火つけ

多摩川 健

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火つけ

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 この師走、また南八丁堀で大火があろうとは知る由もない。
 昼までは暖かな風が午後は急速に強い北風となり吹き抜ける。江戸中期。元禄元年の話である。
   
「おいおい・・・みの吉。そんなに慌てて書くことはないぞ。今日はな、この壁に師匠が書いた ーーいろはにほへとーー これをしっかりと、ゆっくり見て書きなさい」
 芝七軒町。 銭屋長屋を師走の北風が江戸湾へ突き抜ける。
寺子屋では今日も、手習いの真っ最中である。
「長次。少し墨が薄すぎるようだな。留吉は、きちっと座り姿勢を正して書きなさい。梅、それでいいよ・・そうそう筆の先はそっと入れ、しっかり伸ばす。止めるところはきっちり止める」
 さとがほっぺたに墨を付けて言った。
「梅はね、いつもなにかしゃべり方がおかしいんだよ。だってね・・イロハニフヘト・・・・て いうんだよ」
 前歯が一本抜けた梅はまだ少し空気が抜ける。
「少し筆を休めて皆聞きなさい。人間はその身体の特徴や、やや欠けた所があっても、皆同じように一人前なんだよ。欠けた所を笑ったりからかったりしてはいけない。誰もいいところと欠けた所をもっているのだからね」
 吉次は、左手で筆を持ち右止めに苦労している。右手の指が生まれついて固まっているのだ。左腕を支えしっかり右の筆止めを教える。
「吉次上手いぞ。その調子だ。左で何でもできるんだからな」
「はいお師匠様。うまく右にしっかり止めることができました」
「さあ。今日はここまでにしよう。筆先はしっかり紙で拭い、道具箱にしまいなさい」
 子供たちが嬉々として帰っていく。
「いつもあんなですか。今、水を飲みに行って、お師匠様の部屋の戸があいていたので中を見たらもうびっくり。書物や紙が部屋中に!」
「いや・・すぐにな・・・ちらしてしまうのだよ」
 頭に手をやる三之丞。
「では帰りに、はると、ちょっとかたずけておきますね」
 いととはるは、年長十三歳で来春には奉公に出る予定だ。

  三乃丞は、差し棒の仕掛けを直してもらおうかーーと長屋の北東角の厠の向かい、飾り職人時次郎の家に向かった。
「時次郎さんいるかね」
 ちょうど河野屋に収める簪の最後の仕上げに真剣な表情の時次郎が、仕事台から顔を挙げた。
「この仕掛けだが少し緩いような気がする。うっかり寺子屋で外れたら大変だからな」
 と三之丞が差し出す差し棒を、時次郎は点検し始めた。
「鍵十字の仕掛けが・・少し・・緩いようですな。この簪がすんだらすぐに直しましょうよ」
 長身で、長い手足の時次郎だ。
「師匠は今日はこれからお出掛けですか」
「牛込の道場でひと汗流してこようかと」
「では、お帰りまでにはきっちり直しておきましょうよ」
「忙しい折にいつもすまないが、頼みましたよ」
「いつも、長屋中がお世話になっている師匠の頼みだ。何、簡単でござんすよ」


 江戸は家康の江戸城建立から約百年。百万人の大都会になっていた。全国での米の生産が飛躍的伸び、乾田への切り替えで地方はまた、稲の他に、藍、桑、紅花等、多岐にわたる生産で豊かになりつつあった。
   物流では一六六0年の初頭には、河村瑞賢が東回りと西回りの廻船を開き、特に大阪では両替、金融業が諸藩の蔵屋敷の管理や出納を行う、というような時代になってきた。
 当時の江戸、大阪は米の集積地の他に、大名の藩の財政を管理する重要な出先であった。武士階級においても二大都市は重要な拠点となっていた。
 一方、市民の生活は、武家の豪奢ぶりからはまだかけ離れてはいたが、一部の豪商達は江戸、大阪での米の管理ということで、急激に蓄財するものも多くなっていた。大阪、江戸の蔵屋敷とも大繁盛で一部の豪商が権勢を伸ばした。いつの世も人々の格差はなくならない。


