運命のヒト

たんぽぽ。

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 夏帆にとって、土曜日は「柊先生の日」。

 土曜の夕方、夏帆は、彼が一瞬で通り過ぎるだけの部屋を片付け、どうせすぐに乱れてしまうベッドを整える。
 決して褒められることのない化粧を施し、瞬く間に汗と混じり合う香水をまとい、暗闇で剥ぎ取られる上下揃いの清潔な下着を身に付ける。
 何時間もかけて選んだ、日の光を知らぬ衣服を着る。
 渡せそうにない合鍵を、手に取って眺めてみる。
 それから念のために用意した、引き出しの中の装着されることのない避妊具の位置を確認する。

 柊がドアを開けるや否や二人は抱き合い、服を脱ぐ間ももどかしく早急にベッドに倒れ込む。

 お互い指を使った行為の後、シャワーを浴びた柊は、逃げるように部屋を後にする。

 決して一線を越えることはなかったが、行為に関して言えば、夏帆はそれ以上を求めないし理由も聞かない。
 ただ、ベットの中で時おり放つ「先生、好き」とか「愛してる」といった言葉を柊が受け流す時には、胸がちくりと痛んだ。

 柊が身体だけの関係を求めているのだと知っている。二人は週に一度求め合う、ただの「挿入に至らないセフレ」。

 その証拠に、いつまで経っても下の名前を呼んでくれない。手料理を振る舞おうとしてもすぐに帰ってしまう。外では決して会ってくれない。キスはいつも夏帆から求める。

 自分はいわゆる「都合の良い女」だということも知っている。夏帆は圧倒的に弱い立場だった。

 ただ「運命の人」を繋ぎ止めておくのに必死だった。


 六月に入って最初の土曜日、柊が部屋に来なかった。
 メールを送るとただ一言、『忙しい』と返ってきた。

 来週も、その来週も同じことが続いた。電話には出てくれず、メールの返事は来なくなった。

 夏帆はどうすればいいかわからない。

 ただひたすら柊を待ち続けた。



 *



 柊はひとり深夜の研究室で、何をするわけでもなく、実験台に頬杖をついている。

 気分を変えるために職場に来て集中しようと思ったのに、一向に気分が乗らない。

 今回の「発作」はやけに長引いた。夏帆のことを引きずっているのだ、と自分でわかっていた。

 彼は今日、結婚式の帰りなのである。新郎である先輩には、学生時代に大変世話になった。他県の大学で講師の職に就いている彼は、しばしば「結婚は絶対にしない、お金も吸い取られるし遊べなくなるから」と言っていたものだった。

 ところが彼の今日の有様はどうだ。ファーストバイトでやに下がる姿は、以前の彼とは別人のように柊の目に映った。

 そうでなくとも披露宴会場の華やかで友好的で活気に満ちた雰囲気は、柊を場違いな気分にさせるのだ。

 帰りの新幹線で引き出物を開けてみると、お湯を注ぐと新郎新婦の笑った顔面が浮かび上がるマグカップが入っていた。
 柊はその場でその、百パーセント箪笥の肥やしになるであろう物体をかち割りたい衝動に駆られたが、すんでのところで堪えた。

