22 / 57
第五話
2
しおりを挟む
「……砕けたらどうする?」
「そうなる前に痛いって言うわ。それに、ずいぶん心配してくれているようだけど、そこまで気にしなくていいのよ」
わざと明るく言い、シュクルの手を握る。
「これでも人間の中では丈夫な方なの。勇者って呼ばれていたこと、知っているでしょう?」
「……知っている」
こく、と頷いたシュクルがティアリーゼの背中に腕を回す。
長い髪がティアリーゼの輪郭を撫でるように滑っていった。
よほど緊張しているのか、抱き締めているのに距離がある。
身体をこわばらせたシュクルを少し笑って、ティアリーゼは優しく抱き締め返した。
「もう少し力を入れても平気。あなたがそうしたいなら、だけど」
「試してみよう」
少しずつ、本当に少しずつ距離が縮まっていく。
寄りかかったり甘えてきたり、それとは違う距離の縮め方だった。
なにとなしに呼吸して、ふとティアリーゼは気付いてしまう。
(……シュクルの匂いがする)
獣でありながら、そういった匂いは一切ない。
肌はティアリーゼより冷たいが、感じるのは――異性を思わせる香り。
どき、とティアリーゼの心臓が音を立てる。
耳元で響く低い声と、女性のものではありえない広い胸。触れた腕から感じる骨格は、見た目の華奢さからは想像もできないほどしっかりしていた。
(あ……)
顔を上げて、ようやく理解する。
目の前にいるのは、立派な成人男性なのだ、と。
「ちょ……ちょっと待って」
「うん?」
シュクルが傷付かないよう、あくまでやんわり胸を押しのける。
(私、とんでもないことをした気がするわ……!)
未婚の女が自ら男に身をゆだねるというのはさすがにおかしい。たとえ相手が生粋の人間でなく、子供のような言動をする人だとしても、だ。
シュクルは混乱状態に陥ったティアリーゼの様子にすぐ気付いた。
更に離れようとするその腰を抱き寄せ、真っ赤になっている顔を覗き込む。
「どうした?」
「お願い、待って……」
「なにを?」
「こ、心の準備……かしら……」
「わからない」
(どうしよう、どうしよう……)
以前、シュクルを意識したときとは違う感情がせり上がる。
愛玩動物みたいなかわいい人でしかなかったのに、今は――。
「ティアリーゼ」
名を囁かれた瞬間、ふつりとティアリーゼの中でなにかの糸が切れた。
「私の子を産んでほしい」
初めて言われたときとは違う甘い響きに眩暈さえ感じる。
もう、シュクルから目を逸らせなかった。
見つめ合ったまま、なにも考えられずに沈黙する。
「今、とてもそんな気持ちになっている。発情期だろうか」
「は……発情期だなんて口にしないで」
「なぜ?」
「それは、その……」
(人間とじゃ考え方が違うっていう以前に、そもそもシュクルがちょっとズレているのよね……!)
悩みに悩んだ末、ティアリーゼは説明を諦めた。
だが、頭を働かせたおかげでいつもの調子が戻ってくる。
「あ、あのね、シュクル」
「なんだ」
「私……あなたの子供なら……その、産めるかも……しれないけど……」
「今?」
「いいい今じゃないわ! いつかの話!」
「残念だ」
あまりそうは思っていない口調で言うと、シュクルはすっと引いてしまった。
相変わらず引くときは早いらしい、と思いながら、ティアリーゼは離れていくシュクルの手を掴む。
「あなたのことは嫌いじゃないの。抱き締めてあげたいって思うし、喜ばせてあげたいって思う。でも、それだけじゃ子供は作れないのよ」
「知っている。子を為すためになにをするべきかは本能が教えてくれる」
「…………そういう意味で言ってるんじゃなくて」
シュクルがシュクルであるおかげで、どんどん冷静になれている。
まだ顔の火照りも胸の高鳴りも治まっていないが、とりあえず顔を見て話をできる程度には落ち着いた。
一応、深呼吸だけしておく。
そんなティアリーゼの側で白い尻尾がぱたぱたと揺れた。
「人間は誰かと一緒になりたいと思ったら、まず恋人同士になるものなの」
「なんのために?」
