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第九話

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 本当にぎりぎりの瞬間でティアリーゼはシュクルの前に飛び出た。
 背後には縮こまる兄の姿があるのを感じながら、巨大な竜と相対する。

「もう、やめましょう?」

 ぐるる、とシュクルが唸る。
 その喉が大気を震わせた。

「なぜ?」

 この姿でも話ができるのかと少しだけ安堵する。
 同時にうすら寒くなった。
 やはりシュクルは冷静に――人間を殺していたのだ。

「お前は三度裏切られた。なぜ、許してやる必要がある」
「私の家族なの。たとえ、ひどい人でも」
「家族の大切さなど、私にはわからない」

 どうシュクルを諭すかが思いつかない。
 獣の意思は固かった。

「わからないなら私が教えるわ。あなたにも家族をあげる。子供だってたくさん産んであげるから」
「……いらない」

 小さな人間を前にして、竜が退いた。

「私はお前を捕らえたいわけではない」

(……ああ)

 どういう意味なのかを聞く必要はなかった。
 ティアリーゼはシュクルと何度も会話してきている。

「逆らったら殺されると思って、妻になることを承諾しているわけじゃないのよ」

 これだけの惨事を生み出しておきながら、シュクルは怯えていた。
 その証拠に長い尾がへたってしまっている。

「あなたが好きだから、言っているの」

 退いてしまう前に足を踏み出す。
 そして、ティアリーゼは血と煤にまみれたシュクルの首を抱き締めた。

「私もそろそろ倒れそうなの。その前に連れ帰ってくれる?」
「…………いいのか」
「なにが?」
「私は思っていたよりも人間を殺すのが好きだ。今、知った」
「……聞かなかったことにするわね」
「わからない」

 そう言ったシュクルの声はいつも通りに聞こえた。
 そのことにほっとして、ゆっくり息をする。

「帰りましょう」
「……お前がそれを望むなら」

 シュクルが頭を下げる。
 乗れ、と促され、ティアリーゼはこわごわその鼻先から頭の上へよじ登った。
 動くたびに背中が痛んで、歯を食いしばる。
 ぱちぱちと爆ぜる炎の中から、生き残った兵たちがティアリーゼを仰ぎ見ていた。
 その全員に向かって言い放つ。

「魔王を滅ぼしたいのなら、正々堂々と――勇者として城に来ればいい。そのときは、かつて勇者と呼ばれた私も相手をするわ」

 同じ人間だからといって手加減はしない、と言外に込める。
 そうして最後に眼下の兄を見やった。

(道は違えど、人を想う気持ちは同じなのだと思う。だから――)

 この国をよろしくと言おうとしたティアリーゼの目の前で、シュクルがふっと炎を吐いた。

(……え)

 炎が消えたとき、そこにはなにも残っていなかった。
 黒く焦げた炭がいくつか。
 最初から人間などいなかったかのように。

「今が一番、気持ちいい」
「なんてことを……!」
「殺さないとは言わなかった」
「だからって、こんな――」

(……っう)

 くらりと目の前が揺れ、一気に視界が暗くなっていく。
 衝撃が強すぎたのと、いい加減限界が来ていたのとで意識を保てなくなったのだろう。

(人間の常識が通じる相手じゃないんだわ……)

 それ以上は本当に無理だった。
 ティアリーゼは意識を失い、シュクルの頭上に倒れ込む。
 それを察したシュクルは慎重に飛び上がった。
 傷付いた翼をはためかせ、敢えて残しておいた兵に言う。

「白蜥の魔王の所業を末永く語り継ぐがいい。街を焼き、勇者を殺し――この国の姫を攫ったと」

 今度こそシュクルは飛び立つ。
 その姿はやがて遠ざかり、見えなくなっていった。
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