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第一章 ミュージカル界へ
第二話 あの人
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「ミュージカルですって!」
母が銀縁の眼鏡越しに、侮蔑の視線を投げつけてきた。
「あなた、気は確かなの?」
「ただオーディションを受けただけよ」
「悪魔に魂を売り渡す気?」
「悪魔って……そういう言い方はないでしょう」
案の定、母は私の決断を端から否定してかかった。ミュージカルを悪魔とまで罵って――。
「だって今の私は、歌だけじゃ生活できないのよ。時々小さなコンサートに呼ばれて、あとは学生相手に歌を教えるだけ」
「生活費くらい、出してあげます」
「そういう問題じゃないの」
「研鑽を積み重ねて、チャンスが訪れるのを待つの」
「無理よ。米田礼二が生きてる限り、誰も私を使おうとはしない」
「米田が死ねば状況が変わるわ」
「そんなの待ってられない。来年、私三十よ。このまま何もせずにお婆さんになっちゃう。そんなの耐えられない。それに米田が死んだって、誰も私を使わないわ」
「そんなことない」
「だって……あんな事件を起こしたのよ、私は」
六年前の忌まわしい記憶が脳裏に蘇り、全身が細かく振動した。
「こんな私を、オペラ界が起用すると思う? あの閉鎖的な世界の住人が、私にもう一度チャンスを与えると思う?」
「お前が真面目に精進を重ねれば……」
「無理よ!」
母の発言を遮って叫んだ。「無理なのよ」
「だからって……」
母は両手を握り締め、押し殺した声で言葉を継ぐ。「ミュージカルに逃げることは許されないよ」
「まだ決めたわけじゃないわ。三次選考の五人に残っただけで、合否も分からないし」
「お前は受かるよ」
母は断言した。
「合格するに決まってる。そしたら、出演する気なんだろ」
「……」
私は目線を落として、絨毯を見つめた。
「言っとくけどね、一旦ミュージカルの世界に行ったら、二度とオペラには戻れないよ」
「そんなこと分からないわ」
「分かるさ。演歌のような喉に負担のかかる歌を歌わされるんだよ。それも一週間に六回も七回も。おまけに台詞まで言わされるんだろ。いっぺんに喉が潰れちまう。長い間かけて作り上げたお前の黄金の喉が、二ヶ月か三ヶ月で木っ端微塵だ。二度とクラシックの世界に戻れやしないよ」
確かにそうなのだろう。これは片道切符の旅なのだ。元の地点に戻ることは許されない。また、その覚悟がなければ行ってはならない場所なのだ。
「でもお母さん、劇団はあの明星なのよ。日本一のミュージカル劇団」
「規模が日本一だろうと、芸術性はゼロだね」
「だったら私が芸術性を付与するわ」
「なに」
「ミュージカルの世界に、私が芸術の息吹を送り込む。本物の歌とは何かを見せつけてやる。――それにね、お母さん。演目はあの『ラ・ボエーム』なのよ」
「ラ・ボエーム?」
母の顔色が一瞬にして変化するのが分かった。
「そうよ。アンドリュー・ライトがミュージカル版を書き下ろしたの。ブロードウェイで二年以上ロングランを続けているわ」
母はかつて、私と同じソプラノ・リリコだった。
オペラ歌手の声種は、主に「高さ」と「太さ」によって規定される。女声は高い順に、ソプラノ、メゾ・ソプラノ、アルトの三つに区分され、同じソプラノでも声の太さによって太い順に、ドラマティコ、スピント、リリコ、レッジェーロに分かれている。厳密には、もっと細かく区分することも可能だ。
ソプラノ・リリコは、柔らかく抒情的で、かつ豊かな声量を求められるパートで、オペラではもっとも役柄の多い声質である。『フィガロの結婚』の伯爵夫人、『魔笛』のパミーナ、『カルメン』のミカエラなどが有名だ。
母は若い頃、天才的ソプラノ・リリコと騒がれ、二十九歳の時には、世界的なテノール歌手ホセ・モリエンテスから名指しで共演の指名が入った。それが『ラ・ボエーム』のミミだ。母が最も得意とした役で、世界的デビューへの足がかりとなる絶好のチャンスだった。
