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本編

1.ホットケーキ

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 四月も終わりかけた東京。
 都心部から少し離れ、再開発からも見事に外れた丁度境界にあたる昔からの住宅地。

 今日は平日、火曜日の午前九時。小倉千代子おぐらちよこは一人、ホットケーキを焼いていた。
 くたびれた外観の小さなアパートの小さなワンルームにある使い勝手の悪い一口しかないガスコンロ、隣にあるのは同じようにこじんまりとしたシンク。あまりにも狭いので作業台として折り畳みのテーブルが一脚用意されている。
 そんな環境にふさわしい小ぶりのフライパンはもう、火に掛けられて予熱が済んでいた。作業台のテーブルにあるガラスのボウルには溶いた卵と少しだけ常温に戻した冷たすぎない牛乳が既にしっかりと混ぜられて置かれており、そこにそっと入れたのはどこにでも売っているホットケーキミックスの粉だった。

 丁寧な暮らしってなんだろう、と言う漠然としたもやもやごと混ぜた生地をフライパンに落としこめばそれはゆっくりと円を描く。適当な所で切り上げてフライパンに蓋をし、弱火のごく控えめな火に掛ける。

 今の彼女の人生の楽しみはこうして一人で静かに、いろいろなメーカーのホットケーキを焼く事だった。

 それくらいしかやる事はなかったし、やる気も起きなかった。
 仕事ばかりの忙しい日々にさらされ、とっくに限界だった自分をないがしろにし続けた結果は退職と言う選択になり、今はほんの少しばかりの貯金を切り崩しながらささやかに心と体の手当てをする日々。
 どうしちゃったんだろう、こんな筈じゃなかったのに、と考え過ぎて眠れなくなってしまう夜もまだ多い。

 忙しさにかまけていたわってあげられなかったのは自分なのだから。
 そうやってチクチクと自分を責めてしまうのはよくない事なのだと千代子自身、分かっていた。
 だからこそ、心を落着けさせる事の出来る趣味を見つけようと考えあぐねた結果がこのホットケーキを焼くと言う行為。キッチンはどうしても狭いが、オーブンもミキサーもこれと言った道具が要らない手軽で美味しい趣味。

 蓋を少しずらして様子を見ればふつふつと気泡が表面に上がり、生地のふちに火が通っているのが分かる。そのままフライ返しで「よいしょ」とひっくり返せば希望通りのきつね色が現れた。

(そう言えば今日、初めてしゃべった……かも)

 たったのひと言も貴重な発声とばかりに声を発していない日々。
 それでもそれは、今の千代子には必要な時間だった。少し寂しくも、ひどく心を揺さぶられない静かな一日が今日も始まる。

 焼けたホットケーキをお気に入りの皿に乗せ、甘く香ばしい優しい匂いを吸い込む。
 小さな部屋の中央にあるローテーブル。そこへちょっとだけ奮発して買ったバターとホットケーキシロップ、自分の為だけに揃えたカトラリーを喫茶店のまねごとをして並べる。冷めてしまわない内に、とラグの上に座ってかわいい花柄模様が刻印されている揃いのナイフとフォークを手にし、焼きたてのホットケーキを切り分けて口に運べば香りの良いバターと甘過ぎないシロップが良く馴染んでおり、小さな幸せがじんわりと訪れる。

 時刻はまだ午前、今日は良く晴れている。
 これならお弁当を作って少し遠くて大きい都心の公園まで一人でピクニックに行っても良かったかもしれない、と手元のスマートフォンで明日の天気を早速チェックすれば今日と同じようにカラッと晴れる予報が出ている。
 会社を辞めたのが春の前の三月の末、今は丁度ゴールデンウィーク前。
 一度訪れてみたかった大きな公園にピクニックに行くにはいい季節。春のバラも見頃の時期だった。

