砂の種

晴日青

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***

 朝、彼は目を覚ました。
 と言っても、自分から夢の世界を後にしたわけではない。
 何度か肩を叩かれた記憶はあるが完全には目覚めなかった。
 そうしてうつらうつら夢と現実をさまよっているうちに水をかけられ、それからやっと目を覚ましたのだ。
 髪から垂れる雫を振り払いながら、頭を上げると見覚えのある姿が目に入る。
 決まり悪そうに彼を見つめていたのは昨夜の少女だった。
 肩までの髪は変わらず、黒に見えた髪は朝日の明るさの中でも黒のままだった。
 乾燥した気候のせいか、全体的にぱさついて見える。対照的に、黒い瞳は濡れたかのような艶を含んでいた。

「濡らしちゃってごめんなさい。あんまりにも起きないものだから……。どうしてこんなところで寝ているの?」

 昨日よりも友好的な雰囲気に、彼は少し疑問を覚えつつ、気が付いたら朝になっていたのだとやや頭の悪い答えを返した。
 少女自身、昨日のことがまだ燻ぶっていたのか、彼の言葉に肩の力が抜けたのが分かる。

「まだここにいるとは思わなかったけど、昨日の、その、謝らなくちゃと思って」
「いや、僕も君のことを知らないのに言い過ぎた」

 それを聞いて、少女が表情を緩めた。
 安心したように目を細めてから、いそいそと彼の隣に座り込む。
 昨夜のことがあったのに、ずいぶん人懐こい性格をしているらしい。
 少女はその場に身を落ち着けると、囁くように話し出した。

「私、ビゼルって言うの」
「『種』?」
「そう、種って意味」

 少女、ビゼルは少し笑う。
 やや沈黙があって、何かを訴えるようにビゼルは彼を見上げた。
 名乗りを促されているのだと気が付いて、困ったように彼は口を開いた。

「記憶がないんだ。だから名前も分からない」
「……少しでも覚えていることはないの? 何かの名前でも、景色でも、人でも」

 そういえば記憶を失ったと分かってからそんな風に自分の中を探ったことはなかった。
 目を閉じて空白の記憶を辿っていく。
 思い出せそうで思い出せない。浮かんだ何かを掴もうとしたときにはもう消えている。何度か記憶を掴み損ねてやっとひとつ見つけ出し、消えてしまう前に口に出していた。

「アザリー」

 ビゼルが首を傾げる。首を傾げたいのは彼もまた同じだったが、思い浮かんでしまったものはそれ以外にない。
 今のところ、別の言葉が浮かびそうにはなかった。

「それは……名前?」

 永遠、という意味を持つ言葉。
 何かの名前とは思えなかった。
 ビゼルも同じ感想を抱いたらしく、少し悩む様子を見せる。
 それを目の端に映しながら、分からない、と彼は小さく呟いた。

「うーん……。でも、あなたに関係のあることなのよね」

 完全に視界に入っているわけではないため、彼女がどんな表情を浮かべているかは分からない。
 だが、真剣に考えてくれているのだろうとは思う。
 呟きを受けて彼が頷くと、じゃあ、と手を叩いてビゼルは言った。

「私、あなたをアザリーって呼ぶことにする。何回も耳にしていれば、そのうち記憶と繋がるかもしれないし」

 一理ある。
 アザリー、と彼はもう一度口にしてみたが特に記憶とは結び付かない。
 いつか唐突に思い出してしまうのだろうか。本当の名前も、本当の自分も。そうすれば今の自分はどうなるのだろう。
 それは決して間違っていることではないのに、背筋にぞっとしたものが走った。
 おかしな話だが、過去を思い出すのが怖かった。

「ねえ、どうしてこの町に来ようと思ったの?」
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