だがその準備中に、妊娠が発覚する。当時交際中だった父との間に子供が出来たのだ。
カトリック信者である母は堕胎に対する抵抗感が強く、迷った末に結婚・出産の道を選んだ。
ホセとの共演話は当然キャンセルとなった。
母はそれを一生悔やむことになる。
当時の母は、チャンスは今後いくらでもあると高をくくっていた。ところが出産が思わぬ難産となり、帝王切開の末に私を産み落としたものの、術後に合併症を引き起こし何ヶ月にもわたって体調不良に悩まされた。声の調子も微妙に狂ってしまった。その後完全復帰を果たすも海外からの夢のようなオファーは二度と巡ってこず、やがて加齢による声質の変化が訪れ、その声は太く重くなっていった。
もはや母はリリコではなくなった。
ミミを演じる機会は永遠に失われ、そして人々から忘れ去られていった。
「私はお前と引き換えに、名声を手放したんだよ」
子供の頃から、ことあるごとにそう言われて育ってきた。何千回、何万回と繰り返し植え付けられた台詞だ。もはやトラウマといってもいい。
だからラ・ボエームのミミは、母にとっても、私にとっても、特別な意味を持つ役柄なのだ。私がこれを完璧に演じ切ることで、母の失われた人生をも取り戻すことになる。
「でも、プッチーニの楽曲じゃないんだろ」
「当たり前よ。ミュージカルだもん」
「それじゃ、本物のラ・ボエームとは言えないよ」
と母は言った。だが、先程「悪魔に魂を売り渡す気」と叫んだ時とは微妙に声のトーンが違っていた。
ラ・ボエームは、以前「RENT」という名でミュージカル化されブロードウェイで大ヒットを記録し、映画化もされた。これは、舞台を現代に移し変え、麻薬や同性愛など今日的テーマを盛り込んだ、換骨奪胎の作品だ。
しかしアンドリュー・ライトの新作は、その名もずばり「ラ・ボエーム」。原作の時代背景やストーリーの骨格をそのままに、ミュージカルの形に移し変えている。エルトン・ジョン作曲の「アイーダ」と同じ手法である。
現代のプッチーニと謳われるアンドリュー・ライトが、ポップス界からミュージカル界に乗り込み次々傑作をものしているエルトン・ジョンに対抗すべく作った作品、と巷では言われている。
「演歌版のラ・ボエームをやったって、そんなもの手柄にはならないよ」
母はあくまでミュージカル界行きに反対した。
「でも、このままじゃ一生歌の先生で終わっちゃう」
私は思いのたけをぶつける。
「年老いて忘れ去られていくだけの人生なんて耐えられない。それじゃお母さんと同じじゃない。私にもお母さんと同じ道を歩めというの!」
「オペラを捨てたら、絶対後悔することになるんだよ」
「私だってミュージカルなんかやりたくない。本物のラ・ボエームを歌いたい。でも、できないのよ。やりたくても、できないの。お母さんならこの悔しい気持ち、分かるでしょ。実力がありながら陽の目を見ることなく消えていく。忘れ去られていく。その切なさ。悔しさ。やりきれなさ。――私はお母さんみたいに、それを他人のせいにして生きていきたくないの」
「私がいつ他人のせいに……」
「したじゃない!」
思わず大声を発していた。
「お前と引き換えに名声を手放したんだって、耳にたこができるくらい何度も何度も聞かされたわ。言われた子供がどういう気持ちになるか、考えたことある? 私は自分の子供にそんなことを言う人間には絶対なりたくない。だから年老いる前に、やれることは全て挑戦しておきたいの。あらゆる可能性に賭けてみたいの。お母さんが何と言おうと、私の人生は私が決める。これ以上、お母さんの指図は受けないわ!」
「……」
母は一瞬きっとした目でこちらを睨みつけたが、口を開くことはなく、やがて視線を外し、背を向けて近くの椅子に座りこんだ。そのまま一言も発しようとしない。
胸にチクリと針で刺されたような痛みが走ったが、構うものかと思った。これを言うためにわざわざ実家まで足を運んだのだ。母との精神的決別なしに――母からの自立なしに――ミュージカルの世界に飛び込んではいけない。