 人の心は簡単に変わる。

 そしてそれは、きっと夏帆も同じこと。

 人肌の温もりは、柊にこの上ない癒しをもたらした。快楽以上に、彼をこの世に繋ぎ止めてくれる何かだった。だが、それと同時に怖かった。

 深入りしすぎた、長くいすぎた、近づきすぎた。

 潮時なのだ、きっと。

 ──どうせ離れていく癖に。どうせどうせ、結局はひとりだ。

 こちらから接触を絶てば、そのうち諦めるだろうと思った。新しい職場で、彼女は新しい恋を見つけて夢中になるだろう。柊の存在なんて、すぐに忘れてしまうだろう。

 酷いことをしているという自覚はある。でも、もっと酷いことになる前に手を打つのだ。

 夏帆は柊にとって唯一、強引にでも心の中まで入ってきてくれた存在だ。
 これ以上傷つけたくはなかった。

 二の腕に付けられた爪痕は、もうすっかり消えてしまった。

 人の心は簡単に変わる。

 ──ただし、俺以外は。



 脱いだスーツの上着とかさばる引き出物の紙袋をまとめて抱え、学部の入り口を出た。

 水産学部を出てすぐの場所には小さな噴水が設置されている。今は水の噴出は止められ、水面にただ闇を湛えている。
 そのへりに座る影があった。

 柊が近づくと影は立ち上がった。

「……先生」
「……倉永か」
 柊は足を止めた。ついさっきまで頭の中にいた女が現れたので、少し驚く。
「お久しぶりです」

 

「今日の先生はなんだかフォーマルですね」
「……あぁ」

 どこかで「チーチー」と、名前の知らない虫の鳴き声がする。

「少し痩せました?」
 夏帆は柊へと近づいた。街灯に照らされて、睫毛の影が頬に落ちる。
 お前こそ、と思ったが口には出さなかった。

「ニュース見ましたか? 最近このあたりで通り魔事件があったらしいですよ」

 柊は無言でいる。夜風が噴水のそばの樹々を揺らす。

 少しの間の後、柊は言う。

「で……?」
「だから先生も気をつけ──」

「お前さぁ。いい加減にしろよ」
 自分でもドキリとするくらい冷たい声が出た。
 夏帆の肩が跳ねた。

「ウザいんだよ」

 すっかり見慣れた長い睫毛が伏せられる。
「見たくないんだよ、お前の顔。二度と」

 ──どうせ離れていく癖に。

 女の口元が歪み、大粒の涙が溢れ落ちる。
 女は背を向けて走り去った。

 柊はその場にしばらく佇んだ。

 寄りかかってしまいそうだった。
 ああでも言わなければ、十も歳の離れた女の胸に縋って、号泣してしまいそうだった。

 これで良かったのだ、お互いにとって。

 疼くような胸の痛みを抱えたまま、柊は家へと足を向けた。



 *



 柊はさらに遠ざかる。今までで一番遠い場所へ。

 靴を履いたままドアに内側からもたれかかるように座った。夏帆はしばらく動けない。

 どうやって帰ってきたのかわからなかった。街灯に照らされた彼の前髪の影に、暗い瞳が潜んでいた。

 夏帆には柊が何を考えているのか、結局さっぱりわからない。

 ──あと少しだと思ったのに。いったい何がいけないんだろう?

 あんなに酷いことを言われても、夏帆の心から柊は消えない。いつでも心の中心にいる。
 なんと言っても、彼は「運命の人」なのだから。

 ──会いたい。

 さっき、あんな形ではあるにしろ会ったばかりなのに、夏帆の全身はなおも柊を欲する。

 柊の身体は夏帆の身体に、とてもしっくりとなじむ。まるで、元々ひとつの生命体だったみたいに。

 また彼と抱き合いたい。抱き合って、その先までいきたい。あわよくば心を通わせたい。下の名前で呼んでほしい。

 柊が部屋に来るようになってすぐ、夏帆は会社の男性社員ふたりから立て続けに食事に誘われた。
 女性の先輩社員には「倉永さんってなんかフェロモン出てるよね」と言われた。

 全然うれしくなかった。

 ──先生じゃなきゃ意味ないのに。

 風呂場に残された柊用のシャンプーやボディソープを見るたび、夏帆の胸は張り裂けそうになる。
 流しの下の収納には、ボディソープの詰め替え用を置いてある。
 彼のために買った香水は、ひと月以上、ちっとも減らない。
 渡せなかった合鍵の、真新しさが悲しい。
 でも捨てることはしない。

 そして土曜日の夜は、今でも必ず空けてある。


 よろよろと立ち上がり、靴を脱いで部屋に上がった。

 夏帆はクローゼットから例のタオルを取り出した。涙が溢れ、タオルを包むビニール袋の上で玉となって転がった。いくつもいくつも転がった。

「切り札」を使うべきか否か。それが問題だ。

 夏帆は長いこと煩悶した。
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