 だからそうだ、明日はピクニックに行こう。
 幸いにもまだそれくらいなら動ける気力はあった、と言うか少しだけ持ち直してきたのだろうか。
 退職したばかりの時の落ち込み方よりは良くなっている気はしていた。

(外に出たくなくて、外の世界なんてどうだってよくなっちゃって)

 千代子は小さく切り分けたホットケーキを口に運びながら少しだけ滲んでしまう涙を堪えて一人、そっと息をつく。
 大丈夫、大丈夫だからと自分に言い聞かせる心細い日々。

 それでも今はまだ、このままがいいかな。
 千代子は窓から差し込む朝の日差しをレースカーテン越しに受けながら甘く、優しい味わいのホットケーキをまた一つ、口に運んだ。

 ・・・

 昼を回った午後三時。
 明日のピクニックの為に、と軽い薄化粧だけをして近所のスーパーマーケットに向かう。もちろん、ごく一般的な購買層に向けた大衆スーパー。アパートから少し行った先には最近、再開発が進んでやたらと乱立している中・高層マンション向けのちょっとお高くてオシャレで高品質な商品が並んでいるスーパーも新規で出店したが今の千代子のお財布事情にとっては高嶺の花だった。

 それでも、今日はどうしても欲しい物がありいつものスーパーとは反対の再開発地域の方へと足を延ばす。

 眠れずにベッドの中で端末を片手にネット検索していた中で出て来たのはそこのスーパーが独自に配合したホットケーキミックス。ホットケーキを焼く事が趣味となっている千代子は気分転換がてらそれだけでも買おう、と考えていたのだった。

 いつもの慣れた道を通り越して大通りを歩いて行けばオシャレな外観のスーパーマーケットが現れる。中に入ると千代子の考えの通りにちょっと特別な日にしか手が出せないような価格の素材が並んでいる棚。それを薄目で流し見て、製菓コーナーへ歩みを進める。今日はそれだけを買うつもりなのだから、と言う強い意志を持っていなければキラキラした食材たちの誘惑に勝てそうになかった。

(小麦粉もちゃんと製菓用と製パン用が分けられているしやっぱりガスオーブン、欲しいなあ……)

 オリジナル商品だからか、わりと簡素なポリ袋に入って口がシーラーで留められているだけのホットケーキミックス粉。これ、そのままラベルが貼っていない裏面を見たらなんかよくない白い粉だよね、と自分の拙い考えを鼻で笑いながらそれだけを持ってセルフレジの方で手早く会計を済ませた。

(だって白い粉、一袋だけだし)

 欲しい物は買えたけれど、と千代子はせっかくだから普段手を出さない価格の卵と牛乳も買っておけばよかったかな、と少ししょぼしょぼとしながら高品質志向なスーパーから退散して最新の高層マンションの前のまだ整備されたばかりの綺麗な歩道を歩いていた。
 暫くすると俯きがちな千代子の視線でも目を惹くような艶のある黒塗りのハイクラスの国産車が静かに停車し、ドライバーと思しきスーツ姿の男性が進行方向左側、千代子が歩いている歩道に面した側の後部座席のドアを開ける。マンション用の車寄せスペースも千代子からは見えるがそこまでは入って行かないらしい。

 本当に住んでいる人間が存在している事に対しての千代子の純粋な驚きの瞳とその車内から出てくる男性の瞳がおもむろに合ってしまった。
 不躾にもじろじろと見てしまっていたのは千代子の方だったので――しかしながら降り立った男性は誰しもが目を惹いてしまうような整った顔立ち。髪も硬くなり過ぎない程度に綺麗にオールバックにしていてさっぱりと爽やかな雰囲気。なにより少し筋肉質にも見えるがバランスの良いすらりとした高い身長、纏っているスーツは量販店に売っているような吊るしではないオーダーだと分かる。