   尾張屋長三郎は、蔵元の仕事の合間に尾張藩から頼まれた仕事のために、江戸に向かって二日目のことであった。
 東海道島田宿からちょうど、宇津ノ谷峠にさしかかっていた。今回の仕事は城郭先端の尾張藩のシンボルともいうべき金のシャチホコの仕上げ細工で、腕の立つ職人を探すことであった。この分野ではやはり、江戸の職人が群を抜いて達者であり、藩主からの強い要請であった。鍵屋からの知らせで何人かの候補者に会いに行くところだ。 
 ーーそうだ。ちょうどこの辺りであったーー 
 五年前に旅の娘を助けたことを思い返していた。あれから五年か。わしも年を取ったものだ。と白髪をなでる。
ーーあの時、峠の最後の切り通しのところで、突然女の悲鳴が聞こえ、長三郎は左手の茂みに走り込んだ。無頼者と浪人が、今まさに若い娘に襲いかかろうとしている。そばでは、同行と思われる老爺が必死に娘をかばうが、危ないーー
「おい。浪人。貴様! 何をしようとしておる。ここは天下の街道だぞ」
「なんだ! お前は。文句あるのか。たたっ斬るぞ!」
   角顔がだみ声で脅す。
 浪人は刀を抜くと上段から長三郎に斬りかかる。右に体を交わし、鍔先を浪人のひばらに打ち込む。大きくうめいた浪人んはそれでも下から突き上げる。長三郎は刀を抜き、峰を返すと、右肩を目にもとまらぬ速さで叩く。浪人と無頼者は峠の下に逃げ出していった。商人風と侮ったか、見事に撃退されたわけだ。年は取っても長三郎の腕に衰えはなかった。
 「お助けいただいて、まことにありがとうございます。お嬢様と江戸へ向かうところでございましたが、この峠で、無頼浪人に突然襲われまして」
 娘と老爺は、掛川から江戸への旅の途中であった。呉服屋を営んでいた片親の父をも亡くし、店を整理して、遠縁にあたる江、南八丁堀の三ツ池屋弥一郎の元へ向かう途中であった。老爺、弥助一人の供であり、難儀な旅の様子であった。おっとりとした丸顔で目鼻立ちの整った娘は、
「おかげさまをもちまして助かりましてございます。掛川で呉服商をやっておりました前田屋の、しのと申します。お名前をうかがわせていただけませんでしょうか。次の安倍川の宿にて、ささやかでございますがお礼をさせていただきとうございます」
  しっかりとした口調での礼の言葉であった。
「いやいや、旅は相見互い。これからの峠越えなどでは、宿の籠を使うようになさい。先を急いでおりますので、これにて失礼いたしますよ。尾張屋長三郎と申すものでございます」
  大柄で額の広い長三郎であった。
「では、あの尾張藩の蔵元の・・尾張屋様でございましたか」
 と老爺。 ふたりに黙礼すると、長三郎は脚を速めて東に下って行った。
 ーーあれから・・五年の歳月がたっていたのだーー  
   
 この五日前、師走のからっかぜが吹く中を、上野の呉服商、吉野家吉政は、今日は供もつれずに背を丸めながら深川富岡神宮の奥、あたりの香具師元締め、鬼屋の一八のところに向かっていた。日ごろから、店でのもめごとなどの相談と処理人でもあった。
「吉野家の・・この師走も押し迫った中、今日は何事だい」
「一八親分に手を煩わせるほどのことかどうかですがな・・実はちょっと困っておりましてな。少し痛めつけてやりたい店がありますので・・」
「ふーーーん。同業者だろう」
 おみとうしの一八であった。
「実はそれです。最近やたらと、南八丁堀の三ツ池屋に客を取られてましてな。弥一郎は最近すっかり何かコツをつかみ、魚をえたようでしてな」
  少し赤黒い丸顔。 どんぐり眼で下から一八を見上げる。
「お前さんも、そのあたりを探って真似をしたらよかろうに」 
「それがどうもつかめんのでござんすよ。そこで・・ちょっと・・・店のあたりで火でも起こればと!」
  物騒な話だ。
「そいつはちっとな。お前様も、知っていなさるだろうに。最近はボヤ程度でも、お調べが厳しいぞ。まして失火でなく付け火とわかったら・・・」
「そこですよ。大事にならない程度で。店先か横路地あたりで、少し燃えてくれれば、三ツ池屋の評判が落ちれば、こっちのもんです」
  と懐の袱紗から二十両を一八の前に置く。
「吉野家さんも、恐ろしいことをおっしゃるお人だね。私どもが直接は、できませんですよ。それにわしらの名前も、絶対に表に出ないということでな。こう見えてもね、香具師の商売は、脅し、たかりより信用と顔ですからな」
「それは、親分さん。十二分にこころえておりますですよ。何とかこの年内に。お願いいたします。年明けには同額で、お礼に伺わしていただきます」
「旦那にそこまで言われちゃ。考えておきましょうよ」
  と二十両を受け取る。
 一八は、吉野家が帰ると、信用できる代貸の三蔵を部屋に呼んで密談だ。
「・・というわけで・・界隈の土地者は駄目だぞ。ボヤを起こしたらすぐに江戸を離れるよそ者でなくてはな。木場奥の大西先生のところに、確か伊勢崎の流れ者がいて、下働きをしていたな。奴に因果を含めるように先生にお願いしてこい。この十両でけりをつけてこい。くれぐれも用心するようにな。ボヤ程度でも御上のお調べは厳しいぞ!」
  と煙管をくゆらせる。

  門前仲町を左に折れ、仙台掘り方向の万年町。代貸三蔵の家では、酒肴が準備され、肥前藩浪人大西主馬、同じく肥後浪人石橋一之介が歓待を受けている。二人は木場の先に巣食う食い詰め浪人だ。もはや土地の無頼者と同じであった。
「・・というわけで。先生方に、やっていただくほどの仕事ではないんだがね。先生のところにいなさる・・伊勢崎の・・たしか・・」
「三平のことかね。奴はあれでなかなか役に立つ。度胸もあるしな」
「ボヤ程度とはいえ、お調べは厳しいから、よそ者ですぐに江戸から出れる奴がいいんでね。どうかお願いいたしますよ。とりあえずこれは前金で」
  と大西の前に三蔵は四両を置いた。
「いいだろう。引き受けた。それでいつまでに・・」
「年内ですがね。できればここ四、五日で片を付けたいんでござんすよ。くれぐれもわしらの筋は・・・ご内聞に」
  うわ瞼の厚い三蔵は念を押す。 
 その晩、伊勢崎の三平は大西から薬研堀の船宿井筒に呼ばれた。
「大西の旦那。簡単な仕事だ。五日以内にやってみせやしょう。江戸では旦那方にお世話になりましたし、ちょうど潮時で伊勢崎に帰ろうかと。し遂げた後、すぐにご府内から消えておりますよ」
 と餞別の二両を受け取る。