「……その方が幸せだからだと思うわ」
「わからない。恋人はなにをする?」
「私にもいたことがないからわからないけれど、一緒にご飯を食べたりするんじゃないかしら?」
「難しくはないが、なんの意味がある?」
「一緒にご飯を食べたくないなって思う相手かどうか、子供を作る前にわかるわ」
「いてくれればそれでいい」
「……あなたはそういう人だったわね」
手を伸ばし、嬉しそうに揺れる尻尾を優しく撫でる。
「まずは恋人から始めたいわ。私もあなたが好きだもの」
「構わない」
(……あ)
初めてシュクルが笑みを浮かべる。
ぎこちないながらも、温かくて穏やかな笑みだった。
また、ティアリーゼはシュクルの好きなところをひとつ見つけてしまう。
(思っていたよりずっと、この人のことが好きなのかもしれない……)
気付いてしまえばもう後は早い。
なにも難しいことを考える必要などなかったのだ。
魔王だ勇者だの、人間と亜人の繋がりだの、そんな義務感からシュクルの側にいなくてもいい。
――好きだから。
たったひとつの思いがティアリーゼの背中を押してくれる。
「したいことがある」
呟くように言ったシュクルがティアリーゼに顔を寄せた。
「なに?」
「うまく言えない」
近付いてくる端正な顔を、ティアリーゼは最後まで直視できなかった。
小さな期待を抱きながら目を閉じて――。
――以前にもこんなことがなかったか、とはっとする。
「――いたたたたた」
気付いたときにはもう遅かった。
シュクルはご機嫌でティアリーゼの額に自分の額――正確にはそこにある角を押し付けており、鈍い痛みが頭いっぱいに広がっていく。
「いたっ、いたた……!」
「…………難しい」
肩を叩かれてしょんぼりしたシュクルが引く。
ティアリーゼはえぐられかけた額を押さえながら、慰めるようにシュクルを撫でた。
「あなたの求愛行動がそれだってこと、すっかり忘れてたわ……」
「…………もうしない」
「違うの、今のは私が勘違いしてただけだから……」
うなだれたシュクルに言って、改めてティアリーゼから額を重ねる。
以前したときよりも、もっと心の距離が近い。
「先に言わせてね。私以外の人に撫でられてもついていっちゃだめよ」
「しない。……私はお前がいい」
恋人としての初めての触れ合いは、ティアリーゼの思っていたようにならなかった。
人間ではない人との恋は前途多難らしい、と思いながらも、これからまた互いを知っていけばいいと前向きに考える――。
「そうなる前に痛いって言うわ。それに、ずいぶん心配してくれているようだけど、そこまで気にしなくていいのよ」
わざと明るく言い、シュクルの手を握る。
「これでも人間の中では丈夫な方なの。勇者って呼ばれていたこと、知っているでしょう?」
「……知っている」
こく、と頷いたシュクルがティアリーゼの背中に腕を回す。
長い髪がティアリーゼの輪郭を撫でるように滑っていった。
よほど緊張しているのか、抱き締めているのに距離がある。
身体をこわばらせたシュクルを少し笑って、ティアリーゼは優しく抱き締め返した。
「もう少し力を入れても平気。あなたがそうしたいなら、だけど」
「試してみよう」
少しずつ、本当に少しずつ距離が縮まっていく。
寄りかかったり甘えてきたり、それとは違う距離の縮め方だった。
なにとなしに呼吸して、ふとティアリーゼは気付いてしまう。
(……シュクルの匂いがする)
獣でありながら、そういった匂いは一切ない。
肌はティアリーゼより冷たいが、感じるのは――異性を思わせる香り。
どき、とティアリーゼの心臓が音を立てる。
耳元で響く低い声と、女性のものではありえない広い胸。触れた腕から感じる骨格は、見た目の華奢さからは想像もできないほどしっかりしていた。
(あ……)
顔を上げて、ようやく理解する。
目の前にいるのは、立派な成人男性なのだ、と。
「ちょ……ちょっと待って」
「うん?」
シュクルが傷付かないよう、あくまでやんわり胸を押しのける。
(私、とんでもないことをした気がするわ……!)
