会いがしらにぶつかってしまった。まったくの偶然だったんです。そう考えるのが一番合理的だと思いますが」
私は琴美に不審の目を向けた。
「あなた、なんでそう片桐あずさの肩を持つの?」
「肩なんて持ってませんよ」
「この間のスニーカー事件の時も、あずさの仕業ではないと言ったわよね。西條敦子じゃないかって」
「ただそう思っただけです」
「なぜ?」
「あずさには、百合亜さんを襲う理由がないからです」
「そんなことないでしょう。今二人はミミ役を争っているのよ。ファーストキャストに選ばれた方に、スターの座が約束される」
「そうですけど……」
「私だって、あずささえいなくなればと思ったことは何度もあるわ」
「片桐あずさは、そう思っていないんです」
「なぜよ」
「絶対に自分が選ばれると確信しているからです」
「なんですって」
私は思わず眉根を寄せた。聞き捨てならない言葉だった。
「少なくとも彼女はそう信じています」
「どうして?」
「それは……」
琴美は顔を歪め、逡巡するように視線を泳がせた。「申し上げないほうがいいと思います」
私はカチンときた。
「そこまで言って黙るのは卑怯でしょう。言いなさい。なぜあずさがそう思っているか。あなたは私の付き人のはずよ!」
押し黙る琴美に執拗に迫った。
彼女は観念したように重い口を開く。
「これは絶対、私から聞いたと言わないでいただきたいんですが」
「口外しない。約束するわ」
「実は――、座内オーディション組と外部オーディション組を競わせ、ヒロインを決定するというやり方は、今回が初めてじゃないんです。十年前にも同じ手法が使われました」
「十年前?」
「ええ。西條敦子さんがスターダムにのし上がった『クレバー・ガール』という作品です」
「西條……」
西條敦子の冷たく険のある顔が脳裏に浮かんだ。その居丈高な物言いも。
「ブロードウェイで大ヒットしていたクレバー・ガールを上演するにあたって、大々的なヒロインオーディションを行ったんです。最終候補の二人に選ばれたのが、当時まったくの無名だった西條敦子さんと、テレビや映画で新進女優として売り出し中だった八千草香織さんでした。八千草さんはアイドル的人気を誇っていたこともあり、マスコミは二人の競争をこぞって取り上げました。そして最終的にファーストキャストに選抜されたのは……」
「西條敦子」
「はい」
琴美はこっくり頷いた。
「無名だった敦子さんは、一躍全国に名前を知られる存在になりました。それも宣伝費を一切使うことなくです。滝沢先生はその時、急逝した先代から劇団を引き継いだばかりだったのですが、『うまいことやったな』『芸術性じゃ劣るが、商売のやり方は先代より上だ』と各方面から揶揄されたものです。特に八千草香織のファンからは、ネット上でさんざん誹謗中傷されました」
「つまり……」
私は一拍置いてから口を開いた。
「オーディションは最初から出来レースだったってわけ? 西條敦子を売り出すための」
「劇団内にはそう思っている人が少なからずいます。片桐あずさもその一人です」
「そして今回も同じことが起こると?」
「誤解しないでください。これは噂に過ぎません。あずさはそれを信じているけど、私は違います。滝沢先生がそんなことをするはずがありません。第一、理由がないじゃありませんか」
「そうかしら」
私は冷ややかな声で言った。
「片桐あずさが自分の女なら、それぐらいするんじゃない?」
「え?」
「この前あなた言ったわよね。滝沢は西條敦子から片桐あずさに乗り換えた節があるって」
「ええ」
「それが事実なら、あずさをスターにするために多少のインチキくらいするでしょう」
「でも……」
「男って……そういう生き物よ」
琴美は沈黙した。
「そう考えたら、私は格好の当て馬かもしれないわね」
オーディションの時から現在に至るまでの経緯を、頭の中で冷静に振り返っていた。
「どういう意味です?」
「だってそうでしょう。今回は人気タレントを使うわけにいかない。プロダクション側も警戒するでしょうし、何よりファンが黙っていないわ、もし八千草香織の時のように利用されたと知ったら――。その点、私はファンもいなければ、プロダクションの後ろ盾もない。そのくせ六年前の事件のせいで知名度だけは抜群に高い。実際、いくつもの週刊誌や夕刊紙が面白おかしく今回のオーディションの件を書き立てているわ。宣伝効果はばっちりじゃない」
「考えすぎですよ」
琴美が笑った。
「あなたが言い出したのよ!」
思わず激昂した。身体がカッと熱くなる。
「私はただ、片桐あずさが百合亜さんを殺そうとする理由がないと、そのことを説明したまでです。滝沢先生は立派な方です。常に観客のことを第一に考えておられる。十年前も今回も、不正などないと信じたいです」
「……」
「その証拠に、今回はマスコミ向けのプレビューが設けられているじゃありませんか。ヒロインを決定する前に外部に公開されるんですよ。出来レースだったら、そんなことするはずありません。プレビューであずさを圧倒すればいいんです。完璧な歌唱力であずさを打ちのめすんです。そうなれば滝沢先生もあずさを選ぶわけにはいきませんよ。勝ってください、百合亜さん。そのためだったらどんなお手伝いでもします。私は心から百合亜さんにミミ役をゲットしてほしいんです。そのために付き人を買って出たのですから。本当です。二人三脚で、この戦いに勝利しましょう」
琴美の目には、うっすらと涙が滲んでいた。
その涙の意味するところは、はっきりとは分からない。けれど彼女が片桐あずさに敵意を抱き、同期としてこれ以上格差を広げられたくないと、嫉妬の炎を燃え上がらせているのは容易に想像がつく。
「あなたに言われなくても、あずさを完膚なきまでに叩きのめしてやるわ」
このオーディションが情実に左右されかねないことを知らされた今、私の中に憤怒の炎が燃え盛っていた。
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