  伊勢崎の三平は深川から永代橋を北へ渡り、神田から八丁堀に向かっている。 師走の南八丁堀のあたりに強い北風が時々吹き抜ける。
 仕掛けるにはまだ早い宵の口で、職人や棒手ぶりが行きかっている。
風の様子も見ながら、三平は、三池屋の表口から左に折れる路地の火桶置き
の傍らで、たたずみながら北風の様子を探っていた。 
ーーボヤ程度に収めるには・・少し周りに人がいる方がいいかもしれないなーー
  大西の旦那が言うには評判を落とす程度でいいと。表口はすでにしっかりと閉められていて、火桶置き場の上の松の木のあたりの二階には、明かりがともっていた。風が少し下火になった。よし。いまだ!
  このこのあたりがよかろう。三平は懐からすっかり乾いた紙と火打石をとりだし、あたりをを見回す。緩やかな冬風が吹く。人通りはほとんどない。
 素早く火打石をたたき、乾いた紙に向ける。さっと、火が付く。さらに乾いた紙に火を移し、塀越しに投げこもうとした。 と。 その時、ーー強く北風が吹いて、三平のほお被りの手ぬぐいを飛ばすーー
 火はあっという間に乾いた松の枝に燃え広がり、勢いよく三ツ池屋の二階の戸袋に燃え移る。
「これくらいで、よかろう」
  落ちた手ぬぐいを拾って、横丁から出ようとしたとき、
「あれ。火が。これは大変だ! 風がつよくなってきて」
  夕刻の商売から帰宅途中の、棒振り魚売りの男とぶつかりそうになる。
下あごのとがった三平は、無言で男の傍らを走り抜け、永代橋の方向に走り抜ける。
 ーー顔をみられたかもしれねえなーー
  と右目の下の痣をなでる。
  火に気付いた奴がいる。まぁ、ぼや程度で済むだろう。こりゃ溜池の巳之助のところに隠した金を取って、すぐに伊勢崎に帰ったほうがよさそうだ。


 松の木に移った炎は、思いの外に大きく、シューと音を立て、母屋二階の羽目板にあっという間に燃え広がる。炎の周りがまことに早い。強い北風にあおられ、炎は瞬く間に上下にメラメラと燃え広がる。
 三ツ池の弥一郎は、ちょうど丁場の仕事を全て終え、二階の居間に上がるところであった。
 二階の天井のあたりから糸を引くような白煙とミリミリという木が裂けるような音。これはいかん。二階が火事だ。慌てて駆け上ろうとしたとき、前方からものすごい黒煙がこちらに向かう。
 妻がたもとで口を覆い必死で階段にはいだしてきた。弥一郎も姿勢を低くしながら、左たもとで口を覆い、思い切り右手を伸ばし妻の腕をつかみ、下に引っ張る。その時乾燥した室内では、すでに大きな炎が上がっていた。急ぎ妻を引いて階段を降りようとしたまさにその時、すでに下に回った烈火のような炎が階段下に一気に迫る。
 二人は階段下に転げ落ちた。朦朧として意識が薄れ始める。阿修羅のごとく燃え広がる炎の中をそれでも必死に妻を引いて、正面戸口の土間に転がったが、そこでふたりは意識を失った。
ジャンジャンジャンと半鐘が急を告げる中、尾張藩蔵屋敷の蔵掛、田島牛乃進は、池之端の道場帰りで、役宅の長屋を目指し駆け出していた。尾張藩蔵屋敷の少し手前の商家三ツ池屋から、ものすごい黒煙が上がり、やがてあっという間に師走の北風にあおられ、暗い夜空に大きな炎が上がっている。まさに数軒先は蔵屋敷であった。店の正面戸口が、今まさに燃え落ちんとしていた。牛乃進は戸口にうずくまる二人の姿を見た。蔵屋敷まではまだ数軒あったので、とっさに動く。二人を通りまで何とか引きずり出した。
あたりはすでに野次馬が出始めていた。野次馬の若い男に、老女のほうを見るように声をかけ、牛乃進は主人と思われる男の呼吸を探った。黒煙と炎で真っ黒の男の胸前を大きく開いて、心の臓に耳を当てる。ほとんど反応がない。やむなく道場で会得した、心の臓に両手をあてがいグイグイと押す。依然反応がない。そこへ一番組、は組の頭と思われる男から声がかかる。
「お侍。ちーっと無理かもしれねえが、あとはお任せなさい」
「そこの妻女も頼んだぞ。拙者は、この先の尾張藩蔵屋敷の田島牛乃進!」
  叫ぶと蔵屋敷に向かって急ぐ。と 数歩先、店の勝手先から黒煙で真っ黒になりながら、若い娘と老爺が転がり出てきた。
「お嬢様もう無理でござんすよ。旦那様と奥様は、外に出たかもしれませんから」
 戻ろうとする娘を必死で引き戻す老爺。
身体中、煤と黒煙で真っ黒になった老爺が、これも真っ黒な娘をやっと引き戻す。それでも女は、燃え広がる正面戸口に向かって、養親を助けに行こうとしている。牛乃進は、通りの奥で介助されている二人のことを知らせた。ふたりは、は組の火消しの方向に急いで走った。あの老夫婦は助かるだろうか。
蔵屋敷では上役の指示のもと、若党他全員が類焼を防ごうと、は組の火消と相談中であった。火はこちらに向って、北風の中を衰える様子はない。 
「ここまで、火元からあと十数軒でござんす。中ほどの、ここから五軒を急ぎ取り壊し、日除け地を作るしか方法がござんせん!」
は組の屈強な若党の声に、蔵元上役と供に出張っていた尾張屋長三郎も、同感であった。上役が藩の全員に取り壊し手伝いを即刻命じた。それから一刻後、火は何とかおさまり類焼を防ぐことができた。
野次馬たちも三々五々引き上げる中、田島は店から引き出した二人の老夫婦のことが気がかりで、三ツ池屋の向かいに戻ってみると、先ほどの娘と老爺が、横たわる二人に取りすがって泣いていた。いくら声をかけても、もう答えはない。
「お二人は駄目でござんした。喉から黒煙を相当吸っていなさって・・」  頭がまことに残念そうに田島に声をかけた。この寒空に番所というわけにもいかず、手下に娘と老爺の今夜の宿の手配を言いつけていた。
「頭。わが蔵屋敷の長屋が空いています。しばらくでしたらそこにお連れしてもかまいませんが」
 と田島が声をかける。
「お武家様助かります。あまり身寄りもないようですので、そうしていただければ。後でそちらに土地の目明しなどから、お調べもあるとは思いますが。二人がしばらくは落ち着く場所が必要かと。わっちどもは、一番組。は組の次郎と申します」
そんな経緯で、田島はその場を去りがたい二人を、尾張藩蔵屋敷長屋へ引き取ることとなった。
この日はたまたま番頭、手代や通いの女中たちも、早めに引き上げた後であったため、三ツ池屋は亡くなった主人と妻、娘のしのと老爺弥助の四人だけであったのが、不幸中の幸いであったかもしれない。
煤で黒くなった姿で長屋に入った二人は、長屋の妻女たちの世話で、顔と身体を洗い清めたが、放心状態であった。田島と尾張屋はその遅い宵、二人に必要なものと、様子を見るために長屋を訪ねた。尾張屋はまだ放心状態の娘の顔を見たとき・・・・・
ーーおや この顔は・・いずこかで・・・お。そうじゃ五年前のあの時の娘と老爺ではないかーー  
それでも必死に礼を述べようと、しのは二人に向かって顔を上げた。老爺のほうが先にきずいたようだ。
「あ 五年前、駿河の峠でお助けいただいた!」
 絶句する。その声に、しのも尾張屋と田島をじっと見る。驚きの表情であった。必死で両手をつくと、
「このように二度までお助けいただき誠に、まことにありがとう存じます。養父母は残念でございました。手塩にかけて可愛がっていただきましたのに」     思い出したのか整った顔から大粒の涙が光る。
「これも何かの縁じゃのう。江戸で暮らすと聞いてが、三ツ池屋であったのか。しばらくは落ち着かぬであろう。お調べや、御養父母の弔いなどもあろうから、何でもここの田島と長屋の妻女達に相談なされ」
ふたりは深く頭を下げた。