避けて通れない通過儀礼なのだ。
母から解き放たれることで、私は初めて片道切符の旅に発つことができる。
母が銀縁の眼鏡越しに、侮蔑の視線を投げつけてきた。
「あなた、気は確かなの?」
「ただオーディションを受けただけよ」
「悪魔に魂を売り渡す気?」
「悪魔って……そういう言い方はないでしょう」
案の定、母は私の決断を端から否定してかかった。ミュージカルを悪魔とまで罵って――。
「だって今の私は、歌だけじゃ生活できないのよ。時々小さなコンサートに呼ばれて、あとは学生相手に歌を教えるだけ」
「生活費くらい、出してあげます」
「そういう問題じゃないの」
「研鑽を積み重ねて、チャンスが訪れるのを待つの」
「無理よ。米田礼二が生きてる限り、誰も私を使おうとはしない」
「米田が死ねば状況が変わるわ」
「そんなの待ってられない。来年、私三十よ。このまま何もせずにお婆さんになっちゃう。そんなの耐えられない。それに米田が死んだって、誰も私を使わないわ」
「そんなことない」
「だって……あんな事件を起こしたのよ、私は」
六年前の忌まわしい記憶が脳裏に蘇り、全身が細かく振動した。
「こんな私を、オペラ界が起用すると思う? あの閉鎖的な世界の住人が、私にもう一度チャンスを与えると思う?」
「お前が真面目に精進を重ねれば……」
「無理よ!」
母の発言を遮って叫んだ。「無理なのよ」
「だからって……」
母は両手を握り締め、押し殺した声で言葉を継ぐ。「ミュージカルに逃げることは許されないよ」
「まだ決めたわけじゃないわ。三次選考の五人に残っただけで、合否も分からないし」
「お前は受かるよ」
母は断言した。
「合格するに決まってる。そしたら、出演する気なんだろ」
「……」
私は目線を落として、絨毯を見つめた。
「言っとくけどね、一旦ミュージカルの世界に行ったら、二度とオペラには戻れないよ」
「そんなこと分からないわ」
「分かるさ。演歌のような喉に負担のかかる歌を歌わされるんだよ。それも一週間に六回も七回も。おまけに台詞まで言わされるんだろ。いっぺんに喉が潰れちまう。長い間かけて作り上げたお前の黄金の喉が、二ヶ月か三ヶ月で木っ端微塵だ。二度とクラシックの世界に戻れやしないよ」
確かにそうなのだろう。これは片道切符の旅なのだ。元の地点に戻ることは許されない。また、その覚悟がなければ行ってはならない場所なのだ。
「でもお母さん、劇団はあの明星なのよ。日本一のミュージカル劇団」
「規模が日本一だろうと、芸術性はゼロだね」
「だったら私が芸術性を付与するわ」
「なに」
「ミュージカルの世界に、私が芸術の息吹を送り込む。本物の歌とは何かを見せつけてやる。――それにね、お母さん。演目はあの『ラ・ボエーム』なのよ」
「ラ・ボエーム?」
母の顔色が一瞬にして変化するのが分かった。
「そうよ。アンドリュー・ライトがミュージカル版を書き下ろしたの。ブロードウェイで二年以上ロングランを続けているわ」
母はかつて、私と同じソプラノ・リリコだった。
オペラ歌手の声種は、主に「高さ」と「太さ」によって規定される。女声は高い順に、ソプラノ、メゾ・ソプラノ、アルトの三つに区分され、同じソプラノでも声の太さによって太い順に、ドラマティコ、スピント、リリコ、レッジェーロに分かれている。厳密には、もっと細かく区分することも可能だ。
ソプラノ・リリコは、柔らかく抒情的で、かつ豊かな声量を求められるパートで、オペラではもっとも役柄の多い声質である。『フィガロの結婚』の伯爵夫人、『魔笛』のパミーナ、『カルメン』のミカエラなどが有名だ。
母は若い頃、天才的ソプラノ・リリコと騒がれ、二十九歳の時には、世界的なテノール歌手ホセ・モリエンテスから名指しで共演の指名が入った。それが『ラ・ボエーム』のミミだ。母が最も得意とした役で、世界的デビューへの足がかりとなる絶好のチャンスだった。
だがその準備中に、妊娠が発覚する。当時交際中だった父との間に子供が出来たのだ。