 これこそ完璧な男、と言わんばかりの立ち姿。
 そんな男性が自分の方をどこか訝しげに見ている事に気が付いた千代子は心の中でごめんなさい、と謝りながら早く通り過ぎてしまおうとビジネスバッグをドライバーから受け取っている男性の横を抜けようとする。

「ちよちゃん?」

 低くも明るい声音が千代子の耳に入り、足を止める。
 あだ名ほどではないが自分の名前をそうやって呼べる人間は限られており、こんな場所で本名を知っている者などいない筈だった。

 千代子は自分よりうんと背の高い男性を軽く見上げ、瞳を丸くさせる。

「そうそう、ちよちゃんは驚くと目を丸くさせて口が真一文字にぎゅーって」

 どうしてこの人は自分の癖を知っているのだろうか。
 自分はこの目の前の完璧な姿の男性を知らないのに、どうしてそんなにも懐かしそうな口調で歩み寄って来るのだろうか。
 都会に暮らしていれば危ない事に出くわす事もある。しっかりとそう言った事には警戒が出来る千代子は肩から提げていたトートバッグの持ち手を両手で握り締め、わずかに後ずさりをした。

 その動作に気が付いた男性は「私の事、覚えてない?」と問う。
 困ったように笑っている少し下がった眉尻、柔らかく丁寧な言葉づかい。

 まだ千代子が中学生だった時、彼女の父親の転勤で静かな郊外から都心に近い場所へ引っ越した事によって胸の内を伝えられないままにさよならをしてしまった――千代子にとっては淡い初恋の、近所のお兄さん。

「つかさ、さん?」

 指摘された通りにきつく結ばれていた千代子の唇が開いて、名前を呼ぶ。

 途端に嬉しそうに笑い掛ける男性が「思い出してくれてよかった」と言いながらまだ黒塗りの車の傍で待機していたドライバーにいくつか耳打ちをするように声を掛けて軽く見送る。
 それでも未だ、肩に提げているトートバッグを両手で握り締めている千代子に「いつ振りだろう」と言う男性は革のビジネスバッグを手に提げていかにも仕事帰りの様子。まだ三時過ぎだし早く終わったのかな、と千代子は思いながらも「もしかして近くに住んでる?」と問う男性、今川司いまがわ つかさに問われるがままに頷いてしまった。
 迂闊かな、とはすぐに思ったが互いに子供の頃を知っている者同士。

「ちょっと、そこまで買い物に……」
「ああ、最近オープンした所か」

 買い物と言っても、とりあえずホットケーキミックスが一袋。
 これから明日の一人ピクニックに持って行くお弁当の食材を買いにアパートの近所のそれなりの価格帯のスーパーに寄ろうとした所だった。

「どう?立ち話もなんだしこの辺はカフェとかもまだ無いから寄って……」

 途中まで言いかけた司は「ごめん、すっかり昔の感覚で誘ってしまった」とやはり眉尻を下げ数年ぶりのたった今、道端で再会を果たしたばかりの女性をいきなり自宅に誘うのはよくない、と言葉をとどめる。

「ちよちゃんにまた会えるなんて」

 引っ越してしまう前に当時のメールアドレスも携帯番号も交わせないでいた、本当に淡かったーー千代子の片思いの人。
 身近な近所のお兄さんであった司にそう言った気持ちになってしまうのも仕方がない四つの程よい歳の差と、いつでも物腰が柔らかであった司の人となり。身長差を気遣ってか軽く屈んでくれる姿からどうやら今でも優しさは変わっていないようでトートバッグを握り締めていた千代子の手もようやく緩む。

「司さん、ここに?」
「うん、入居がやっと始まってね……年明けの予定の納期が少し遅れていたのと私も忙しかったから本格的に越してきたのは最近なんだ」

 見上げる程の高層マンション。
 千代子は自分の住んでいるくたびれアパートは倉庫か何かかな?と思ってしまいながらもこのマンションに住み始めたと言う司は相当良い職業に就いている事が分かる。それでも司は千代子が知る限り、頭の良い好青年で――だからこそ、好きになってしまった。
 当時の千代子は中学生、憧れと恋慕がまだ判別出来ない年齢だった。離れ離れになってしまってからの司はきっと質の良い大学に進学して、そのまま良い企業に就いたのだろうと千代子は推測する。