  翌日昼。九ツ。北町奉行所与力、権田十郎は同心山内与十郎と深川の岡っ引き三次を従えて、南八丁堀の尾張蔵屋敷を訪ねた。まずは家族で生き残った娘と老爺の聞き取りを開始するためであった。
「昨晩の火災では、尾張藩の皆様方にもお世話になり、日除け地で、何とか類焼も防ぐことができました。奉行からもお礼をということでございました。本日は、まず生き残りの娘さんと老爺に話を伺いに参りました。二人の藩長屋へのお引き取りにも感謝申し上げます」
  上役と田島牛之進に丁寧に申し述べる。
「ご苦労様にござりまする。娘たちは昨晩のことでまだ落ち着かないさまでござる。拙者が同行させていただいてもよろしいかな」
  と牛乃進であった。  
「ご養父母を亡くされて誠に残念な折ではありますが、昨晩の様子を少し伺いたくて参っております。夕刻、何か不振に気付かれたことはありましょうか」
  与力権田の問いかけに、しのも老爺も黙って首を横にするばかりであった。
「じつは、火が上がった刻に、表どうりで、三ツ池屋さんの横辻から飛び出してくるやくざ風の男と、棒手ぶり魚屋が出会いましてな」
「お嬢様。何か恨まれるようなことに、心当たりはございませんかねえ。若いやくざ風で、細い糸を引くような目と、右目の下に大きな痣がある男のようですがね」
   深川の岡っ引き三次が改めて確認するが、
「そのような方は存じておりませんですね。お嬢様」と老爺。
  火が回った時、しのと老爺は勝手口で夕餉の支度中であった。ものすごい黒煙が二階から一気に降りてきて、養父母を助けられず残念であったことなどを娘は細い声で伝えた。
「四人だけが、店とお宅にいらしたわけですな。今回は火つけとみております。一刻も早く下手人を探し追及するつもりです。いろいろご心労のところまことに恐縮でした」
  与力権田十郎は挨拶して引き上げる。
「権田様。娘さんも養父母を同時に無くし、身寄りもなく悲嘆にくれております。何とか事件のいきさつと、下手人を捕縛してくださいませ」
  と牛乃進言った。