カトリック信者である母は堕胎に対する抵抗感が強く、迷った末に結婚・出産の道を選んだ。
ホセとの共演話は当然キャンセルとなった。
母はそれを一生悔やむことになる。
当時の母は、チャンスは今後いくらでもあると高をくくっていた。ところが出産が思わぬ難産となり、帝王切開の末に私を産み落としたものの、術後に合併症を引き起こし何ヶ月にもわたって体調不良に悩まされた。声の調子も微妙に狂ってしまった。その後完全復帰を果たすも海外からの夢のようなオファーは二度と巡ってこず、やがて加齢による声質の変化が訪れ、その声は太く重くなっていった。
もはや母はリリコではなくなった。
ミミを演じる機会は永遠に失われ、そして人々から忘れ去られていった。
「私はお前と引き換えに、名声を手放したんだよ」
子供の頃から、ことあるごとにそう言われて育ってきた。何千回、何万回と繰り返し植え付けられた台詞だ。もはやトラウマといってもいい。
だからラ・ボエームのミミは、母にとっても、私にとっても、特別な意味を持つ役柄なのだ。私がこれを完璧に演じ切ることで、母の失われた人生をも取り戻すことになる。
「でも、プッチーニの楽曲じゃないんだろ」
「当たり前よ。ミュージカルだもん」
「それじゃ、本物のラ・ボエームとは言えないよ」
と母は言った。だが、先程「悪魔に魂を売り渡す気」と叫んだ時とは微妙に声のトーンが違っていた。
ラ・ボエームは、以前「RENT」という名でミュージカル化されブロードウェイで大ヒットを記録し、映画化もされた。これは、舞台を現代に移し変え、麻薬や同性愛など今日的テーマを盛り込んだ、換骨奪胎の作品だ。
しかしアンドリュー・ライトの新作は、その名もずばり「ラ・ボエーム」。原作の時代背景やストーリーの骨格をそのままに、ミュージカルの形に移し変えている。エルトン・ジョン作曲の「アイーダ」と同じ手法である。
現代のプッチーニと謳われるアンドリュー・ライトが、ポップス界からミュージカル界に乗り込み次々傑作をものしているエルトン・ジョンに対抗すべく作った作品、と巷では言われている。
「演歌版のラ・ボエームをやったって、そんなもの手柄にはならないよ」
母はあくまでミュージカル界行きに反対した。
「でも、このままじゃ一生歌の先生で終わっちゃう」
私は思いのたけをぶつける。
「年老いて忘れ去られていくだけの人生なんて耐えられない。それじゃお母さんと同じじゃない。私にもお母さんと同じ道を歩めというの!」
「オペラを捨てたら、絶対後悔することになるんだよ」
「私だってミュージカルなんかやりたくない。本物のラ・ボエームを歌いたい。でも、できないのよ。やりたくても、できないの。お母さんならこの悔しい気持ち、分かるでしょ。実力がありながら陽の目を見ることなく消えていく。忘れ去られていく。その切なさ。悔しさ。やりきれなさ。――私はお母さんみたいに、それを他人のせいにして生きていきたくないの」
「私がいつ他人のせいに……」
「したじゃない!」
思わず大声を発していた。
「お前と引き換えに名声を手放したんだって、耳にたこができるくらい何度も何度も聞かされたわ。言われた子供がどういう気持ちになるか、考えたことある? 私は自分の子供にそんなことを言う人間には絶対なりたくない。だから年老いる前に、やれることは全て挑戦しておきたいの。あらゆる可能性に賭けてみたいの。お母さんが何と言おうと、私の人生は私が決める。これ以上、お母さんの指図は受けないわ!」
「……」
母は一瞬きっとした目でこちらを睨みつけたが、口を開くことはなく、やがて視線を外し、背を向けて近くの椅子に座りこんだ。そのまま一言も発しようとしない。
胸にチクリと針で刺されたような痛みが走ったが、構うものかと思った。これを言うためにわざわざ実家まで足を運んだのだ。母との精神的決別なしに――母からの自立なしに――ミュージカルの世界に飛び込んではいけない。
避けて通れない通過儀礼なのだ。
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