 しかし、知る限りの分も含めて今の姿の司が自宅でのお茶に誘うと言う事はパートナーや婚姻関係のある人はいないのだろうか。自分たちの年齢になると家庭を持つ者たちも増え出す頃だった。

「そうだな……もし良かったら連絡先だけ交換……ああ、いや、いきなりそんな女性に」
「大丈夫ですよ、何も知らない間柄ではないんですから」
「それに“ちよちゃん”なんて気軽に呼んでしまってごめん」
「いえ、私も懐かしくて」
「うん……ちよちゃんが引っ越してから私も色々あったから……それにしてもこんなに近い場所でまた会えたなんて」

 二人は互いにメッセージアプリのIDを交換する。
 司にも積もる話がありそうだ、と千代子は彼の言葉を反芻しながら軽く手を振って高層マンションの前から目当てのスーパーの方へと歩き出す。
 今日はお高めのスーパーまで足を延ばして良かったな、と千代子は少しむずむずとする口元を隠すようにまたぎゅ、と真一文字にしながら歩く。
 そんな千代子の背を見送る司の瞳は懐かしさ以外の感情も含んでいるかのように細められ、その整った口元からはそっと吐息のような溜め息が一つ、静かにこぼれる。そしてそのまま、取り出したままの端末に『大通りを真っすぐ、市街地へ向かった』と打ちこんでどこかに送信すれば返信は無くともすぐに既読の表示が付いたのを確認した。

 ・・・

 翌日、少し早起きをした千代子。
 炊き立てを軽く冷ましたご飯をラップに盛り、自分で調理した大きな具材を乗せて丁寧に三角の形におにぎりを握る。小さな小さなキッチンの為、おかずがたくさん入ったお弁当を作るのは大変だったので代わりに具材の豪華なおにぎりを作る。
 付け合わせもささやかながら、昨夜に仕込んでおいたきゅうりと人参の浅漬けを用意している。

 今の千代子なりの精一杯。
 自分の気が済むように、ご飯粒が硬く潰れないように両手で包み込むように優しく、丁寧に握る。
 忙しかった時はコンビニのおにぎり一個とカフェオレだけ、のような昼ご飯。
 そんな少し前の出来事すら今は思い出すとどうしてもつらくなってしまい、千代子はそれを払拭するように自分をいたわる為のピクニックに向けて準備をする。
 今はこざっぱりと片付いているワンルームの小さな部屋も、当時は他人様に見せてはいけないような状態にまでなっていた。

 散らかった部屋の物すべて、手放してしまいたくなるような強い衝動すらあった。

 それを思いとどまらせてくれたのは休日、ごくたまに焼いていたホットケーキ。
 元からホットケーキは好きで……そんな好物を作る為に買ったガラスのボウルの存在。プラスチックとは違って傷も付きにくくちょとオシャレな雰囲気だけでも楽しみたくて購入した物。

 今は自分の為に気が済むまで好きな事をしよう、とどうにか気を持ち直してからの日はまだ浅く、傷ついてしまった心の傷は深いままであった。

 静かに支度をしていた千代子のスマートフォンが軽やかにメッセージの受信を知らせる。
 会社関係の繋がりもみんな切ってしまった今、こんな朝早くに連絡をしてくるのは、と少しだけ期待をして支度をしていた手を止めれば当たり障りのない司からの気軽な朝の挨拶がひとつ。
 昨日もいくつかのメッセージを交わした記録の下、新たに今日一日が始まる。

(そう言えば仕事辞めちゃってる事、司さんに言えるかな)