  牛込の堀内道場では、激しい竹刀の声が響き渡っている。堀内健太左衛門が師匠だ。この道場の使い手、師範代旗本の畑山光太郎、尾張藩の原田寅吉、松前藩の栗原右衛門などが稽古に汗を流している。
 上段から裂ぱくの気合いで、原田寅吉が三之丞に打ち込んでくる。少し身体を開きながら両腕でうけるが、グイーと押し込んでくる。原田とはほぼ互角の腕前だが、畑山にはやはり三本中一本くらいしか勝てない。堀内先生のおっしゃる、間合いが、まだまだ未熟であると三乃丞は感じていた。稽古が終わり庭の井戸で身体を拭いていると、尾張藩の原田寅吉がやってくる。
「おぬしは確か旗本の三男と聞き及ぶが。稽古は熱心だな」
「いや まだまだの未熟者です。原田さんや師範代にはまだまだ及びません」
「たしか芝の長屋で寺子屋とか・・またなんで・・」
「旗本の三男坊など、刺身のつまにもなりませぬ。それに堅苦しい武士の生活というのも私にはあいません。習い覚えた論語、大学、そろばんなどを生かして街中で自由に生活させてもらっています」
 と三之丞。
「よくお父上が許されましたな」
「私もびっくりでしたが、兄二人に万一あった時だけ戻ればよい、との一言でした」
  端正な顔を手ぬぐいで拭いながら三之丞は笑って答える。
「それは驚きましたな。しかし剣のほうもなかなかで、おしいのう・・」
「剣術は大好きです。それと、銭湯にゆっくりつかるのも」
  と笑う三乃丞。身体を拭き終わると、
「それにしても先日の池之端、塚原道場の田島牛乃進殿はすごい腕前でした。三本のうちやっと一本打ち込めましたが」
  真剣な表情の三之丞だ。
「田島は藩の同輩であるが、拙者も同じで、なかなか勝てませぬな。間合いがまことに上手い。引くとみせ来る。来るとみせてわずかに引く。堀内先生の説く、ーー間合いこそが剣の奥儀ーーそのままで。天性ものかもしれんな」
「一度是非、加藤殿にお話を伺いたいものですが」と三之丞。
「わしは藩邸務めであるが、田島は勘定方で南八丁堀の蔵屋敷長屋に暮らしておる。まだ独り身じゃがな。おぬしと同年配であろう。今日藩邸で会うので話しておこう」
  がっしりとした長身の原田が答える。
「ありがとうございます。それであれば、明日夕刻にでも早速南八丁堀の役宅に伺わせていただきましょう」
「おぬしも、こうときめたら気の早い男よのう」
  と原田が目じりを下げ笑う。
「ところで帰りに一杯やっていかぬか。のどが乾いてならぬでな」
「原田様 お供させていただきましょう」
  それを聞きつけていたのか、松前藩の栗原右衛門が丸い身体を揺すって、
「おうおう、それは良いのう。わしも一緒させていただこう」
 三人は連れ立って飯田橋から神楽坂方向に向かった。

  翌日。申の刻を告げる江戸の鐘が響き渡る北風の中を、三乃丞は南八丁堀に向かっていた。町火消、は組の連中が、先刻の半鐘の先に向かって必死の形相で火消し車を引いて走る。はてこの辺りであろうか。鍛冶橋を超えるとあたりから、煤と煙の臭いが風に乗って迫ってくるではないか。八丁堀から右に折れ呉服屋の前まで来ると店の向いの通りでは、町火消の連中が、今まさに鎮火後の片付けの真っ最中で、焼け出された店のものが通りに横たわり、家族が茫然自失の体であった。
 これは今日はまずかったかな。戻ろうかとも三乃丞は思案したが、すでに数軒先、南側の商家は壊されて日除け地になっているのを見て、奥の尾張藩蔵屋敷に向かった。
  蔵屋敷は藩士達で騒然とする最中であった。
「菊池三之丞と申しますが、田島様のお住まいはこちらでようございましょうか」
  がっしりとして、額の立派に広い蔵屋敷の商人風の男が答えた。
「その左の奥側じゃが、ご覧のとうり、近所の火消しの後で、皆忙しくしておるところじゃ。何か急用でござるかな」
「それは、大変でございました。藩邸の原田様のご紹介で参りましたが、今日のところは、ご挨拶のみにて帰らしていただきましょう」
  と三乃丞は丁寧に言った。
 田島の長屋を訪れてみると、ちょうど向い側の家から田島が戻ってくるところであった。先日立ち会った三之丞を田島も覚えていた。
「原田様にお願いいたしました。先日御指南いただきました、堀内道場の菊池でございます。ご多用中に伺いまして誠に申し訳なく、本日はご挨拶のみにて失礼仕ります」
  田島は藩邸での原田の言葉を思い出した。
「夕刻、この先の呉服商、三ツ池屋で火事があり申して、今、片付けの最中ですが、よろしければ中へお入りください。話は原田様から聞いておりますゆえ」
「いえ本日はご挨拶のみにて。また改めましてうかがわせていただきます」
「わざわざのお立ち寄り、まことに恐縮ですが、ではまた日を改めまして」
「火事の原因は、付け火とかの声も聴きましてございますが」
「土地の役人や岡っ引きの申すには、やくざ風の細い、右目の下に痣のある男の仕業ではないかと・・早速探索するようですが」
と田島牛乃進。



   翌朝は朝早くから鍵屋長屋の寺子屋では、いつものようににぎやかな子供たちの声が響き渡る。
「さあ、意味が分からなければ、いつでも質問をしなさい。お前達が大きくなって仕事を始めたり、迷った時に、少しでも役に立つのがこの==商売心得じゃ==」   
  三乃丞は項目を白紙に書き出し始めた。
「お師匠様。商売とは・・・・何のことですか」
   甚五郎のところの幼い六歳の娘 里が問う。
「里や。商売とはな、よい品物を仕入れて、少しもうけをのせて売ることさ。例えばな、里の大好きなスイカを、八銭で仕入れて、汗水流して客を探し十銭で売る。二銭は里が頑張った褒美ということだ」 
  真面目に答える三之丞。
「その二銭は里がもらえるの。うれしいいなあ。かかさまを助けてあげられる」
「おうおう、そのとうりよ。里はえらいのう」
  子供達が寺子屋から帰り部屋ががらりと空いた。その日の夕、申の刻。
長屋の北東奥の飾り職時次郎がやってくる。長い手足と鋭い眼だ。
「師匠。仕掛けができましたでござんすよ」
「もうできたか。それはありがたい。急がせてすまなかったな」
仕掛けは昨日よりしっかりしている。卍の留め金もカッチと入り、今度はまことに具合がよい。シュシュと左右に振る。しっかりと卍で止まっていた。
「いかほどだな」
  巾着を取り出す三乃丞。
「師匠。よござんすよ。いつも長屋じゅうがお世話になっておりやす。これくらいの仕事はお安い御用でござんすよ」
 時次郎は帰っていった。

