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第五話

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「……砕けたらどうする?」
「そうなる前に痛いって言うわ。それに、ずいぶん心配してくれているようだけど、そこまで気にしなくていいのよ」

 わざと明るく言い、シュクルの手を握る。

「これでも人間の中では丈夫な方なの。勇者って呼ばれていたこと、知っているでしょう?」
「……知っている」

 こく、と頷いたシュクルがティアリーゼの背中に腕を回す。
 長い髪がティアリーゼの輪郭を撫でるように滑っていった。
 よほど緊張しているのか、抱き締めているのに距離がある。
 身体をこわばらせたシュクルを少し笑って、ティアリーゼは優しく抱き締め返した。

「もう少し力を入れても平気。あなたがそうしたいなら、だけど」
「試してみよう」

 少しずつ、本当に少しずつ距離が縮まっていく。
 寄りかかったり甘えてきたり、それとは違う距離の縮め方だった。
 なにとなしに呼吸して、ふとティアリーゼは気付いてしまう。

(……シュクルの匂いがする)

 獣でありながら、そういった匂いは一切ない。
 肌はティアリーゼより冷たいが、感じるのは――異性を思わせる香り。
 どき、とティアリーゼの心臓が音を立てる。
 耳元で響く低い声と、女性のものではありえない広い胸。触れた腕から感じる骨格は、見た目の華奢さからは想像もできないほどしっかりしていた。

(あ……)

 顔を上げて、ようやく理解する。
 目の前にいるのは、立派な成人男性なのだ、と。

「ちょ……ちょっと待って」
「うん?」

 シュクルが傷付かないよう、あくまでやんわり胸を押しのける。

(私、とんでもないことをした気がするわ……!)

 未婚の女が自ら男に身をゆだねるというのはさすがにおかしい。たとえ相手が生粋の人間でなく、子供のような言動をする人だとしても、だ。
 シュクルは混乱状態に陥ったティアリーゼの様子にすぐ気付いた。
 更に離れようとするその腰を抱き寄せ、真っ赤になっている顔を覗き込む。

「どうした?」
「お願い、待って……」
「なにを?」
「こ、心の準備……かしら……」
「わからない」

(どうしよう、どうしよう……)

 以前、シュクルを意識したときとは違う感情がせり上がる。
 愛玩動物みたいなかわいい人でしかなかったのに、今は――。

「ティアリーゼ」

 名を囁かれた瞬間、ふつりとティアリーゼの中でなにかの糸が切れた。

「私の子を産んでほしい」

 初めて言われたときとは違う甘い響きに眩暈さえ感じる。
 もう、シュクルから目を逸らせなかった。
 見つめ合ったまま、なにも考えられずに沈黙する。

「今、とてもそんな気持ちになっている。発情期だろうか」
「は……発情期だなんて口にしないで」
「なぜ?」
「それは、その……」

(人間とじゃ考え方が違うっていう以前に、そもそもシュクルがちょっとズレているのよね……!)

 悩みに悩んだ末、ティアリーゼは説明を諦めた。
 だが、頭を働かせたおかげでいつもの調子が戻ってくる。

「あ、あのね、シュクル」
「なんだ」
「私……あなたの子供なら……その、産めるかも……しれないけど……」
「今?」
「いいい今じゃないわ! いつかの話!」
「残念だ」

 あまりそうは思っていない口調で言うと、シュクルはすっと引いてしまった。
 相変わらず引くときは早いらしい、と思いながら、ティアリーゼは離れていくシュクルの手を掴む。

「あなたのことは嫌いじゃないの。抱き締めてあげたいって思うし、喜ばせてあげたいって思う。でも、それだけじゃ子供は作れないのよ」
「知っている。子を為すためになにをするべきかは本能が教えてくれる」
「…………そういう意味で言ってるんじゃなくて」

 シュクルがシュクルであるおかげで、どんどん冷静になれている。
 まだ顔の火照りも胸の高鳴りも治まっていないが、とりあえず顔を見て話をできる程度には落ち着いた。
 一応、深呼吸だけしておく。
 そんなティアリーゼの側で白い尻尾がぱたぱたと揺れた。

「人間は誰かと一緒になりたいと思ったら、まず恋人同士になるものなの」
「なんのために?」
「……その方が幸せだからだと思うわ」
「わからない。恋人はなにをする?」
「私にもいたことがないからわからないけれど、一緒にご飯を食べたりするんじゃないかしら?」
「難しくはないが、なんの意味がある?」
「一緒にご飯を食べたくないなって思う相手かどうか、子供を作る前にわかるわ」
「いてくれればそれでいい」
「……あなたはそういう人だったわね」

 手を伸ばし、嬉しそうに揺れる尻尾を優しく撫でる。

「まずは恋人から始めたいわ。私もあなたが好きだもの」
「構わない」

(……あ)

 初めてシュクルが笑みを浮かべる。
 ぎこちないながらも、温かくて穏やかな笑みだった。
 また、ティアリーゼはシュクルの好きなところをひとつ見つけてしまう。

(思っていたよりずっと、この人のことが好きなのかもしれない……)

 気付いてしまえばもう後は早い。
 なにも難しいことを考える必要などなかったのだ。
 魔王だ勇者だの、人間と亜人の繋がりだの、そんな義務感からシュクルの側にいなくてもいい。
 ――好きだから。
 たったひとつの思いがティアリーゼの背中を押してくれる。

「したいことがある」

 呟くように言ったシュクルがティアリーゼに顔を寄せた。

「なに?」
「うまく言えない」

 近付いてくる端正な顔を、ティアリーゼは最後まで直視できなかった。
 小さな期待を抱きながら目を閉じて――。
 ――以前にもこんなことがなかったか、とはっとする。

「――いたたたたた」

 気付いたときにはもう遅かった。
 シュクルはご機嫌でティアリーゼの額に自分の額――正確にはそこにある角を押し付けており、鈍い痛みが頭いっぱいに広がっていく。

「いたっ、いたた……!」
「…………難しい」

 肩を叩かれてしょんぼりしたシュクルが引く。
 ティアリーゼはえぐられかけた額を押さえながら、慰めるようにシュクルを撫でた。

「あなたの求愛行動がそれだってこと、すっかり忘れてたわ……」
「…………もうしない」
「違うの、今のは私が勘違いしてただけだから……」

 うなだれたシュクルに言って、改めてティアリーゼから額を重ねる。
 以前したときよりも、もっと心の距離が近い。

「先に言わせてね。私以外の人に撫でられてもついていっちゃだめよ」
「しない。……私はお前がいい」

 恋人としての初めての触れ合いは、ティアリーゼの思っていたようにならなかった。
 人間ではない人との恋は前途多難らしい、と思いながらも、これからまた互いを知っていけばいいと前向きに考える――。
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