 相手は自分とは桁が違う家賃の部屋に住んでおり、それを支払えてしまうような給料を出している場所に勤めているか――あるいは司の事なら会社経営でもしているのだろうか。

 自分の事を相談するには、心の距離が遠過ぎる。
 千代子もまた当たり障りのない返事を送って途中だった支度を再び進める。
 レジャーシートの代わりに芝生に敷いても大丈夫そうな少し厚手のコットンのブランケット、保冷剤の入ったバッグとお気に入りの紅茶を煮出してコンパクトな水筒に注ぐ。

 久しぶりに訪れた平穏な日常。
 電車に乗って、行きたいと思っていた都心部の大きな公園へ向かう。
 通勤ラッシュももうとっくに終わり、怖い程に人が密集していたホームも今は普通にすれ違えるくらいの人の量の時刻。

 春のバラが見頃だと、あらかじめチェックしてきた植物園に寄ってぐるりと一周もすればしっかりとお腹が空く。散策するように日陰を探し、持ってきていたラグの代わりのブランケットを敷くと靴を脱いでその上にあがる。

 さく、と足に感じる芝生の感触。
 足を崩して座れば低くなった目線から見る景色は新鮮だった。

 なんて贅沢なランチなのだろう、と昼食の用意をしている千代子はこの時、自分が辿って来た全ての道のりに同じ人物が歩いていた事を知らなかった。
 保冷剤で少し冷たいが濃いめの味付けにしたおにぎりを頬張り始める千代子の姿が遠くから見られている。そして数枚の写真が撮られている事など千代子は知らずにのんびりと、ゆっくりとした時間を満喫し始めた。

(そう言えば今日は一言もしゃべってないかも……まあ、いっか)

 昨日は思いがけずに司と再会し、言葉を交わした。
 子供の頃に抱いていた淡い思いはもう良い思い出となっていたが年上の司にもし聞かれたら、どうやって今の自分の状況を伝えたらいいのだろうか。やはり素直に伝えた方が司の方も下手に気を使う事も――千代子は、自分がこうしてあれこれと深く悩んでしまう気質をコンプレックスだと認識していた。余計な事まで考え過ぎてしまう。

 おにぎりも残す所あと一つ、と言う所でまたスマートフォンが短く鳴る。
 司からのメッセージだった。

 マメな人だな、と千代子は少し口元をゆるめて文章を確認する。
 よくある社交辞令なら朝の挨拶も、昼ご飯の内容のお伺いもしてこない筈だったがそれでもまだ、とてもじゃないが昨日の今日では司に今の自分の状況は言えない。

 無難に『自分で作ったおにぎりを食べています』と送りつつぶっきらぼう過ぎたかな、と思っているのも束の間で『写真とかあったりする?』と返って来る。具材は豪華ではあったがどうしても見た目がとても地味なおにぎり三つと付け合わせの浅漬けが入った小さな容器が一つ。一応、自己満足の為に自宅で保冷バッグに入れる前に写真には残してあった。
 予防線として『すごく地味ですよ』のメッセージを送信してから画像フォルダにあった写真と具材の詳細を送る。

(こんなやり取り、いつ振りだろう)

 ちょっと楽しくなってしまっている自分がいた。
 数分で返されるメッセージにはありふれた褒め言葉と『ちよちゃんは昔から器用だったよね』の自分の内面を知り、覚えてくれていた追加の一行。それに続く『和食とか、好き?』の一文で千代子の指先は止まってしまった。

 これは、もしかしなくても。
 昨日、お茶に誘われてしまったものの突然の出来事と流石に司が住んでいると言う高層マンションにお邪魔出来るような化粧や格好でもなかった。

 女性が支度をする、と言うのを司はよく分かっている。
 もしかして相当慣れている?と疑ってしまいつつも問われている内容へ『好きです』と返事をしようとした所でいい歳をしていながらもそのたったの四文字に一人、気恥ずかしくなってしまった。
 当時の、青年になったばかりの司の面影がどうしてもちらついて――好きです、と言えなかった、言わなかった幼い過去がよみがえる。