  遅い昼餉をおえた三乃丞は牛込の道場に向かい、溜池から麹町方向に向かって歩いていた。向こうから下ってくるやくざ風の男を見て、直感的に通りの隅によって男を目で追う。
    ーー昔からこのような直感がよくある三乃丞であったーー 
  伊勢原の三平は麹町から溜池に向かい坂を下っていた。麹町の同郷巳之助に別れを告げて帰る途中であった。ボヤのつもりが大事になって、これはもうはやく江戸を出るしかないだろうと、巳之助との悪さで稼いだ分け前の金をとっての帰り道だ。
 あたりはまだ明るかった。坂を下ったところに、蕎麦屋が早くも店を出していた。江戸ともしばらくご無沙汰だ。一杯やっていこうと、店の暖簾をくぐる。その様子を向かいの路地から三乃丞がじっと見ていた。そして一時。じっとたたずんで待つ三之丞であった。
三平が頬かむりのまま店を出て、虎ノ門方向に向かう。三乃丞は道場行きをあきらめ男の後を追う。昨日八丁堀の先ですれ違った男に間違いない。先ほど頬かむりの間から、右目の下の痣も確認していた。寒い夕闇が迫る中を男は八丁堀から永代橋を抜け、深川方向に向かう。距離を置きながら三乃丞が男を追う。
 門前仲町の八幡神宮を越えた東、木場方向に向かう。細川越中守の下屋敷を左に折れた南西角が広い畑地になっていて、そこに浪人大西主馬と石橋一之介の住むしもた屋がある。あたりにはこの一軒家しかない寂しい場所である。木場の奥の隠れ家としてはまことに都合のよい場所であった。
男がその家に入るのを確かめ、しばらく見張っていた三乃丞は、気付かれないようにそっと、しもた屋の裏手の勝手口にうずくまる。中から三人の話声が漏れてくる。周囲を警戒している様子は全くない。
三ツ池屋の火災から四日後の宵であった。商家五件を全焼させ、死者二人を出す大火事となってしまった。伊勢崎の三平にしても、軽いボヤ程度のつもりが大事になった。
「火つけで追及や詮議も厳しくなるだろう。一刻も早く江戸を抜けだしたほうがよさそうで、挨拶に参りやした。明日あける前に、江戸を抜け出すつもりでおりますんで。わっしのようなやくざな田舎者を、仲間にいれていただいて、あんまりいいことはしちゃいませんがね」
 と浪人二人にお礼の金を渡す。 
「三平よ。人間にゃあな。いい奴と悪い奴。どっちつかずのその中間。三種類しかないのよ。俺たちはその悪のほうだがな。それでも生きていかねばならんのよ。ま。早く江戸を出たほうがいいだろう。半年や一年で、ほとぼりも覚めるだろうから、それまでは伊勢崎でじっとしていろ。餞別をやりたいところだが、このところ物入りですまんな」
  と大西も石橋も金を懐にしまう。
「明日早や立ちなら、今日はここに泊まっていけ。酒盛りでもしようではないか」
  それを聞いた三乃丞はそっと腰を上げ、木場の方向にゆっくりと、気付かれないように戻った。さて。すぐに番屋か奉行所に届けるべきかどうか迷ったが。ここは、急いで尾張藩蔵屋敷の田島殿に知らせようと思い立ち、寒風の中を永代橋を渡り南八丁堀へと急いだ。
  田島の家には三ツ池屋の娘しのと老爺弥助がいた。娘はすっかり牛乃進を信頼し、頼り切っている様子である。今日も町方や奉行所の探索を、心待ちにしていた。ここで話すべきか三乃丞は迷ったが、田島が娘を帰す様子もないのでやむなく、木場奥の見聞きした内容を手短に語った。娘が驚きの目を見張る。
「その三平というお人は、父母に何の恨みがありましたのか」当然の疑問だ。
「いや まだそこまではわからんが、そこには、胡散臭い浪人が二人おって、その筋からのつながりかもしれん」
  三之亟の言葉に、田島牛乃進は一瞬沈黙したがすぐに言った。
「明日明ける前に、その男が江戸を出てしまえば、追及も難しくなる。相手は三人か。よし今宵中に捕まえねばならん。直ちに拙者は出向く」刀を取る。
「及ばずながら この菊池も同道いたしましょう」と三之丞。
