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第一章 ミュージカル界へ
第三話 父の予言
しおりを挟む「しかし……今の百合亜に果たして耐えられるかな。新しい世界に飛び込むというのは、とてもストレスのかかるものだよ。ルールや手法だってまるで違うだろうし」
父は書斎のエグゼクティブチェアを反転させ、心配そうに言った。
父は銀行業界一筋に歩み続け、大手都銀の副頭取にまで上り詰めた人だ。今はリタイアしているが、様々な団体の顧問などを務めているようだ。
私は父の仕事内容をよく知らない。同様に父も私の仕事に関して造詣は深くない。
芸術全般に無知な人だ。
当然、母と話が合うはずがない。
私が大学を卒業して家を出た後、父は母と寝室を別にし、二階の部屋に移った。書斎も二階にあり、食事以外のほとんどの時間を二階で過ごしている。一階を縄張りとする母とは家庭内別居の状態である。
男と女はつくづく不思議なものだと思う。
若い日、二人は自分にないものを相手に求める。それが刺激であり、情熱の源である。しかし恋が愛へ転じ、やがて生活へと移行すると、相違はたちまち、いらだたしさに変貌する。
話がかみ合わず、ストレスだけが募り、かつての精神的一体感は消え失せてしまう。若い日に二人を結び付けたはずのものが、かえって足かせとなり、二人を引き裂いていくのだ。
我が家だけでなく、おそらく多くの家庭が似たようなものなのだろう。
男と女は悲しい。
母は、そんな悲しいもののために、芸術を犠牲にしたのだ。
もっとも、そのお蔭で私という人間がこの世に生を受けることが出来たのだけれど――。
「病院はちゃんと通っているのか」
父が訊ねた。
父は母と違い、いかなる時も温和な物腰を崩さない人だ。銀行マンという職業柄そうなったのか、元々の気質なのか分からない。分からないけれど、子供の頃から母がヒステリックに叫ぶ姿は目にしても、父が声を荒げる様は一度も見たことがない。常に穏やかに微笑んでいる人――それが父だ。
「今は定期的にお薬を貰いに行くだけ。先生ももう通常の生活に戻して大丈夫だって言っているし」
「だがお父さんは反対だな。本格復帰はもう二、三年待った方がいいと思う。慣れない環境で、しかも厳しい競争に晒されたら、早晩お前の神経は参ってしまうよ。今だってコンサートの誘いはあるわけだし、そういった仕事をゆっくりこなしていけばいいんじゃないか。金に困っているわけでもなし。友達と旅行へ行ったり、うまいものを食ったりして、人生をエンジョイするんだ。そういうことが、お父さんは大切だと思うな」
「うん……まあ、そうなんだけどね」
不思議と父には、口ごたえする気持ちになれない。しょせん門外漢だという思いがあるからだろう。父に芸術家の魂は理解できない。私のことを心配してくれる優しい気持ちだけを受け取っておこう。
「たとえ歌手として成功できなくたって、人間としての価値が劣るものじゃない。心身ともに健康であることが、一番の幸せなんだ。歌手として成功できたって、人間として壊れてしまったら、元も子もないじゃないか」
私は父の言葉を右から左へと聞き流した。
凡人の幸福論は、芸術家の魂に何ら影響をもたらすことはない。凡人と芸術家は、まるで別種の生き物なのだ。
だが後になって振り返ると、この時の父の忠告は、ある意味で正鵠を射ていたことが分かる。真理をついていたのだ。
しかしこの時の私は、歌手として復活することしか眼中になかった。
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