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第二章 攘夷奉答
第三話 家茂の涙
しおりを挟む孝明天皇の正式な勅命が鷹司関白を通じて幕府に下されたのは、三月十七日のこと。
内容は――、
〈将軍家茂は京都で攘夷の具体的作戦を立案し、生麦事件の賠償と犯人引渡しを求める英艦隊に対しては、摂海(大阪湾)に呼びつけ、断固として要求を拒絶せよ。万一戦争が起こった場合は将軍自らが指揮を執れ〉
幕府をがけっぷちに追い詰める、渾身の最後通告と言えた。
若き将軍が恐慌に陥ったのは言うまでもない。
「どうしよう、慶喜殿。どうすればいい」
年上の後見役に縋るように訊ねる。
家茂の心理的負担はこの時、極限に達していた。
英国艦隊からは、五月四日までに賠償金を支払わなければ砲撃を開始する、と通告を突きつけられている。
「弱りましたな」
慶喜とて、妙案は見出せなかった。
「逃げよう」家茂が言った。
「は?」
「京から逃げるのじゃ」
三月二十一日。
家茂は一方的に「二日後に帰府する」と公布し、強引に行列の一部を出発させた。具体的行動を起こせば、朝廷も諦めるのではないかと思ったのだ。しかし、すぐに宮中から呼び出しがかかり、「将軍は滞京せよ」との勅命が下った。
「勅命など無視して強引に突破する」
駄々っ子のように言い張る家茂だったが、慶喜や容保ら幕閣による必死の引き止めにあう。
帰東を思いとどまらなければ、将軍は勅命にそむいた逆賊になってしまう。そうなれば長州の思う壺。倒幕の烽火は西国の各所で燃え上がるだろう。
家茂は泣いた。
一人、さめざめと、悔し涙を流した。
「予は正しいのに――、間違っているのは朝廷や長州の方なのに――」
退路を断たれ、袋小路に追い詰められた家茂は、四月二十日、ついに観念したように、
「勅命に従い、五月十日より摂海にて攘夷を実行いたします」
と天皇に奉答した。
もはやそれ以外に採るべき策はなかった。やけくそだった。どうとでもなれだ。
「国が滅んでも、予は知らん!」
以来、二条城内の自室に閉じ篭もり、統治者としての職務を放棄した。
五月十日に日本国は滅亡する。構うものか。
家茂は国家の先行きについて考えることをやめてしまった。
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