「わたくしもお連れくださいませ。父母を亡き者にしたいきさつを、どうしても知りとうございます」 
 しのは気丈な娘であった。老爺弥助と二人が、待つように説得しても頑として聞かない。
「危険でござるぞ。それでもか・・・・やむをえまい」田島が折れた。
 三乃丞は木場の先の住処を老爺に詳しく話し、直ちに深川の岡っ引き三次に届けるようにと手配した。田島、菊地、娘しのの三名は、永代橋を越え門前仲町から木場方向に向かった。時は夜九ツ過ぎだ。猛烈な寒さと闇の深夜であった。
 木場を東に下った一軒家につくと、左手の大きな松の木の下で田島は、
「しのさん。合図があるまで決してここを出てはなりませんぞ。これだけはお守りください」
   しのは唇をかみしめ、黙ってうなずく。
  田島は正面入り口に、三乃丞は左手から回り込んだ勝手口へ向かった。
 三平はわずかな物音に目を覚まし、勝手口から外の様子を伺う。面長で長身の男が月明かりの下に立っていた。
「なんだ てめえは!」
   月明かりの下で、細い右目下の痣がはっきりと浮かび上がる。
「今日一日中、溜池から、お前の後をつけて、すべて・・ここでの話も聞かせてもらったものさね。お前が三平さんかい。火つけの下手人はお前さんだな。罪は重いぞ。覚悟はできているのかね」
  三之丞が静かに三次に迫る。
「うるせい! さんぴんめ! それがどうしたい」とすごむ。
 奥から浪人大西主馬と石橋一ノ助が出てきた。すでに刀の鯉口を切っている。
「先生方。奴一人ですから、わっちにお任せください。片付けちまいますから」
「話を聞かれたからには生かしておいてはまずいぞ」
  と顎のとがった大西主馬。 
その時表口から田島が回り込んできた。ちらっと横目で確かめ、ドスを抜いた三平は、三乃丞に向って無言で鋭くドスをつきかける。凶暴な男だ。 左に体を開いた三乃丞は、小刀でドスを払う。二人の浪人は田島の正面に回り、大西は下段。石橋は上段に構える。
 ム!と、 うなった三平は体を低く足場を固めて、飛び込むように、再度三乃丞にドスを突き出す。右に下がると見せ、宙に舞った三乃丞。
 左手で差し棒の卍仕掛けを外す。と。シューと鋭い針のように長い小刀が飛び出し、三平の左目を突く。どっと血がほとばしり、三平は痛さに耐え兼ね、その場に膝から崩れ転げまわる。完全に戦意は消失だ。
  石橋は上段の構えからじりじりと田島との間合いを詰める。石橋が少し下り、一気に上段から斬り下ろす。左にわずかに体を寄せ、田島の峰を返した刀が石橋の胴をガッキと払う。右腹を抑えながら、石橋一ノ助が膝を折り倒れこんだ。
その直後。田島の後ろから、まさに大西主馬の下段撥ね上げ切りが襲おうとした。
大きく左に飛んで、三乃丞が撥ね上げ刀を受け止める。振り返った田島は一歩下がって、大西に対峙する。長いにらみ合いと二人の間合い詰めが続く。 
三乃丞は、二人の呼吸を横で見つめる。大西の息が上がってきた。耐え切れずに再度大西が、下段から裂ぱくの気合で撥ね上げる。右に体を交わした田島の峰打ちが、太西の左首筋の急所を打つ。一瞬の早業であった。その呼吸を三乃丞はしかと見届けた。大西も左ひざから崩れ落ちる。立てない。
   捕縛した三人のところへ松林の蔭からしのを呼ぶ。
「どのような恨みが父母にあってのことですか」鋭い声だ。
「頼まれ仕事さ・・・わしらに恨みはないのよ・・・」
   突かれた目の痛さに耐えながらも、三平がつぶやく。
「では・・その依頼人は・・」
「それは言えねえな。それが掟だからな」
  二人の浪人も決して依頼人を口外しない。厳しい詮議を待つほかはなかった。 やがて老爺弥助に先導されて、深川の岡っ引き三次が、北町奉行所与力、権田十郎と取り方二十数名をひきつれ到着した。
  三人は捕縛され、明け前の寒空の中を北町奉行所に引き立てられていった。