未婚の女が自ら男に身をゆだねるというのはさすがにおかしい。たとえ相手が生粋の人間でなく、子供のような言動をする人だとしても、だ。
シュクルは混乱状態に陥ったティアリーゼの様子にすぐ気付いた。
更に離れようとするその腰を抱き寄せ、真っ赤になっている顔を覗き込む。
「どうした?」
「お願い、待って……」
「なにを?」
「こ、心の準備……かしら……」
「わからない」
(どうしよう、どうしよう……)
以前、シュクルを意識したときとは違う感情がせり上がる。
愛玩動物みたいなかわいい人でしかなかったのに、今は――。
「ティアリーゼ」
名を囁かれた瞬間、ふつりとティアリーゼの中でなにかの糸が切れた。
「私の子を産んでほしい」
初めて言われたときとは違う甘い響きに眩暈さえ感じる。
もう、シュクルから目を逸らせなかった。
見つめ合ったまま、なにも考えられずに沈黙する。
「今、とてもそんな気持ちになっている。発情期だろうか」
「は……発情期だなんて口にしないで」
「なぜ?」
「それは、その……」
(人間とじゃ考え方が違うっていう以前に、そもそもシュクルがちょっとズレているのよね……!)
悩みに悩んだ末、ティアリーゼは説明を諦めた。
だが、頭を働かせたおかげでいつもの調子が戻ってくる。
「あ、あのね、シュクル」
「なんだ」
「私……あなたの子供なら……その、産めるかも……しれないけど……」
「今?」
「いいい今じゃないわ! いつかの話!」
「残念だ」
あまりそうは思っていない口調で言うと、シュクルはすっと引いてしまった。
相変わらず引くときは早いらしい、と思いながら、ティアリーゼは離れていくシュクルの手を掴む。
「あなたのことは嫌いじゃないの。抱き締めてあげたいって思うし、喜ばせてあげたいって思う。でも、それだけじゃ子供は作れないのよ」
「知っている。子を為すためになにをするべきかは本能が教えてくれる」
「…………そういう意味で言ってるんじゃなくて」
シュクルがシュクルであるおかげで、どんどん冷静になれている。
まだ顔の火照りも胸の高鳴りも治まっていないが、とりあえず顔を見て話をできる程度には落ち着いた。
一応、深呼吸だけしておく。
そんなティアリーゼの側で白い尻尾がぱたぱたと揺れた。
「人間は誰かと一緒になりたいと思ったら、まず恋人同士になるものなの」
「なんのために?」
「……その方が幸せだからだと思うわ」
「わからない。恋人はなにをする?」
「私にもいたことがないからわからないけれど、一緒にご飯を食べたりするんじゃないかしら?」
「難しくはないが、なんの意味がある?」
「一緒にご飯を食べたくないなって思う相手かどうか、子供を作る前にわかるわ」
「いてくれればそれでいい」
「……あなたはそういう人だったわね」
手を伸ばし、嬉しそうに揺れる尻尾を優しく撫でる。
「まずは恋人から始めたいわ。私もあなたが好きだもの」
「構わない」
(……あ)
初めてシュクルが笑みを浮かべる。
ぎこちないながらも、温かくて穏やかな笑みだった。
また、ティアリーゼはシュクルの好きなところをひとつ見つけてしまう。
(思っていたよりずっと、この人のことが好きなのかもしれない……)
気付いてしまえばもう後は早い。
なにも難しいことを考える必要などなかったのだ。
魔王だ勇者だの、人間と亜人の繋がりだの、そんな義務感からシュクルの側にいなくてもいい。
――好きだから。
たったひとつの思いがティアリーゼの背中を押してくれる。
「したいことがある」
呟くように言ったシュクルがティアリーゼに顔を寄せた。
「なに?」
「うまく言えない」
近付いてくる端正な顔を、ティアリーゼは最後まで直視できなかった。
小さな期待を抱きながら目を閉じて――。
――以前にもこんなことがなかったか、とはっとする。
「――いたたたたた」
気付いたときにはもう遅かった。
シュクルはご機嫌でティアリーゼの額に自分の額――正確にはそこにある角を押し付けており、鈍い痛みが頭いっぱいに広がっていく。
「いたっ、いたた……!」
「…………難しい」
肩を叩かれてしょんぼりしたシュクルが引く。
ティアリーゼはえぐられかけた額を押さえながら、慰めるようにシュクルを撫でた。
「あなたの求愛行動がそれだってこと、すっかり忘れてたわ……」
「…………もうしない」
「違うの、今のは私が勘違いしてただけだから……」
うなだれたシュクルに言って、改めてティアリーゼから額を重ねる。
以前したときよりも、もっと心の距離が近い。
「先に言わせてね。私以外の人に撫でられてもついていっちゃだめよ」
「しない。……私はお前がいい」
恋人としての初めての触れ合いは、ティアリーゼの思っていたようにならなかった。
人間ではない人との恋は前途多難らしい、と思いながらも、これからまた互いを知っていけばいいと前向きに考える――。
0
お気に入りに追加
539
あなたにおすすめの小説
探さないでください。旦那様は私がお嫌いでしょう?