 そのメッセージへの返信に既読は付いたが仕事に戻ってしまったのか司からの返信はなく、千代子もそこまで気にせずに残り一個のおにぎりを頬張る。不振ぎみになっていた食欲も少しずつ戻って来ていたが、やはり抜きがちな不摂生さは否めなく、中くらいのおにぎりを三つも食べられた今日の自分を褒めたくなる。

 五月が始まろうとしている爽やかな青い匂いの風と、明るい日差しが降り注ぐ良く晴れた日の公園の一画。思いつめて強張りがちになっていた表情をゆるめて一人心地の千代子。

 少し寂しそうな、それでも穏やかな横顔がそこにはあった。


 それをスマートフォンの大きくも無いディスプレイで眺めていた司。
 送られてきた幾つかの画像。今はおにぎりを食べ終えて芝生の上に敷いたラグの上でのびのびと足を伸ばして座り、手元をしげしげと眺めている横顔が遠巻きに写っている画像が一枚、表示されている。
 きっと自分からの返信を待っているようないじらしい姿。

 ふ、と息をつく司は心のどこかでずっと探し続けていた人が今、自らの手のひらの中の画面に納まっている事実と食事へ誘う口実を取り付けたその喜びを静かに隠す。
 スリープにした端末を裏返し、ぱたりと大きなデスクの上に置いて前を見据える。

「業務拡大、か」
「へい、どうか……俺らのシノギも考えて頂きたく。このままでは衰退していくばかりで」

 平身低頭の自分よりも年上の男に司は言葉を向ける。

「法の内とは言え高利貸、あまり気は進まない」
「そこをどうか。今は“本家今川組”の傘下と言えども元は司さんの御父上……“俺たちの組長”がお持ちになっていた数少ない事業。俺たちは本家に移ってしまった司さんの為にも絶やしちゃいけねえと必死に守って来たんです」
「私の為に……?」

 昨日、千代子に掛けた明るい声色も無くつまらなさそうな表情の司の態度は淡々としていた。
 革張りのビジネスチェアに背を軽く凭れさせた司は自分のデスクの前で屈み、曲げた膝の左右にそれぞれ手を付いて独特な様相で頭を下げている四十代後半の男の姿に興味を失い、デスクの上にあった書類の方に視線をずらす。

「検討しておく」
「本当ですか!!」
「あまり期待はしないでくれ。それと……法に触れるような取り立てはしていないだろうな」
「え、ええ。それはもちろん。司さんの言い付け通り」

 それならいい、と静かに言った司の言葉はもう下がれ、の意味だった。
 そしてその男の背後にある来客用の二脚のソファーの片側に座り、二人の問答の様子を伺っていた司とそう変わらない年齢のスーツ姿の男が頃合いを見計らって立ち上がる。

「それで兄貴、この部分なんスけど……」

 会話の終わりを感じ取り、司に浅く一礼をしてから書類を片手に数字の動向を見せる司と同じようにすらりと背の高い男は「どうにも伸び悩んじゃって、兄貴の考えも聞きたいんです」と書類を差し出す。

 頭は上げたがまだ不安げにしている男に司のデスクの側で書類整理をしていた恰幅の良い大柄な男が「話は終わりだ。若は見ての通り忙しい」と退室を促せば平身低頭の姿のまま、深く一礼をして去って行った。

 男が退室したのを確認すると“若、兄貴”と呼ばれた司は「親父が今も個人的に持っている店の中に料亭があっただろう」と差し出された書類を確認しながらも仕事とは全く関係のないごく個人的な話を始める。

「お席を作りますか」
「いや……まだ」
「ああ、若が私用の端末を出しているとは珍しい。もしや昨日、ドライバーに“尾行調査”をご依頼された女性と?」
「誘ってもいない、が……まあ、な」
「若が興味を持たれる女性とは気になりますな」

 司に対し親しげに“若”と呼んで会話を交わす恰幅の良い大柄な男の年齢は一回り以上上だったが司に対して敬語であり、司はその扱いに何も構わずにいた。

「親父がくたばるまでは大人しくこの稼業を続けようかとも思っていたんだが」
「若はまだ、組を閉じてしまうおつもりで」
「お前たちの処遇については悪いようにはしない。表も裏も、親父から預かったこの座を全うしたら……考えていたよりも少し時期が早まるかもしれない、が」

 先ほどよりも深く、背中を革張りのビジネスチェアに預ける司に細身の方の若い男が口を開く。

「これから先、本家今川組の組長……いや、関東広域連合の会長にも成り得る兄貴が誰よりも一番、ヤクザをやる気が無い人なんだもんなあ。じゃあ誰がアタマやるんだ、って話ですよ」
「いっそのこと、今すぐ上まで上り詰めて連合自体も全て解散させてしまおうか。吸収し、元あったモノを更地に帰すのは私の得意分野だ」
「うーん、それもまた“野心”ってやつですか?」

 そうだな、と言う司の年齢は三十四歳になったばかりではあったが物言いや表情を実年齢よりも若干老けさせている自らに付きまとう暗い業の存在に溜め息を吐く。

 そんな彼であってもごく身近な部下の二人だけには気を抜いた時に醸し出す気だるさと疲労は隠さないでいた。

 ・・・

 昼食時を過ぎ、千代子は片づけを済ませると自宅アパートへと帰る。
 久しぶりに日陰と言えども日差しに当たった千代子は火照る頬と軽い眠気に贅沢にも今からシャワーを浴びて軽く缶チューハイでも一本開け、そのままベッドに転がってしまおうかと企んでいた。
 昼間に交わした司からの返信は午後三時を迎えた今でも未だに無かったが、私的な他愛もないやり取りだったので仕事が忙しいのだろうと勝手に解釈をしておにぎりの写真を送ってしまった画面を開くともう一度、やり取りをなぞる。

 当たり障りのなさが今は心地いい。
 本当は話を聞いて貰いたい気持ちもそれなりにあったがそれはきっといずれ、出来るだろうから。

 少し汗をかいた体をシャワーで流し、気軽な部屋着の黒いコットンワンピースを頭から被ると冷蔵庫からさくらんぼ味の缶チューハイを一本取り出す。
 ソファー代わりのシングルベッドに腰掛け、最近殆ど見ていなかったテレビを点ければ昼下がりのロードショーの終盤が映し出されていた。
 そう言えば見たかった映画も結局は見に行けずじまいだったな、とそれがもう何の映画だったのかすら記憶が曖昧になっている自分に嫌になる。

(やっぱりお酒が入るとダメなタイプかも)

 アルコールで失敗したことはない、けれど。
 うーん、と唸りながら手にしていた飲み掛けの缶チューハイを簡素なローテーブルに置いてベッドに横になる。
 よく歩いて、よく食べて、ちょっと嬉しい事も挟んでシャワーで汗を流して、今日はもうそれだけで自分に花丸を付けたっていい。
 テレビに流れているのは古い海外の恋愛映画。どこか退屈さすら感じてしまうようなクラシカルなその恋模様を眺めている内に千代子はいつの間にか眠ってしまっていた。


 まだ明るかった三時過ぎ、昼寝をしてしまったせいで既に五時を回った夕方を迎えている小さな部屋。テレビの明りの方が勝り、のそのそとベッドから起きた千代子は部屋の照明を点ける。
 小一時間ほど横になるつもりだったがすっかり二時間も眠ってしまっていた。

(これは夜、眠れないかも)

 飲み掛けの中身がもったいないな、と思いつつも仕方なく少し残っている酒を片付けて夕飯をどうするか冷蔵庫を開け、残っている食材を確認していればメッセージの受信を知らせる通知音が鳴る。

 ちょっと今は手が離せないから待ってて、と使いかけの人参や大根で野菜鍋にしようと手にしていた所で今度はそのメッセージアプリを介して音声通話の着信を知らせる音。千代子は慌てて作業台にしている小さなテーブルに抱えていた野菜を置いて画面を確認すれば『司さん』の文字。
 一瞬どきっと心臓が跳ねたがコールが切れてしまう前に通話ボタンを押す。

「もしもし……」

 恐るおそる声を発した千代子に電話の向こうの司の声は明るい。
 まだ司が高校二年生だった時に聞いていた声の印象が強い千代子。オトナの男性となった司の低い声が鼓膜を震わせ、じんわりと気恥ずかしさをもたらす。
 電話口の向こうの司は「電話した方が早いと思ったんだ」と今、話が出来るかどうかを問う。どうやら昼間に交わした和食が好きかと言う話の流れから、やはり今度一緒に食事に行こうと言う誘いの電話だった。今日は水曜日で早ければ金曜日の夜、と少し積極的な司の誘いではあったが時間だけはある千代子はせっかくの事だった為、了承する。
 それでね、と軽い話を続けた司の声が耳に馴染む頃「まだちょっと早い時間だけど、おやすみ」と丁寧に言葉を閉じた司の声に頬に熱が上がってしまう。

 昨日の夜も、今朝も、司は丁寧に挨拶をしてくれていた。
 生活のリズムが崩れがちな今の千代子は有り難く感じつつも「私の知っているお店で良い?」と言われるがままに了承してしまったがこれはしっかりとオシャレをしなければならないかも、と俄かに焦り出す。
 どうしよう、そんな良い服……と狭いクローゼットをとりあえず開け、持っている服の中でもフォーマル寄りのトップスとスカートを取り出す。

 ストッキングを穿かなくなって久しかったが一応、オフホワイトの清潔感のあるカットソーに比較的明るい紺色の膝丈のフレアスカートを選び出す――と言うよりもそんなに服を持っている訳ではない。
 その少ない中での一番、司と食事をしても大丈夫そうな物を選ぶ。

 そうとなれば貴金属も、とあれやこれやと必要な物が増えて行く。

(ちょっと落ち着こう)

 自分は今、夕飯の支度をしようとテーブルに食材を出しっぱなしにしている。
 まずはそれらを調理しなければならない。
 長い昼寝をしてしまい、きっと眠れそうにないから準備はとりあえず後にした方がいい。コットンのゆるい部屋着のワンピース姿の千代子はうんうん、と心の中で頷いて作業用テーブルの方にまな板と包丁を出し、はやる気持ちを落ち着かせるように夕飯の支度を始めた。
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グロース王国王太子妃、リリアナ。勝ち気そうなライラックの瞳、濡羽色の豪奢な巻き髪、スレンダーな姿形、知性溢れる社交術。見た目も中身も次期王妃として完璧な令嬢であるが、夫である王太子のセイラムからは忌み嫌われていた。 どうやら、セイラムの美しい乳兄妹、フリージアへのリリアナの態度が気に食わないらしい。 2ヶ月前に婚姻を結びはしたが、初夜もなく冷え切った夫婦関係。結婚も仕事の一環としか思えないリリアナは、セイラムと心が通じ合わなくても仕方ないし、必要ないと思い、王妃の仕事に邁進していた。 ある日、リリアナからのいじめを訴えるフリージアに泣きつかれたセイラムは、リリアナの自室を電撃訪問。 あまりの剣幕に仕方なく、部屋着のままで対応すると、なんだかセイラムの様子がおかしくて… あの、私、自分の時間は大好きな部屋着姿でだらけて過ごしたいのですが、なぜそんな時に限って頻繁に私の部屋にいらっしゃるの?

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