 それから十日後の師走二十五日。将軍側用人、柳沢吉保の常盤橋の邸宅である。
 菊池左衛門吉行の妹秋乃は、柳沢二人目の側室であった。正親町家ゆかりの正室定子は、健在であったが子女に恵まれない。側室飯塚染子を七年前に、はやり病で、秋乃もまた心の臓の病で昨年なくしている柳沢であった。
 側用人はまことに多忙であり、宵の登城も多い。子女に恵まれない吉保は、時々帰宅すると、父ほどの年配の菊池と茶を飲み、碁を打ち、旗本たちの思いや話を聞くことを楽しみにしていた。碁盤に静かに黒石を置いた柳沢。
「そちの三男がまた活躍いたしたそうじゃのう。先日の南八丁堀、三ツ池屋の付け火の下手人どもと戦うて、尾張藩蔵屋敷の侍と、捕縛したそうじゃ。北町奉行飛騨守が老中に報告しておった。お手柄お手柄!」
「さようで・・・・・」
「なんだ。おぬしは知らんのか。まあ良い。よい子息をお持ちでうらやましい」

  同じ日。芝七軒町、鍵屋長屋煮売りやおみよの店では貸し切りで、大宴会の真っ最中である。おみよとつね婆は大忙しだ。
  貸し切りの店の中は、なんと十三名の宴会だ。おみよは、大家鍵屋から飯机を三台借り、四台を狭い店内にびっしりと並べ、各台には野菜の煮しめ、人参とごぼうのきんぴら、小松菜のお浸しと漬物、なんと各人には姿のいい鯛のお頭焼きまでついている。
 奥の右側には、尾張屋長三郎、大家の鍵屋長兵衛、北町奉行所与力、権田十郎、は組の火消の頭、次郎。その左には尾張藩、田島牛ノ進、菊地三之丞、北町同心山内与十郎、飾り職の時次郎、入り口側の右には、深川の岡っ引き三次、芝の岡っ引き、琴屋の徳蔵と辰。その左が三ツ池屋の娘しのと老爺の弥助、なんとそこには・・・・三之丞の妹弥生までが勢ぞろいであった。
「しのさんの養父母はまことに残念であったが、大きな類焼もなく、つけ火の下手人らも捕縛しまずまずであった」
  と尾張屋が口火を切る。そこへ奥から店のおみよの威勢の良い声が飛んだ。
 「さあさあ、今日はゆっくり祝杯を挙げてくださいね。北町奉行所、飛騨守様からは、灘の大たると金一封。田島様、三之丞様に十両。尾張屋様からも尾張の地酒二式の大樽、大家さんの鍵屋の旦那様から、立派な鯛の尾頭付きをいただきましたよ❕」
「いやあああそりゃ 豪勢だな」と芝の辰が大声で応じる。
「祝杯の音頭は尾張屋様から」と鍵屋長兵衛。
「いやいや、今回は公儀のお仕事である。市中のわれらではなく、与力の権田様からと心得ますが」
   促され権田十郎がゆっくり話し始める。
「まずは三ツ池屋のおしのさんに、哀悼の意を表します。まことに残念でありました。ここにいる腕の立つお二人の機転で、,下手人どもを早期に捕縛し、尾張藩の皆様のおかげもあって突風の中、類焼も最小限に抑えることができ、飛騨守様からもお褒めの言葉をいただきました。付け火を自白した伊勢崎の流れ者三次は、火あぶりの刑。浪人大西と石橋の指示も判明し、二人は年明けの伊豆七島廻船でそれぞれ三宅島 神津島流しと決まりました。当分帰れないでありましょう。大元で指示した黒幕については、どうしても、二人は吐きませなんだ。ここからはご内聞に願いたいが・・探索から、深川の香具師の元締め経由で、同業の上野の呉服商吉野家が、客を取られた恨みからと目星はつけていますが 今のところ証拠がそろわぬために、日夜見張りを立てております」   と挨拶した。 
「え・・・・上野の吉野家様が・・・・」しのが絶句した。
   大樽から茶碗に酒が注がれ皆で乾杯した。腹にしみいるような。いい酒であった。あちこちでにぎやかな談笑が始まった。若衆髷と袴姿の弥生がしのを慰める。
「しの様、これからいかがなされますか。掛川にお身内は」 
「もうおりません。考えましたが、お世話になった養父母三ツ池屋を、再建してやっていこうかと思います。田島様や吉野屋様が相談下さり、再建の資金は鍵屋様が貸し付けてくださるようです。幸い、店の者たちもほとんどが無事に残っておりますので」しのが決意を述べた。
「それにしても、あれだけの大店を、おひとりで切り回すのは大変でしょうね」
  その時しのは、奥の飯机に座る田島牛乃進をじっと見つめていた。
「いやああ、田島殿。見事なお手並みでした。あの引く、詰める、引く、の間合いは大変参考になりました」と三之丞が感心する。
「いやいやおぬしこそ。両刀使いと、あの鋭い飛翔。左手での差し棒の技には目を見張りました」
   時次郎がきんぴらを口に運びながら、鋭い目でにやりと笑う。
「なに。万一の護身用にと差し棒に細工を。卍の細工は、ここの時次郎さんですよ」
   改めて田島牛ノ進は時次郎にいろいろ細工を聞いている。
その横では尾張屋長三郎が鍵屋長兵衛に礼を述べている。
「鍵屋様。この度の藩からのお役目も、無事に済みそうでありがとうございます。藩は天守閣、金の鯱の仕上げ細工に苦労いたしております。何人か推薦いただいた職人の、技と出来栄えを見させていただきましたが、ここの時次郎さんの技と簪はまことに見事なものでした。年明け来月から三ケ月ほど、時次郎さんに尾張まで出向いてもらうことになりました。また、縁あって、しのさんのために、三ツ池屋再建の資金も用立てていただけるようで、重ねてお礼申し上げます」
「いやいや。私も商人ですからな、見込みのないものに資金用立てはいたしませんよ。それに、しのさんには、尾張屋様が就ていなさるから安心ですよ」
  二人の商人としての絆はさらに一層深くなったようであった。
「あとはしのさんのことですがな・・蔵屋敷で半月暮らしてそこの田島に頼り切りでしたが、しのさんにその気があっても・・田島が・・どうもそちらは奥手のようで・・・・誘いみずを毎日かけておりますが・・」と尾張屋。
「やはりお武家様と町屋の娘では世界も違いますからな」と鍵屋。
「しかし昨今はそうしたものでもありますまい。商人が力を蓄え、武家以上の財力と見識を持つものも出始めましたからな」
「尾張屋様。ご自分のことをおっしゃっているようで」二人は笑う。
 十三人は飲み、食い、夜の更けるまで楽しく歓談していた。
煮売りやの北西の角からは、珍しく枇杷の良い香りが漂って来る。

 年が明けた睦月の八日、東海道を尾張に向かう宿場籠の尾張屋長三郎と、 徒で同行する飾り職時次郎の会話である。
「あの堅物の田島が、元旦に、とうとうしのさんと夫婦になる決意を述べおったわ。早籠で尾張の上役に知らせ、藩主様からも、事情察しでお許しが出てな」
 うれしいそうな尾張屋である。
「それは、それは。ようございました」と時次郎が返す。
「田島たちが落ち着いたらな、豪華な名古屋帯も扱ってもらおうかと、考えておるところよ。わしも、名古屋帯の江戸での出店を探しておった。再建した三ツ池屋が、軌道に乗ってからのことだがな。時次郎さんの尾張の仕事も片付く、弥生の末ごろには、また江戸の婚礼に来られような」
 権太坂の切通の両側からは、梅の香りが漂い始めていた。
                    
                         完
                 
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