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「でも」

 先ほどの興奮気味な圧力が幻かのように、その声が小さくなった。

「でも、その代わりに、ルカ様が変わってしまった、変になってしまった」

 その女性、アーリャさんは震えながら言葉の続きを吐き出した。

「物憂げにため息を吐くなんて、彼らしくない。大怪我を負うなんて、彼らしくない。それで一ヶ月も休暇を取るなんて、彼らしくない!」

 段々と声の大きさが増し、最後は叫びになった。

「私は知ってるもん! あの日から六年間、遠くから彼を見たんだから!」

 そう叫び、顔にあらゆるシワを寄せながら私を指差した。

「全部、全部! あんたのせい! あんたがルカ様を変にさせた!」

 その悲痛の叫びを最後にして、アーリャさんは激しく肩で息をしている。
 全部出し切ったからなのか、それ以上何も言わず、食堂に静寂が訪れる。

「なんて、馬鹿な……」

 カレンは、どんな顔で言ったのだろうか。
 私は、気づかずに笑顔を保てなくなった。

 この時、心の中にどんな感情が流れているのか、正直わからない。
 喉まで湧き上がる不快感があったが、二、三回深呼吸をすればそれが和らぐ。

 アーリャさんの嗚咽が聞こえる。
 それに対して、驚くほど心が響かなかった。

「返して……昔のルカ様を、返してよ……」

 その言葉は引き金となった。

「旦那様は、ただの人間です」

 我慢できなかった。できなくなった。
 それでも、冷静に、そして感情的にならないように努力する。
 左手で拳を握り、再び微笑を作る。

「だから、失敗も犯しますし、怪我をしたら休息を取らないといけません」

 その失敗を否定することは、それを改善しようとしてる彼の努力を否定するのと同意義だ。

「ここでご飯を食べるように、悩む時だってあります」

 悩みながら、前に進む。そんな彼の強さがとても眩しかった。
 疲れている時もあり、趣味を嗜む時もある。
 身内を愛し、守る。そんな男だ。

「そんなことは、私よりも長年彼を見ている貴女の方が知っているはずです」

 彼はどこにでもいる、人間だ。
 たまたまロートネジュ家に生まれて、竜の血を濃く継いだ、ただの人間だ。

 何故、こんな当たり前なことを彼女に言わないといけないのだろうか。
 その事実はとてもやるせなくて、胸が苦しい。

「違う、そんなの知らない……そんなの知らない!!」

 いきなり、アーリャさんが大声で叫んだ。
 顔を上げて、今でも涙を流している目でこちらを睨んでいる。

「あんたこそ、何がわかるの!」

 その言葉と同時に、彼女は私に突進した。
 カレンは盾になってくれたため、彼女の手は私に届かなかった。

「六年前! 彼があの荘厳な姿であいつらを殺してから! いつも見ている! いつも想っている! 私が、私が想う彼は! そんなことはしない! 決して!!」

 乱れた息に、憎しみが籠った赤い瞳。
 それに伴い、支離滅裂な言葉を吐き出した。

「何事だ」

 未だに暴れている彼女をカレンから剥がした存在がそう短く問う。
 その姿を確認すると、自然と肩から力が抜けた。
 彼の後ろにはアベル様やファルク様、何人かの衛兵や騎士がいる。

「旦那様」
「っ! ルカ様!」

 アーリャさんは私に固定された視線を外し、旦那様の方に向く。
 彼女の姿を見て、彼は瞠目した後、眉間にシワを寄せた。


「……どういうことだ? 何故掃除婦がシエラを……?」
「閣下! こちらの女性は奥様に無礼を働こうとしていました!」
「違う! 違います、私はただ!」

 二つの主張を前にして、旦那様は私に視線を送った。
 口では答えられず、彼から顔を背ける。

「とりあえず、この女性を取り調べ室に。まず、そこで話を詳しく聞いてくれ」
「はっ!」

 アベル様は周りにいる衛兵に指示を出した。旦那様から離れた彼女は否定の叫びをあげながら衛兵たちと一緒にこの場から去った。
 彼女のその姿を見て、思わず憐れだと感じた。

「……何か、されたのか?」
「……いいえ?」
「……」
「本当ですよ? それに、カレンがちゃんと守ってくれましたよ?」

 ありはしないことを告発されるのはもう慣れた。
 だから、何とも思わない。

「旦那様や皆様は、何故ここに?」
「衛兵に、食堂で君が人に絡まれたと報告を受けたから」
「そう、ですか」

 目撃されたことは、仕方ないことだ。だが、大事にならずに済みそうでほっとした。
 そのせいなのか、体から緊張が解けてしまった。

「あれ?」

 頬に何かが流れる。
 それを手で拭うと、手袋の色が少し濃くなった。

「あれ、おかしいなぁ」

 拭いても拭いても、新しい涙が流れてくるだけ。
 泣くつもりなんて、全くなかったのに。本当に、なんとも思わなかったのに。

「ちょっとだけ、待ってくださいね。大丈夫、大丈夫です。時間がたてば――」

 「自然に止まるはず」、そう言いたかった。
 だが、それを言う前に、衝撃がそれを止めた。
 温もりが私を包み込む。それを感じて、何が起きているのか理解した。

「旦那様……」

 呼びかけても、彼は無言を貫いた。
 返事の代わりに、彼は優しく頭をポンポンと撫でてくれた。

 本当に、彼はズルい人だ。拙い仕草でいとも簡単に私の心を揺さぶる。

 悔しい。
 やっぱり、納得できない。
 全員ではないとわかっている。でも国民は、こんな優しい人に何ということを押し付けたのか。
 今までは知識として知ったとしても、実際生きた証拠を突きつけられると現実味を浴びる。

 守らないといけないはずの民への怒り。
 それを受け止めらる広い心を持たない自分への怒り。

 その気持ちは涙に変わった。
 結局、彼にそれを受け止めさせてしまった。


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