雪塚 ゆず
恋愛
結婚してから早一年。
最強の魔術師と呼ばれる旦那様と結婚しましたが、まったく私を愛してくれません。
ある日、女性とのやりとりであろう手紙まで見つけてしまいました。
もう限界です。
探さないでください、と書いて、私は家を飛び出しました。
さよなら、英雄になった旦那様~ただ祈るだけの役立たずの妻のはずでしたが…~
遠雷
恋愛
「フローラ、すまない……。エミリーは戦地でずっと俺を支えてくれたんだ。俺はそんな彼女を愛してしまった......」
戦地から戻り、聖騎士として英雄になった夫エリオットから、帰還早々に妻であるフローラに突き付けられた離縁状。エリオットの傍らには、可憐な容姿の女性が立っている。
周囲の者達も一様に、エリオットと共に数多の死地を抜け聖女と呼ばれるようになった女性エミリーを称え、安全な王都に暮らし日々祈るばかりだったフローラを庇う者はごく僅かだった。
「……わかりました、旦那様」
反論も無く粛々と離縁を受け入れ、フローラは王都から姿を消した。
その日を境に、エリオットの周囲では異変が起こり始める。
不遇な公爵令嬢は無愛想辺境伯と天使な息子に溺愛される
Yapa
ファンタジー
初夜。
「私は、あなたを抱くつもりはありません」
「わたしは抱くにも値しないということでしょうか?」
「抱かれたくもない女性を抱くことほど、非道なことはありません」
継母から不遇な扱いを受けていた公爵令嬢のローザは、評判の悪いブラッドリー辺境伯と政略結婚させられる。
しかし、ブラッドリーは初夜に意外な誠実さを見せる。
翌日、ブラッドリーの息子であるアーサーが、意地悪な侍女に虐められているのをローザは目撃しーーー。
政略結婚から始まる夫と息子による溺愛ストーリー!
完結 お飾り正妃も都合よい側妃もお断りします!
音爽(ネソウ)
恋愛
正妃サハンナと側妃アルメス、互いに支え合い国の為に働く……なんて言うのは幻想だ。
頭の緩い正妃は遊び惚け、側妃にばかりしわ寄せがくる。
都合良く働くだけの側妃は疑問をもちはじめた、だがやがて心労が重なり不慮の事故で儚くなった。
「ああどうして私は幸せになれなかったのだろう」
断末魔に涙した彼女は……
ただ、愛しただけ…
きりか
恋愛
愛していただけ…。あの方のお傍に居たい…あの方の視界に入れたら…。三度の生を生きても、あの方のお傍に居られなかった。
そして、四度目の生では、やっと…。
なろう様でも公開しております。
とびきりのクズに一目惚れし人生が変わった俺のこと
未瑠
BL
端正な容姿と圧倒的なオーラをもつタクトに一目惚れしたミコト。ただタクトは金にも女にも男にもだらしがないクズだった。それでも惹かれてしまうタクトに唐突に「付き合おう」と言われたミコト。付き合い出してもタクトはクズのまま。そして付き合って初めての誕生日にミコトは冷たい言葉で振られてしまう。
それなのにどうして連絡してくるの……?
迅英の後悔ルート
いちみやりょう
BL
こちらの小説は「僕はあなたに捨てられる日が来ることを知っていながらそれでもあなたに恋してた」の迅英の後悔ルートです。
この話だけでは多分よく分からないと思います。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる